2010年10月21日木曜日

10月21日(木)エピローグと参考資料

エピローグ


 ① お礼参り

 お四国の巡拝が終わった。特に最後の4日間は共に歩く同世代の3人の仲間に恵まれ、楽しい数日であった。結願し、「88番大窪寺」からどうするか、その夜の民宿「八十窪」で大きな話題となった。大窪寺の副住職は声こそ抑えておられたが「まったくその必要はない。」との主張であったし、他の札所では「あれは徳島の陰謀、霊山寺の営業戦略」とまで言われるご坊もおられた。

 大窪寺から1番霊山寺までは40キロをはるかに超える。二日がかりの距離である。誰もが満願という大仕事を成し得て、一息というところもある。私自身も霊山寺までの歩き二日間は「うーん」という感じもある。しかし他のお遍路がある宿で言った言葉、「1番に繋がって初めてお四国は輪で繋がる」という言葉が重く心にあるのも事実である。又遍路本には「お大師さまは今でも歩き続けておられるのだから、88番で止めるのはおかしい。」というのもあった。一番へのお礼参りを批判するお遍路は「昔はそのような習慣はなかった。」と言い張るし、他の札所は「お礼は同業二人の弘法大師にするのであって、1番にするのではない。」「するなら高野山である。」というのも大きな記憶にある。要は本心として「もう歩きたくない。」というのが心底にあるのだ。議論を取りまとめて僕が「新理論を今から開陳する。」と宣言し提案した。すなわち「ループにする意味は分かるし、意味がある。それに皆、やはり繋げたいという気持ちがあるのではないか。従って88番から10番切幡寺までの26キロを歩く。これでお四国は繋がる。10番から1番まではどのような方法でも良いではないか、いずれにしても1番には明日中に辿り着こう。」、これを受けて並河さんが「それは良い。それで行こう。10番から1番までは4人でタクシーで行こう」となり、決着した。八十窪の女将も「それが普通、皆そうしますよ。」と賛同してくれる。大いに盛り上がった満願の席であり、我々4人以外の満願者も三人おり、彼らも参加した宿の食堂は大いに賑わった。

② 10番切幡寺と1番霊山寺

10月21日(土)、6時30分、4人が揃って宿を出発。幾分リラックスしたもので気分は上々。コースは普通の舗装道路で4人が時に冗談を言いながら歩く。標識がすぐ香川県から徳島県に変わる。言って見れば「逆打ち」のルートであり、道を戸惑うこともあったが、11時30分無事「10番切幡寺」に到着。「重ね打ちの納経」を済ます。これで四国全土が繋がったことになる。あの暑かった8月9日、出発の2日目に打ったこのお寺の懐かしい光景をすべて思い出す。あれから3ヶ月ついにここまで帰って来たと考えれば、88番と同じように感無量なものがある。完全に歩き通して繋げた。このことに些かの誇りはある。勿論誰にも自慢できるようなことではないが・・・。

打ち終えた後、前回僕が昼食をとった「うどんや八幡」に皆を誘う。あの時は本当に暑くて中でどれくらい冷たい水を飲んだことか。今から11番藤井寺に向かって歩く英気を養った「うどん屋」である。ここのうどんはやはり旨かった。

タクシーを呼び、4人が1番に向かう。思ったより近く料金は5400円くらいで、完全に割り勘、時間も1時間はかからない。15時30分到着。1番霊山寺は今日も賑わっており、早速納経とお礼をお大師さまに申し上げた。何時もよりお賽銭は切幡寺と霊山寺では弾んだのは勿論である。祈念のお数珠を頂き、帰って来たノートに記帳する。間違いなく8月8日僕の字で書いた歩き遍路の出発ノートには僕の名前、住所があった。今日の日付を書き入れる。さすがに納経所のご坊もお店の女性も歩き遍路には敬意を示してくれているのが分かる。胸を張れる感じだ。これで一切終わったが特段言うべきことはないが、やはり良いものである。恐らく「いい顔」になっていたのではないか。御杖はお守りとして、最近はお返しせずに持ち帰る人が多いと言い、「御杖入れ」なるものが売られている。これも徳島の陰謀か、どうか分からないが結構存在感はあり、探したが僕の金剛杖はお手製のものであり、寸法に合うものが無い。遂に諦める。知人に作ってもらうことにした。

ここで皆とはお別れ、固い握手をしてばいばいとなった。僕は8月に来た鳴門西から高速バスで大阪難波に帰ることにした。坂東俘虜収容所跡地の傍を抜けて今度は上り車線側まで40分くらいで歩く。急いで帰る必要も無いのだが、何か脚が急ぐ。夜8時過ぎ天王寺に帰参。

③ 高野山参り

10月23日、日曜日である。当初は後日、ゆっくりと行きたいと考えていたが、何時時間が取れるか先のことは分からない。それに実現出来るかどうかも分からない。それにこういうことは早く済ませてきたのが僕の生き方であった。朝、決断し、ゆっくりと斎戒沐浴して仕度を整える。南海電車高野線特急9時発に乗る。ほぼ満員であった。

高野山は良い。本当に良い。昔、住金時代に行ったことはあるが今日は大きな目的がある。好天に恵まれ、紅葉には少し速いが空気は済み、肌に優しい日の光は僕を歓迎してくれている感じである。高野山では弘法大師は今も生き続けておられるとの考えでお食事も三度三度出される。丁度この場面に遭遇した。他のグループの案内ガイドが声を枯らして「皆さんは幸運だ」としゃべっていたが、これも運か。更に運というか、ご縁は続く。なんと昨日大窪寺で別れた二人の女性と奥の院入り口でばったりと遭遇する。共に気づいた我々はお互いが走りよって手を握ってとにかく笑う。ただ笑うだけであった。東京の田中さんは「だって、笑うしかないでしょう。」と言っている。こういうときに適当な言葉はない。笑うことが最も場面に合っているのだと思う。それにしても縁ですね。この女性二人組とは男性のNさんとは前からずっと宿が一緒で1週間共に居たことになる。不思議なご縁でした。

日曜日ということもあり、人は多く、特にお遍路姿のグループが目に付く。僕は普通の私服で来たが。叔母さんたちは白装束である。時代、時代の有名人のお墓を見ながら、奥の院で納経し、お礼を申し上げた。記帳を済ませ、納経帳もお軸の朱印も全て埋まった。もう何もすることはない。本当に全てが終わり、一つの「木村智彦お遍路物語」は完結したことになる。

高野山で何か記念のお品と思って探すが適当なものが無く、結局「お数珠入れ」を求める。数珠屋代佐衛門とかなんとかいうお店であったが、僕の数珠を見て「立派なものを・・。それは先達さんが持つものですよ、とかなんとか言われてしまった。「放っておいてくれ」と言いたいが、このお数珠しばらく使うこともあるまい。将来もう一度お四国に出かけるときのためにこの袋に入れて保管である。そして僕が死んだ時には大切な手作りの金剛杖と一緒にお棺の中に入れてもらおうと思っているのだ。


参考資料


 ① 宿泊所


  歩き遍路の宿泊の定義は幅広い。

 
・ 完全に野宿で通す人 寝袋などが必要なアイテム

・ 野宿と無料宿泊所を使う人(無料宿泊所とは善根宿,通夜堂、無料のお堂など)

