2010年10月2日土曜日

10月2日(土)遍路行 後半戦二日目

後半二日目(通算二十三日目)
10月2日(月)   有名な「三好旅館」に宿泊

 伊予の国最初の宿泊場所、愛南町の山代屋旅館を気持ち良く出発したのは良いがとんでもない恥をさらすことになった。後ろから呼び声がするので振り返ると宿のご主人が息せき切って追いかけてくる。大切な数珠と腕時計を忘れたのである。お数珠は勿論だが腕時計は歩くペースや投宿のタイミングを計る一人歩きの遍路にとっては必需品である。携帯電話をいちいち開いて時間を確認するのは面倒臭いのである。特にこの腕時計は今回の歩き遍路で大きな文字盤のものを新しく求めたものだけに、初日からこのような事態になって油断と気の緩みを大いに反省したのである。



① 朝食6時30分。面白い出来事があった。食べ終わった頃、若い娘さんが僕一人食べている食堂に入ってきて、僕のジャーを持って行こうとする。仕事に出かけるため、家族より早く食事にするらしいが、ご飯はお客さんが食べたものを流用するらしい。客は一人だし考えて見ればお客と家族分を一緒に炊いたほうが省エネだし旨く炊けるわけだ。でもなんとなく面白かった。若いお嬢さん、悪びれたところもなく「ご飯持って行ってよいですか?」と。昨日からお世話になっているご主人や奥さんは出て来ず娘さんにやらせるところが面白い。「ああ、良いよ。もう済んだから。それにしても朝が早いね」と僕。


② 支払い7650円。7時出発。ところが又小事件である。後ろから「お客さあーん、お客さん」と呼ばれる声がする。ご主人が腕時計とお数珠を持って追いかけてくるのである。初めての経験、宿に忘れ物とは!当然であるがお遍路さんにとって金剛杖と数珠は極めて大切なものでそれはお大師様との同行二人だからである。旅館の入り口や玄関には絶対置かず必ず部屋にもって行けと物の本に書いているのだ。だから僕も部屋の最も上座の良い場所に置くようにした。床の間があればそこに置くのである。お杖はきれいな水で洗浄すべきとも書いている。

③ 56号線をただひたすらに。56号沿いにある多くのドライブインやレストランはいまや多くが廃業となり、中には廃屋と化しているところもある。バブル時代の産物か。しかし一軒だけ営業をしている喫茶軽食のお店があった。その名を「ことぶき」という。結構寿を使ったお店は多い。「寿提夢」というのもあった。金剛杖のカバーには「寿」の文字が入った古代裂を使っている。僕は寿という字に縁が深い。大変結構なことである。


④ 昨日は松尾ルートを選択しなかったので今日は山道、昔の遍路ルートをとった。「柏坂越え」という。この遍路世界では有名な峠越えである。56号線柏内海から国道を離れて山道に入る。標高460メートルの山越えである。良いんだな、感じが。「柳の水大師」「清水大師」と馬の背を歩き緩やかなくだりが続き、津島町大門に降り、又56号線につながる。道中の光景は美しく既に秋の花々が目に入ってくる。田園の風景は日本の原風景である。この道を行けば「宇和島市」に入る。


          心を洗い 心を磨く遍路道 痛みや疲れはあり難きぞと思う
 
読み人知らずとあったが良い歌である。遍路道にはこのような和歌などを書いた札が多くある。僕は気に入ったものをメモに記録していく。

⑤ 11時35分山の頂上、標高500メートルでとった昼食と眼前の南宇和の海の素晴らしさは忘れられない。風がとてもやさしく気持ち良い。口、鼻から入った風が皮膚から抜けていく感じだ。体を風が通り抜けていくというのはこういう事か?何時までもここに居たいと思った。12時30分までなんと1時間もここに居座ってしまった。

⑥ 56号線に戻った最初のお店Aコープというお店の前で一人の青年が僕の前に現れる。人恋しかったのであろうか、話しかけてくる。良い感じの青年だ。歩き遍路で25歳、9月の中旬に始めて野宿で通している。家は彦根,高校は彦根東、龍谷大学に進み、東京に就職したが辞めて故郷に帰り、四国巡拝に出た。本人曰く、「フリーター」といっているが通訳の仕事をして生計を立てたい希望はあるらしい。ハンサムで礼儀もわきまえた青年、こういう若者を僕は好きである。彼は津島町の無料宿泊所を狙い、僕は有名な「三好旅館」に向かう。1時間共に歩き、気に入った僕は今度旨い昼飯でもご馳走するよといって岩松川沿いの三好旅館前で別れた。

⑦ 三好旅館、4代続く老舗旅館である。昔は3階建てであったが、近所が火事のときに心配となんとか言うので今は2階立てに直したそうだがもったいない。大学の教授が調査に来るくらいの風格ある建物である。実は三好旅館はその料理の旨さと品数の多さで遍路本を賑わせており、僕もここを選択した。しかしやはり料理だけでは人は来ない。経営者のお人柄だと思った。評判の良い民宿、旅館はやはり経営者の人となりではないか。賄いのおばさんも女将さんも良い人であった。女将さんは名家のお