・ 完全に宿を使う人(宿とは民宿、宿坊、ホテル等の有料宿泊所)

・ 宿と野宿と無料宿泊所を使う人


 今回の僕の経験でも人によって様々であった。それで良いし、そうでなければならないという理由はいまや見当たらない。時代と共に変遷して来ただろうし、修行者によって異なっていたに違いない。大昔は今日ほど民宿など整備されていなかっただろうし、野宿とか無料宿泊所を使うしか方法がなかったに違いない。大体高野聖の修行僧が宿で風呂に入り、ビールを2本などは有り得ない話である。それにしても空海の道に残る風化した道端の墓石、お地蔵さんなどを見ると旅に出て枯れ野に屍をさらし、遺体に菅笠を覆い、金剛杖を卒塔婆に見立てたお遍路は如何にも多かった気がするのだ。江戸時代も後期になれば、分限者の長者がお供を多く引き連れ、お四国参りに出たときは宿でゆったりと休んだ匂いも遍路道には残っているような気もする。様々なスタイルがあったからこそこのお遍路の文化は現代まで生き残ってきたに違いない。


 僕は完全に有料宿泊所を利用したが、結構年配者には多く、概して若者は野宿との組み合わせが多いのは至極最もである。有料宿泊遍路行は結構コストがかかるというのは事実であり、ある人が言っていたが43日間のコストは60万円位かかっているのはうなずける話である。僕が直接目にしたもので、車を改造して後ろに寝室を作っているものもあった。しかしこれは歩き遍路とは言えない。今回歩き遍路に拘っている人はやはり、徹底して拘っており、バスや、車は使おうとしないし、使えばその場所まで戻るくらいだ。僕の結論はどこで寝ようがお遍路はやはり、「1200キロを完全に歩き通すこと」に意義があると言うことである。僕は歩くことこそがお遍路であり、札所で納経することがお遍路ではないなと勝手に思うようになってきた。1200年前からお四国の修行は「歩き」であった訳だから今回も僕は歩きには徹底的に拘った。今これを貫き通してやはり良かったと思っている。複数の知り合った歩き遍路の方は「前回、少し車に乗ったところが気になって、その部分をやり直そうと思って来ました。」と言われていた。その気持ちが大変よく分かる。



② 有料宿泊所の手配について


 宿の手配は大切である。僕など風呂に入り、ゆっくりと布団で寝たいと考えている人間には死活の問題である。しかし科学技術の進歩はお遍路の世界にも革命をもたらしている。すなわち携帯電話の力である。今回の遍路行でも全ての人が携帯を所有している。

 大体、午前中の脚の進み具合で今日の宿をとる場所が高い確率で予測できる。僕も昼食後携帯電話を掛けっぱなしで、宿の予約を8月の巡拝ではした。このときに上手く予約が取れればラッキーであるが、運悪く一杯で取れない時は慌てる。一日30キロ弱で行程を設計するとしても、その地点が峠や山の中では論外で、宿のあるところはそれなりの町であることが多い。従ってその日は22キロで宿をとるか、逆に辛いのは40キロ歩くと言うこともあった。それでも宿が取れれば良い。問題は宿が取れなかった時のことである。


 こういう場合、最高の情報交換場所が民宿である。夕食時の決まり文句は「今日はどこから、昨夜はどこのお宿で、明日はどこまで、明日のお宿は」である。8月には僕は徹底してこれを利用した。それに加えて宿の叔父さん、叔母さんはネットワークがあり、紹介してくれる。しかしこれは注意もので必ずしも良いお宿でない時もある。僕は夕食後地図と参考書で明日の到達点を設計し、夜予約を入れることが多かった。予約が取れれば大いに安心できる。宿の予約も取れないでただ歩くと言うことも経験したが不安であり、大体戻って宿を取るとか、タクシーを使って宿を探すとかナンセンスであり、宿の手配はやはり前倒して行うほうが良い。


 しかし問題もある。予想以上に脚が伸びたとか、地図より距離が短かったとかでも、宿の予約を変えることは基本的には望ましいことではなく、あるご年配のご夫婦のお遍路は「もう宿ですべて規制されてしまって・・。」と嘆いておられたが良く分かる。如何に設計が大切かということである。


 有料宿泊所も優勝劣敗が顕著になりつつある。本旅日記でも少し触れているが、宿の評価は厳しいものになりつつある。まず食事、僕の場合は「もうトイレ」これに尽きる。飯など別にその晩、まずくとも死ぬわけでもないし、やせるわけでもなかろう。しかしトイレの問題は困る。気持ちを殺ぎ、何もしたくなる麻薬がトイレの臭いであり、設備だ。


 風呂が大きくて清潔なことは嬉しい。時に温泉宿やリゾート地のホテルなどを使ったが良かった。疲れが取れる気がしたものだ。ネットで宿の評判は喧伝されており、厳しい時代になったものだ。特に伊予や讃岐は四国との架橋で日帰りコースとなっており、今後とも宿の競争は激しいものになるものと予想される。


 宿坊について一言、辛口の評価が概して多いが、僕は評価する。薬王寺、岩本寺、善通寺と3/42の少ない経験であるが「良かった。」と思う。決して高くないし、料理もまずくない、清潔であり、何より、特典がある。朝6時から本堂の中でお寺さんと一緒に勤行でき、情報量も多い。課題は「団体客優先」で個人客には容易に取れないことである。


 民宿、ユースホステル、料理旅館、ビジネスホテル、シティホテル、観光旅館、宿坊、

スポーツランド、リゾートホテル、公衆温泉宿、温泉ハイツ、宿付き温泉センター等今回僕が利用した有料宿泊所であったが、それぞれ思い出があって良かった。偶然なったものではなくて、狙ったものである。ここにも様々なものにチャレンジする僕の気質が現れていると、今更ながら思う。考えてみれば60年生きて来て、これほど連続して他人の家に泊まるようなことはなかった。こう考えれば大変なことだったのだと思う。

日    程


平成十八年四国霊場88箇所巡拝計画表  前半の2国打ち


徳島県 阿波 発心の道場   札所 キロ


8月8日(火) 2国打ちの出発

        1番 霊山寺
        2番 極楽寺
        3番 金泉寺
        4番 大日寺
        5番 地蔵寺
                 1日目宿:遍路宿「寿」
8月9日(水)

        6番 安楽寺
        7番 十楽寺
        8番 熊谷寺
        9番 法輪寺
       10番 切幡寺
       11番 藤井寺
                2日目宿:「吉野旅館」
8月10日(木) 

       12番 焼山寺
                3日目宿:「なべいわ旅館」
8月11日(金)
       13番 大日寺
       14番 常楽寺
       15番 国分寺
       16番 観音寺
       17番 井戸寺
                4日目宿:「ワシントンホテルプラザ」
8月12日(土)
       18番 恩山寺
       19番 立江寺
                5日目宿:宿「鮒の里」
8月13日(日)

       20番 鶴林寺
       21番 太龍寺
                6日目宿:「龍山荘」
8月14日(月)
       22番 平等寺
       23番 薬王寺
                7日目宿:「薬王寺 宿坊」
8月15日(火)


高知県 土佐 修業の道場   札所 キロ


       番外霊場 鯖大師
                8日目宿:料理民宿「海山荘」
8月16日(水)
                9日目宿:民宿「徳増」
8月17日(木)   14k
       24番 最御崎寺
         25番 津照寺(津寺)
       26番 金剛頂寺
                10日目宿:金剛頂寺の麓の民宿「うらしま」
8月18日(金)
       27番 竹林山神峰寺
                11日目宿:民宿「浜吉屋」
8月19日(土)
       28番 大日寺
                12日目宿:「丸米旅館」
8月20日(日)
       29番 国分寺
       30番 善楽寺
                13日目宿:「オリエントホテル高知」
8月21日(月)
       31番 竹林寺
       32番 禅師峰寺
       33番 雪蹊寺
       34番 種間寺
                14日目宿:「スポーツパレス春野」
8月22日(火)
       35番 清滝寺
       36番 青龍寺
                15日目宿:「三陽荘」
8月23日(水)
                16日目宿:須崎のビジネスホテル「まるとみ」

8月24日(木)
       37番 岩本寺
                17日目宿:「岩本寺 宿坊」

8月25日(金)
                18日目宿:「ネスト・ウエストガーデン土佐」
8月26日(土)
                19日目宿:民宿「星空」
8月27日(日)
       38番 金剛福寺
                20日目宿:民宿「久百百」
8月28日(月)
       39番 延光寺     以上で前半の阿波・土佐の二国打ちは終了




平成十八年四国霊場88箇所巡拝計画表  後半伊予・讃岐の2国打ち


愛媛県 伊予 菩提の道場   26の札所 359.7キロ


10月1日(日) 2国打ちの出発

        (39番 延光寺)で祈願       25.8 k

        40番 観自在寺
                                                               一日目宿:門前近くの「山代屋旅館」0895-72-0001  
10月2日(月)   20 k
                     2日目宿:岩松川沿いの「三好旅館」0895-32-2107  
10月3日(火)   30 k
        41番 龍光寺
             2.6 k
        42番 仏木寺
         10.6k
                     3日目宿:民宿「とうべや」           
10月4日(水)
        43番 明石寺
         23.6 k

                     4日目宿:十夜ケ橋「オオズプラザホテル」0893-25-1100 

10月5日(木) 23.3 k
                     5日目宿:内子町旅館「ふじや」

10月6日(金)  15 k

        44番 大寶寺

          8.4 k
        45番 岩屋寺
                     6日目宿:45番手前民宿「古岩屋荘」0892-41-0431  
10月7日(土)   29.0 k
        46番 浄瑠璃寺
                     7日目宿:門前の「長珍屋」089-963-0280
10月8日(日)   0.9 k
        47番 八坂寺
         4.4 k        48番 西林寺

         3.1 k
        49番 浄土寺
         1.7 k
        50番 繁多寺
         2.8 k
        51番 石手寺
                    8日目宿:道後温泉「松山ユースホステル」089-933-6366
10月9日(月)    10.7 k
        52番 太山寺
          2.6 k

        53番 円明寺

         20.4 k

                    9日目宿:「月の家旅館」0898-54-2056

10月10日(火)   14k
        54番 延命寺
         3.4 k
        55番 南光坊
         3.0 k

        56番 泰山寺

         3.1 k
        57番 栄福寺
          2.5 k
        58番 仙遊寺
         6.1 k
        59番 国分寺
                   10日目宿:今治市「今治湯の浦ハイツ」0898-48-2000
10月11日(水)   20 k     まず60番は打戻りにして61番から打つ

        61番 香園寺

          1.3 k

        62番 宝寿寺

          9.6 k

        63番 吉翔寺
                   11日目宿:伊予小松駅前ビジネス旅館「小松」0898-72-5881
10月12日(木)朝から横峰寺を目指す 打戻り 20 k
        60番 横峰寺
        64番 前神寺
                   12日目宿:「湯之谷温泉旅館部」0897-55-2135 
10月13日(金) 28 k
                   13日目宿:「蔦廼家」0896-74-2025
10月14日(土)   17.2 k
        65番 三角寺
        
香川県 讃岐 涅槃の道場 23札所 152.8 キロ


       (65番 三角寺)
          19.2 k
                    14日目宿:民宿「岡田」0883-74-1001 
10月15日(日)
        66番 雲辺寺
          9.4 k
        67番 大興寺
        68番 神恵院
        69番 観音寺
          4.7 k
        70番 本山寺
                     15日目宿:「ほ志かわ」旅館
10月16日(月)   11.3 k
        71番 弥谷寺

           3.5 k

        72番 曼荼羅寺
          0.6 k

        73番 出釈迦寺

          2.8 k
        74番 甲山寺
           3.8 k

        75番 善通寺
                      16日目宿:お大師様ご誕生の「善通寺宿坊」    
10月17日(火)  7.7 k

        76番 金倉寺

        77番 道隆寺

          7.2 k

        78番 郷照寺

           5.9 k

        79番 高照院(天皇寺)
          6.6 k
        80番 国分寺
                      17日目宿:門前「えびすや旅館」087-874-0567
10月18日(水) 6.5 k
        81番 白峰寺
          5.0 k
        82番 根香寺
          11.9 k
        83番 一宮寺
                      18日目宿:門前「天然温泉きらら」087-815-6622   
        両親のお墓参り 円座町に向かう

10月19日(木)   13.6 k
        84番 屋島寺
           5.4 k
        85番 八栗寺
           6.5 k

        86番 志度寺
                      19日目宿:「旅館 栄荘」0878-94-0029
           7 .0 k

10月20日(金) 満願 結願を目指して最後の一日


        87番 長尾寺

           15.1 k
        88番 大窪寺
                       20日目宿:「民宿八十窪」0879-56-2278
10月21日(土)  お礼参りで10番切幡寺を経由して1番「霊山寺」に向かって
          43.8 k
10月22日(日) 満願 結願を記念して高野山へ

2010年10月20日水曜日

10月20日(水)遍路行 終に結願

伊予・讃岐二十日目(通算四十一日目)



10月20日(金) 遍路行    結願(満願)




 平成18年8月8日から始めた四国霊場八十八ヶ所巡拝も本日で打ち止めである。足掛け3ヶ月、前半の8月炎暑の中の阿波、土佐の二国打ち、10月1日から始めた、今回の伊予,讃岐の二国打ちも本日で結願となる。通算で41日、歩いた距離は1200キロとなった。思えばよく歩いたものだ

① 志度寺門前「栄旅館」朝食6時15分、出立6時40分頃、支払い、8250円。弁当を持たせてくれる。中身はおにぎり二個、ゆで卵一個、オレンジ一個、お茶缶一本、有り難い心遣いである。おもてなしとしては最高に近い内容を有する旅館であった。居て寛げる旅館、これが一番である。間違いなく寛げる旅館であった。


② まず6キロ、長尾寺を目指す。一人で先行する。道は分かり易く、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺までは直線上にあり、このルートは古来遍路道としては有名である。江戸時代や明治時代の道標や路傍の「お地蔵さん」など極めて多く、まさにお遍路の道を感じる。


③ 8時30分、87番「補陀落山長尾寺」を打つ。このお寺は珍しく江戸時代初期、高松藩主松平頼重公が関わって天台宗に改宗している。真言宗ではないのだ。遂に残すところ一箇所、最後の札所大窪寺だけとなった。満願とも言うがどうも結願のほうが一般的らしい。30分遅れて残りの組が到着。すべて同世代の歩き遍路でこの3日間、共に歩いているグループだ。余裕の僕がここで待ち、ここから共に結願を目指す。3日も寝食を共にすると連帯感が湧いてくるものだ。手を携えて満願を期すスタイルになる。僕はどうもこのような形は気恥ずかしいところがあって、「うーん」という気がなきにしもあらずだが、同世代の男性遍路が乗ってリードするのでそれに合わせる。悪くはない。


④ 長尾寺から大窪寺までは結構難所で女体山という山越えである。標高500,770メートルの中腹を縫う様に歩き、最後に標高445メートルの女体山を越えれば大窪寺に至る。山を越えるときに開けてくる光景はまさに涅槃の地が眼前に開けてくる神秘性を有しており、言われる「涅槃の道場」を歩きながら満願に向かうという雰囲気に相応しい。

⑤ 途中に遍路交流サロンというところがあり、遍路資料館としての資料も充実して準備されている。民間の木村氏という方の篤志で経営されているものであるが、大きな模型が等縮倍であり、八十八ヶ所すべてが配置されており、ボタンを押せば場所が分かるようになっている。この四国全土にある八十八ヶ所をすべて歩いて回って来たと思えば「よく歩いたな」とう気持ちにはなる。ここでなんと歩き遍路には証明書と記念のバッジを頂く。「道の駅」もあり、余裕の気持ちでお店を見たりして、ここを11時30分に出発する。


⑥ 此処からが前述した最後の難所であり、距離は7キロ弱、上りの道であるが山道ではなく、舗装されており、苦しいということではない。歩きもこれで最後と思えば、足取りは軽くなり、一山の頂上付近で昼にする。旅館の心づくしのおにぎりが嬉しい。時間は14時になっていた。16時前、遂に結願札所「医王山大窪寺」を打つ。宿願相成り、結願寺ともいう。どういう気持ちかと今後聞かれるかも知れないから正直に書いておこう。特段何もない。遂に済んだか、ここまで来たか、良くやったな、無事に済んで良かった、多くの人のお世話と激励のお陰、何より、同行二人お大師様のお陰であるという素直な気持ちはあり、大窪寺では特に念入りに納経をした。物の本にあるような、「涙が溢れたとか、感極まった」とかは僕にはなかったがそれでよいと思っている。なんとも言えない体の軽さ、心の落ち着き、自分しか知らない表現できない心のひだ、優しさ、寛容、こだわり、様々なものが溶け合っていっている感情である。声を大にして「やったー!」など言う気持ちはさらさらない。


⑦ 納経時に大窪寺のお方に色々とお話をお聞きした。面白い話が多く聞かされた。讃岐の頑張り不足、阿波の戦略性がやはりここでも議題であった。明日霊山寺にお礼参りする無意味さを散々聞かされたが1番霊山寺の論理には勝てていない。僕は行くことに決めた。それでお四国が輪に、ループになるのだ。最後まで歩くことを決めた。八十八番大窪寺からから一番霊山寺まで37キロもあるが、やって見ようと決断した。その後大阪に戻るわけだから明日は大変な一日になるが、しかし出来ない相談ではないと思ったのである。
⑧ 折角だから大窪寺の発行の「結願」証明書を2000円で発行してもらった。けじめです。これを頂いて僕のお四国遍路は終わった。門前の民宿「八十窪」にチェックイン。お祝いでお宿心づくしのお赤飯がついていた。新しくリニューアルされた立派な民宿である。決願祝いだからと言っても、それほどは飲めなかった。ビールは大瓶一本、缶ビール一本だから、何時もより少ない。すべて終わって少し拍子抜けした感じか。これで良い。
⑨ 大窪寺には弘法大師が錫杖を納められたという言い伝えがあって遍路を結願した人々が自分の金剛杖を納める場所があったが僕は一生自分の身の傍に置いておきたいとの願望が強く、どうしてもお納めする気にはならなかったのである。天王寺に持ち帰ることに決めた。これから先わが身をお大師様が守ってくれるという人もいる。例の最後同行した同年代の男性でお杖が坂道で真っ二つに折れた男性は絶対にこれを家に持って帰ると話していた。
⑩ このようにして僕の遍路行は終わったのである。男60歳で1200キロを完全な形で39日という期間で歩き通せたことを誇りにして今後の人生を力強く生きて生きたいと思った。同時にさてこれで僕の充電期間は終わり、また学校現場で修羅の道を歩かねばならないと心に確認しても何か体と心が軽くなっているのはまさしく遍路行の修行のおかげかとお大師様に感謝している自分に気付いたのである。










2010年10月19日火曜日

10月19日(火)遍路行後半戦 19日目 後一日で満願

伊予・讃岐二国打ち十九日目(通算四十日目)



10月19日(木)   源平合戦の古戦場を歩く



 両親の墓参りを済ませ、気持ちはすっきりした。後は結願(満願)まで今日と明日のみであり、今まで以上に一日を大切に歩きたいと思うようになってきた。名残惜しさが湧いてきているのだろうと思う。今日は高松市郊外、海に近い源平古戦場の屋島、八栗,志度を歩く。

① 天然温泉「きらら」で朝食。550円。宿代は食券切符を買って(4700円)チェックイン時に支払っている。大きなホテル形式であるし、ごちゃごちゃしていないし、快適であった。朝6時過ぎには朝風呂を楽しむ。7時25分出発。今日は27キロと結構長い。


② 11号線沿いに屋島を目指す。84番「屋島寺」が目標だが、屋島が何処にあるか市内では分かり易い。屋根のような平らな山は何処からもよく見えるのである。それを目標に歩けば良い。高松市中心地を抜ける。市内中央部に住んでいる実妹の家の側を歩き、徐々に市外に出る。当初から妹や親戚には内緒で始めた遍路行であったから立ち寄らずに過ぎ去っていった。その方が良いと考えたのである。今回の遍路行はただ四国霊場八十八箇所の札所を打って歩く、ただ歩くという目的で、親戚縁者を訪ねたり,観光地を巡るなども徹底的に排した旅にしたかったからである。しかし当然、妹は元気でやっているだろうか、今どうしているかな?と思うのは兄としての当然の情で、少し心苦しい気持ちもあった。


③ 11時30分、それまでの国道から一挙に急峻な山道になり、結構険しくて息が切れるが40分も歩くと屋島の頂上に出る。時間が短いのが嬉しい。ここが四国霊場八十四番札所南面山「屋島寺」だ。源平古戦場で義経一行が逆落としで攻めた古戦場から見える瀬戸内海の景色を楽しむ。かなり整備が進んでおり立派なお寺になっている。唯一この屋島寺はあのよう有名な鑑真和上が開基されたお寺で、754年朝廷に招かれた和上が奈良に向かう途中にこの地を訪れ山頂北嶺に霊場を開創されたと伝えられている。


ご詠歌は: 梓弓 屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武士(もののふ)


僕もこのお遍路行が終われば本格的に次の仕事に立ち向かって行こうと納経をしながら決意と覚悟を決めたのである。

④ 12時過ぎ下山。麓の「うどんや」で昼食。今日は今一つの味であったが観光地にあるうどん屋は大体このようなものであろう。下山道の途中は記念碑の山で、佐藤継信の墓とか安徳天皇行幸場所とか、まさに平家物語の世界を彷彿とさせる世界である。僕の大好きな情景である。源平古戦場の壇ノ浦を抜けて次は八栗寺に向かう。しかし下りも厳しかった。僕は一度滑って転んだ。同行していた同年代の男性も転び、その人はその時に金剛杖を真っ二つに折ってしまった。グループの4人は「お大師様が守ってくれたんだよ」と皆で言ったのだが、金剛杖が真っ二つに折れるのを目の前で見たのである。
⑤ 屋島寺を降りて、又小高い山に登る。標高223メートルで屋島の280メートルより幾分低い。八栗山の頂上に札所はある。参道を登る途中に面白いヨモギ餅屋があり、映画「男はつらいよ」のでロケに使われた場所だ。このときの主演女優は松阪慶子だと元気なお店のおばさんが言っていた。小休憩しヨモギ餅を食した。旨い餅であった。2時30分、85番「五剣山八栗寺」を打つ。下りが延々と続き、道は又11号線に戻る。琴平電鉄沿いに海の側を歩く。丁度志度湾を取り囲むようにお遍路道を歩く。屋島寺も八栗寺も雰囲気のあるお寺であった。距離は短いが札所は高地にあり、結構歩き遍路には厳しい涅槃の道場である。
⑥ 石工、石芸術、墓石等石で有名な高松市牟礼からさぬき市志度に標識が変わる。ここ志度は平賀源内の生まれた土地である。高松藩の米倉番をしていた平賀家は今日の旅館「栄旅館」の近くにある。16時、86番「補陀落山志度寺」を打つ。琴電志度線の終点に志度寺はある。これで今日は84,85,86番と連続して打った。納経帳もお軸も空白の部分は無くなってきた。後二つの札所で書くところはなくなる。よくも此処まで一つ一つ積み木を積むように来たものだと、我ながら感心する。納経帳もご朱印帳もお軸も無くさず来たものだと思う。肌身離さず持って歩いたからである。

⑦ 今日も昨日と同じ連れ、男2人、女2人、それに今日は同じ年代の男性が一人増える、満願を明日に控えて何故か皆さん、饒舌で明るい。今日の宿も明日の宿も僕が研究して決めたところにするという。少し「うーん」というところもあるが、まあ仕方がないか、旅は道連れ、世は情けと言う。肩書きもキャリアもここでは関係ない。実に素直な会話が楽しめる。しかしどうも昨日から咳が出て困る。別に苦しくはないが、変な咳が出る。風邪気味なのかも知れない。汗をかき、頂上では急激に体温が下がる。それに疲れもあり、おかしくならないほうがおかしい。

⑧ 「栄旅館」、期待を裏切らない旅館である。ここもお年寄りが二人でやっている。料理は素晴らしく、雰囲気も良い。さすがネットで激賞されている旅館である。何より心が温かく感じる。一般的に讃岐の人は人に優しいというのが僕の有している感じなのだが、県民性というのはあるのではないか。当に涅槃の道場という気がする。ここがポイントだ。広い部屋でお布団が二組敷かれていた。通常はこの部屋は二人使用の部屋か。洗濯をし、髭を念入りに剃り、満願の明日に備える。


⑨ 明日は大窪寺で泊まり、翌日徳島の1番霊山寺にお礼参りをするのが普通だという。3ヶ月前に遍路行に出た原点の札所である。土曜日の夜遅く大阪に戻り、出来れば、日曜日は高野山に参拝を計画している。その後家に仕掛かり中の焼き物の素焼き、釉薬かけ、本焼きが迫っている。その後又大阪に来て次の就職先を決めなければならない。どうも寝ていても咳が出る。持参したバッファリンを2錠飲む。夜の1時頃目が覚めたがその後はどうも落ち着いて寝られた。効いたみたいである。あと一日どうしても体を持たせたい。南無大師遍照金剛!




2010年10月18日月曜日

10月18日(月)遍路行後半戦 十八日目


後半十八日目(通算三十九日目)



10月18日(水) 遍路行  両親のお墓に参る



 今日は両親の墓参である。久しぶりの墓参である。敬愛する両親に会える。今日はそれだけしか頭にない。

① 6時朝食、出発6時20分。支払い7200円。確かに今一つの感じがする民宿「はなびしや」であった。4人の客すべてがそのように感じていると思う。決して悪い旅館ではない。掃除は行き届いており、清潔であるが「落ちつかない民宿」、この一言に尽きる。

② ネットでも誇張して書かれているらしいが、女将さんが少し、きつく思えるのだろう。「サロンパス嫌いの女将」で知られているらしい。お遍路が疲れた足の養生で使用するサロンパスの匂いが布団に着くのが嫌らしい。ある女性客が、チェックインしてすぐ風呂、風呂が終わったらすぐ食事、少しゆったりした時間を取りたいのに次から次と女将さんが決めると嘆いていたが、分かるような気がする。あまりにもかっちり、自分のペースで進めるのも考えものだ。皆が食べているときに明日の道筋ルートを立ったまま説明する。我々は座って食事している最中である。背が170センチはあろうかという高い人でこのような立ち振る舞いは頂けない。僕が「あれっ、おかしいな」と気付いたのは、朝起きたらすべての部屋の窓を開けて回っていた。神経質な人であることがすぐ分かる。お顔にぶつぶつが何か出来ており、僕はアトピーではないかと想像した。だから歩き遍路のサロンパスなど嫌うのではないか。食事中に「明日親戚に不幸が出来たから朝食は6時にして欲しい」とこれまた立ったまま言っていたが(すぐ出立して欲しいということ)、客商売の原則を踏み外していないか。僕には決して悪くはなかったが、僕はこの種の女性は苦手だ。気が一部強いところがあるというのではなくて、基本が出来ていないまま、大人の女性になっている感じだ。


③ 遍路本では「香川の遍路ころがし」といわれている古道を通って81番「綾松山白峰寺」を目指す。標高300メートル、距離は6キロ強、順調に山登り、言われるほど厳しい山道でもない。阿波、土佐を経てきた者にはこれくらい何とも無いのである。朝の9時に打ち終える。女性陣が山門近くで売っていた「いちじく」を購入しお茶。野性味溢れるいちじくの味でした。今日は宿で一緒になった63歳の男性、東京、熊本の女性どちらも60歳近辺、3人で共に歩く。続いて82番「青峰山根香寺」、標高365メートル、距離5キロ、風は涼しく高原の日陰の歩きは快適である。お年寄りがきのこ取りに来ていた。同世代の歩き遍路の話題は豊富で会話しながらの歩きも久しぶりで面白い。11時40分、82番を打つ。到る途中今度は男性陣が峠の茶店でおでんをご馳走。香川はおでんを売るお店が多いのです。

④ 1時30分、山道を下り、JR鬼無駅まで到着。小さなうどんやで昼食。やはり旨い。ぶっ掛けうどんを食す。2時頃飯田町遍路休憩所で呼び止められしばし休息。大きな蜂蜜漬けの梅干とお茶のお接待を受ける。新築間もない建物で記念に写真を取られる。残り6.6キロピッチを上げ16時30分83番「神豪山一宮寺」を打つ。父は国家公務員であったが定年後母の実家近くに家を建ててそこで余生を過ごした。僕の妹はここ高松市に嫁ぎ、親戚縁者も近辺には多く、長男の僕としては安心ではあったが父の複雑かも知れない心の奥底は今となっては伺い知れない。両親が晩年過ごした家はこの一ノ宮寺から近いのである。
⑤ 今日も蒸し暑くて低いとは言え山越えがあったりしてしんどい歩きであったが早めに計画をすべてこなし、今日行けるなら今日中に両親のお墓参りと考えていた。勿論同行してくれている歩き仲間の他の3人には言えることではない。明日は結願一日前、歩く距離も長い。両親の側まで来ているのに、お墓に行かず、ビールを飲むのはまずいと考えたのである。16時50分、一宮寺から10分の天然温泉「きらら」に投宿。最近出来たらしいが、大きな公衆浴場で温泉を掘り当て、別棟に4階建てのマンションを併せて購入し、ここを宿泊所として改造したものだ。従って部屋はマンション作りである。まだ新しい建物で快適である。炊事設備も付いている。泊り客は歩いて2分の温泉まで行くことになる。夜は2時まで、朝は6時から営業しており、近隣にお住みの方で天然温泉に来る人は多い様子だった。

 ⑥ ここで皆と別行動とし、僕は荷物を整理してタクシーを止めて、両親のお墓に向かった。隣町が「円座町」で、ここで両親は家を建て、過ごした。母の実家はすぐ側にある。ここ「きらら温泉」から車で10分の所にお墓はある。見慣れた光景を通りすぎ、お墓に着く。墓石を洗い、ろうそく,お線香をともし、しばらく両親の墓前に親不孝を詫びる。涙が出てきた。両手でお墓を抱いてしばらく佇む。気分も落ち着き、待たしていたタクシーに乗り、僕が両親の葬儀を出した家の前を通って貰い、宿舎に帰る。家は今もそのまま、木村の表札がかかったままである。この近辺は親戚、知り合いが多い。外は薄暗くなってきており、僕の四国遍路も実質これで終わったかなという感慨が湧いてきた。温泉に入り、ビールを思いきり飲む。さあ、明日は源平合戦,屋島のお寺だ。

2010年10月17日日曜日

10月17日(日)遍路行後半戦 十七日目

伊予・讃岐二国打ち十七日目(通算三十八日目)


10月17日(火) 遍路行   遂に高松市に入る



 善通寺において久しぶりの宿坊を満喫した。今日も五つの札所を打つ計画であり、本日の最後の目標札所は80番国分寺である。母の実家に最も近い札所である。遂に高松市中心部に入ることとなった。僕の第二の故郷である。感慨深いものがある。

① 善通寺についてもう少し、774年、地元の有力者,佐伯善通卿と玉寄御前の子としてこの地に弘法大師は誕生した。幼名は「真魚」(まお)。神童として謳われ、多くの逸話が残っている。31歳で唐に渡り、密教の伝授を受け、帰国後最初に作ったお寺がここ善通寺である。その後高野山、東寺を建立。とにかく今日の日本の形を作った英傑、偉人,先達、思想家、宗教家、経世家、医学、文学、書道家などなど、すごい人物で、このような当に偉人を出した「四国はえらい!」と思う。何故なら「空海を生んだ土地だから」と私は言いたい。日本が世界に誇れる人間の一人だと確信しているからである。今から1200年前のことで、脈々と空海の教えが今日行き続けているのがとにかくすごい。


② 6時から朝の勤行があり宿坊宿泊者の特典とも言うべき利点で僕も出席したが、20人のお坊さんと共に唱えるお経は心地良いものでした。それに100人を超える団体のお遍路さんもいるからそれは壮観であった。お大師がお生まれになったという地下を拝見でき、大師のお声を現代に蘇らせる試みがあり、直接弘法大師のお声を僕は聞いたのである。支払いは昨夜で5800円、朝食7時、出発7時15分。清潔で快適な宿坊でした。思い出に残る善通寺でした。


③ 金比羅さんは善通寺のすぐ側であるが、今回は外し、とにかく先を急ぐことにした。とにかく今日は結構しんどい計画で、8時30分76番「鶏足山金倉寺」、9時30分77番「桑多山道隆寺」を打った。ここで善通寺市を離れ、丸亀市に入るのだが何か快調で、10時45分には丸亀城の大手門に入り天守を見上げることが出来た。時間の関係で天守に登れないのが残念であったが素晴らしいお城を間近に見ることが出来た。竜野城主京極家が1630年初頭に再建したお城と書いている。


④ 一風変わった「土器川」という名前の川を渡れば宇多津に入り、ここも室町時代から管領細川頼之の領地として有名な歴史ある町である。丁度国道沿いに人で超満員な「うどんや」を見つけたので昼時でもあり昼食にした。お店の名前は「かな泉(せん)」と言い、確かに腰のある太い麺で大変に旨かったと思うが、香川県の讃岐うどんは大体何処でも美味い。


⑤ 14時15分、79番「金華山高照院」を打った頃が最も蒸し暑く気温は高かった。途中の茶店で冷えたところてんを食す。美味であった。ゆっくりとは出来ず次の目的地である「国分寺」に急ぐ。33号線の標識は遂に坂出市から高松市に変わたのが15時45分の頃である。これで先が見えてきたのでほっと一安心である。高松市国分寺町と地名が変わった。母の実家はここから直線距離で3キロもなく。親戚も多くこの近辺には居ます。何か両親を思い出して目頭が熱くなってきたのである。
⑥ 16時15分苦労したが遂に80番「白牛山國分寺」を打った。立派なお寺であった。天平十三年、聖武天皇の勅命で行基菩薩が開基した讃岐の国分寺であるが、戦国時代に長宗我部の兵火で本堂と鐘楼を残して消失したと言われている。札所も遂に80番台に乗り、後残すところ、八つの札所のみとなる。宿は門前の「えびすや旅館」で、気持ちよく迎えて貰った。香川に入って思うのだが、とにかく町や市が次々と変わっていく。高知や伊予は行けども、行けども町の名前が変わらなかったが、讃岐は飛ぶように変わるのである。それ故か、歩くスピードが速くなったような気がするのである。決してスピードアップをしているわけではないのだが、変わり行く町名につられて自然に脚が出ている感じなのである。今日もかなり早いペースで歩いたと思う。あっと言う間に過ぎ去る涅槃の道場讃岐の国ということである。
⑦ ここで昨日の旅日記の解答を記しておきたい。常識ある知識人は大体すべての人が『香川』と答える。僕もそうでした。ある比率で「愛媛」と答える人がいます。それは自分が遍路をしていて「良い思いをしたから」が理由の大半です。しかし答えは「徳島」です。四国霊場を牛耳っているのは実は徳島で1強3弱と、ある札所の御坊が言っていました。すべてが徳島で決められ、徳島は良いとこ取りをするというのです。勿論、道後の石手寺、善通寺など個々には有力なお寺もありますが、総合的には徳島らしい。東予、香川などは本州との橋が出来、日帰りになります。香川に至ってお遍路で言えば、先に3国でかすり取られた後しかないとその和尚は嘆いていました。とにかく「山持ち」が強いとのことです。大きな山を有している寺院は実入りも大きいらしい。以上の答えは数箇所の札所の責任者から僕が直接聞いたのですから、間違いはないのではないでしょうか。勿論善通寺は活気がある事はありました。しかし他の札所での評判は今一つです。いくら霊場の事務局があると言っても「自分のお寺が第一」だと非難しているのです。真言宗は「善通寺派」「智山派」「豊山派」「高野派」等々分派が多い。お大師さまも嘆いておられるのではないか。高知のことは誰も論評しないくらい話題にならない。様々な見方があって面白い。





2010年10月16日土曜日

10月16日(土)遍路行 後半戦 十六日目

伊予・讃岐二国打ち十六日目(通算三十七日目)



10月16日(月) 遍路行   善通寺の宿坊に泊まる



 昨日の頑張りもあり今日はゆっくり出来る。空海の生まれ育った場所、善通寺で今日は寝ることが出来るのだ。善通寺の宿坊の予約が取れたのである。幸運であった。“お昼にはおいしいうどんでも、食うかい?(空海) ごめんなさい、お大師さま。”

① 昨日の日曜日は死ぬような思いで歩いた。しかし残念なことに遂に忘れ物をしたことに気付いた。先には民宿に時計を忘れ、幸運にもこれは宿のご主人がすぐに気が付いて届けてくれたから、これは助かったが今度のものは何処で失ったか分からないから出てこないし探しようもないのだ。内子町で買った内子座の勘三郎のポスター、ここまで苦労して持って歩いていたが遂に忘れた。恐らく昨日の70番本山寺であろうが自信は無いし、確かめに戻ることなど考えられないことである。思案の最中で完全に忘れた。ポスターのお代金の1500円は良いとしても此処まで一緒に来たのに、残念至極だ。でも不思議に気持ちはサラッとしている。こだわりを無くする、仏の教えが身についてきたのか。背負う荷物を失って返ってさばさばしたような気持ちもある。


② さて今日はゆっくりとできる。朝は7時45分出発、最も遅い宿出である。支払い7000円、ペットボトルのお茶をお接待に頂く。おかずが多くて食べられないくらいだった。9時には71番「剣五山弥谷寺」(いやだにじ)を打つ。なかなかどうして立派なお寺で、山の上にあり、なんと階段が533段も。参った。汗が吹き出てきたのである。しかし手すりが金属で出来ており、そのヒヤリとした汗まみれに体には感覚がとても良い。こういう繊細な感覚が僕の持ち味だと思っているが。参道には俳句茶屋というのがあって、こういう句が書いていました。

 
焚火の輪 女の炎 ふと見たり

 
良いところをついていますが・・・僕なら  


焚火に見る 女の情念 芋を焼く  


駄作ですかね!

③ 昨日は観音寺、今日は善通寺、さすが香川県です、地名にお寺がついています。近くに集中しているのが嬉しい。続いて72番「我拝師山曼荼羅寺」(がはいしざんまんだらじ)、73番「我拝師山出釈迦寺」(しゅつしゃかじ)、少し歩いて74番「医王山甲山寺(こうやまじ)」を打つ。それぞれ特徴があって良いし、第一名前が素晴らしい。丁度12時になり、今日のお昼には讃岐うどんと決めていたのできょろきょろ探していると丁度次の札所に行く途中に格好の手打ちうどん屋があったのでそこに決めたのである。宮川製麺所と看板があり、専用の大きな駐車場があった。製麺所がやっているうどん屋がお勧めとは前から知っていたし何より昼食時に客で一杯になっているかどうかがポイントである。

④ 客は一杯、外にベンチがあり、そこで食べている人も居たくらいだから相当有名なうまいうどん屋なのであろう。良いところを見つけたと僕は喜んだのである。中は煩雑で、きれいとは言いがたいお店ですが、旨いし、安いし、最高でした。セルフです。うどん玉2個で卵、茄子、かぼちゃのてんぷらを自ら選択トッピングして390円、文句は一切ありません。これが本格的讃岐うどんの食べ方です。帰りには何とうどん屋さんからお接待で紙袋にいれた飴を頂きました。お遍路が入っても誰も気にしませんし、まったく普通の光景なのでしょう。さすが讃岐です。

⑤ 次は遂にお大師様が生まれたお寺、75番「五岳山善通寺」、13時着。いやー、その伽藍の広さに驚いた。素晴らしいお寺です。高野山,京都の東寺、ここ善通寺を大師三大霊蹟というそうですが、ここには四国88ヶ所霊場の本部事務局が置かれていることを知りました。さっそく僕はそこを訪ねた。こういうところが僕の性格の一部で、これほど有名になった四国遍路を仕切っている本部事務局とはどのようなものか自分の目で確かめたいのである。お話を色々お聞きしかえり際にお遍路のポスターを頂くことになった。日本全国駅などにPRで張られているポスターである。「人生は遍路、魂の旅」とあった。全くこの通りで僕はこれだけはどこかに置き忘れないように決意したのである。

⑥ 納経を済ませ、宿坊に行った。取れたのはたまたま運が良かったというだけのことで、自宅から電話して予約を入れるにも一杯だと断られましたが、昨日のこともあり、電話したら何とか「OK」だったのです。話している電話の奥で「もう良いだろう、」何やら相談しています。要は団体優先で個人は後回しなのだと瞬間思いました。それはそうで、広い部屋に何人もの団体ツアー客を泊めるか、一人の個人部屋にするか、大きな実入りの差になる訳で、あのタイミングでしか取れなかったのだと思う。運が良かったのである。


⑦ 多くの僧が働いており2交替性の勤務でお坊さんも慣れたものでした。頭に髪が無いことだけが違いで、他はホテルの勤務員みたいで機能的でしたね。部屋は清潔で大きな温泉があり、安くて広い部屋をただ一人で使うことが出来た。ただ食事は幾分貧弱で、部屋にテレビはなく、食べたら寝るしかなかった。幸い僕には旅日記があり、コンセントの電気を使って、遍路行を書いて時間をつぶした。ビールも自動販売機で買って食堂に持参するのであるが、束縛も無く良い宿坊であった。明日は6時から朝の勤行があり、これも楽しみであった。残念ながら風呂は夜9時でお仕舞いで、寝る前に一度お風呂に行こうなどは基本的に出来ない。


⑧ ふと僕は思ったのである。霊場88ヶ所のうち、総合的に考えて何処の国、すなわち、阿波、土佐、伊予、讃岐の4国で何処が一番力を有しているのかということである。政治力、経済力、とにかく総合的に考えて何処の県がもっとも力があるのか、力を入れているのかという疑問である。明日は普通のペース30キロです。札所は76番から80番の国分寺までで遂に札所は80番台に乗ります。88番が結願ですから本当に大詰めになって来ました。涅槃の道場、讃岐香川は何かあっという間に過ぎそうな感じです。










2010年10月15日金曜日

10月15日(金)遍路行 後半戦十五日目

 伊予・讃岐二国打ち十五日目(通算三十六二日目)

10月15日(日) 遍路行   讃岐に入る、涅槃の道場とは

 三角寺を打ち、伊予は終えた。これで阿波・土佐・伊予の三国打ちが終わったことになる。残るは遂に僕の第二の故郷、讃岐の国、遂に香川県に入る。雲の辺りの寺と書く66番巨ごう山雲辺寺を越えれば又新たな世界が開けるか?雲辺寺、行政庁は徳島県であるが、四国霊場としては香川県に入る。香川県讃岐は涅槃の道場と言う。煩悩の火を消し智慧の完成した悟りの境地を涅槃と言うそうだがこの最後の道場を通じて僕がそのような境地に到達するとはとても思えないけれども、とにかく頑張ってみたいと思う。

① 民宿「岡田」は良い宿であった。親父さんが良い。連れ合いを7年前に亡くされ、一人で頑張ってきた、この世界では有名なお方である。お遍路の事は何でも良くご存知である。僕に親しみを感じてくれたのかあれこれ世話を焼いてくれる。僕の持っている小型のパソコンがいたくお気に入りの様子であった。この世代はなんでも小さいものに感動するところがある。「これで何でも出来るのか」と興味深そうに眺めていた。


② 昨夜の夕食も親父さんが仕切る。大きなエプロンをしてご飯は自分がよそうのである。山盛りにしてよそう。息子が定年で福岡から帰ってきてくれたと喜ぶ。一安心であろうが、宿の仕切りはまだ手渡さない。おそらくこれを取ったら「がっくり」と成るものと想像され、息子のお嫁さんも親父さんの言うなりにしていた。息子ときたら親父さんが来たら余所へ行く。一緒に居ようとしないのだ。ここが面白い。「とうべや」の親父ほど「こわもて」なところはないが、共通して二人とも良い年を取った老齢期に差し掛かった男の味わいがそこにはある。僕もそうなりたいと思った。


③ 実は大きな問題が発生した。ことの起こりは親父さんが、「民宿岡田からの歩き遍路の80%は明日、雲辺寺、67番「大興寺」68番「神恵院」69番「観音寺」までは行く。これが普通だが、ちょっと足の強いお人は70番「本山寺」だ。今までの最高は71番「弥谷寺」の前までというのがあったがこれは例外だ。僕に向かって「おたくの体格は立派で本山寺まではいかなくては」というのだ。もともと日曜日は休息日にしてハードな計画を組んではいない僕だがこの親父さんの言葉には少し押されたのである。長い間民宿の親父をやればこのような言葉が出てくるのだ。プロである。


④ しかし問題はこれではない。食事後立てた計画表を見ていたらなんと明日の宿はダブルブッキングしていることに気付いた。『一大事』である。宿に電話して確認すると間違いはない。67番大興寺の側の「民宿おおひら」にはちゃんと予約が入っており、弥谷寺側の温泉宿泊所にも予約が入っている。それでその後の予約がなされており、一日ずつ日にちがずれていくことになるのである。大きな僕の失敗であった。10月の本格的遍路のシーズンを迎え、今更旅館は変えられない。8月の真夏の遍路においては当日の朝でも民宿は確保できたが10月にはそうもいかのである。どうすればよいかの答えは一つで、2日分を1日で歩けばスケジュールが合ってくる。最高峰、雲辺寺の山を越えて弥谷寺まで行けるか。40キロ近い距離となる。


⑤ 6時25分親父さんの見送りを受けて出発、7600円。おにぎりを持たせてくれる。宿の前から通りのかなた、曲がり角で僕が見えなくなるまで立って見送ってくれていた。別れる時僕はおじさんときつい握手をした。その手はごつごつとしていた。親父さんに「あと10年頑張らなければ」と言うと、親父さんは天に指差して「もう近いよ」と笑いながら返してくれた。「予定を変えて今日は行ける所まで歩くよ」。と僕は最後に言って歩き出した。気合が徐々に入ってくる。これが出来ないと今後の予定が大変なことになる。標高800メートルの上り、完全にこなし、8時50分到着。快調な出足である。標高差400メートル距離6キロを2時間25分。下りは標高差700メートルを1時間で下る。さすがに舗装道路に立ったときはひざががくがくして雲の上を歩いているようであった。11時67番「小松尾山大興寺」を打つ。あとは只管国道沿いに観音寺市を目指す。ここには側に並んで二つの札所神恵院と観音寺がある。
⑥ 気温は高く汗がひたたる。気持ちの焦りもある。雲辺寺くだりで無理をした膝もしばらく歩けば調子が出てくるが徐々に疲れを感じるようになる。しかし本当に自分は元気、健脚、頑健と分かる。12時15分親父さんが作ってくれたおにぎりを無人の祠みたいなところでほおばる。妙に親父さんが懐かしい。休む間もなく出発。観音寺が近づくに連れて車の量も多くなり、人出が多い。そうだ、今日は日曜日、町は秋祭りである。お太鼓で込み合う中、菅笠を目深に被り、時代劇俳優みたいに人ごみの中を幾分前かがみで通り抜けていく。14時30分68番「琴弾山神恵院」、69番「七宝山観音寺」を連続して打つ。


⑦ 次は70番七宝山本山寺、今の時間なら十分行ける距離である。しかし計画の71番「剣五山弥谷寺」は更にそこから11キロ先、今日は夜の8時頃まで歩くことになるか。とにかく本山寺で止めるか、思案のしどころであった。しかし相当に足、特にかかとが痛くなってくる。筋肉疲労だと考える。16時過ぎ、ようやく「70番本山寺」を打った。親父さんの言っていたように歩けた。年は年だが体はまだ若い。老け込む年ではない。多くの若者遍路に僕は負けていない。自分に言い聞かせる。しかしこれから11キロはさすがに無理な感じで、明日以降を考えれば今日無理はできない。それに元々明日は75番善通寺で余裕を取っており、無理は必要ないと考え、今日の宿を探すこととした。結論的には弥谷寺まで8キロの国道沿いの「ほ志かわ旅館」を取ることになる。そして運よく明日の宿は善通寺の宿坊が取れた。明日は空海が生まれた敷地内で寝られることになる。今日頑張ったお陰であり、我が身の運を感じたのである。


⑧ うす暗くなった夕方6時前「ほ志かわ」旅館に到着、今までで最も遅い宿入りである。ここも三代続いている老舗旅館で大きい。ところがこの旅館も三婆(ごめん)でやっている。大女将90歳、女将65歳、女中頭(といっても一人だが)72歳、この三人である。広い旅館で設備もしっかりしているが、隅々は汚い。掃除の手が行き届いていないのだ。でも婆の作る料理は旨い。僕は好きだ。風呂も大きく、酷使した足を丁寧に洗い揉んだ。8時のNHKに間に合った。テレビでは山内一豊は松方弘樹演じる家康に完全に食われていた。

⑨ 今日は何もする気にならない。疲れきっている。酷い日曜日であったが、民宿岡田の親父さんの一言がなければ大変なことになっていた。「お客さん、予約は入っていませんよ。ちょっと待って。きのうじゃないですか、昨日の予約だったですよ。悪いのですが今日は満杯です。」と言われたりして。今日も忘れられない「遍路道を行く」だった。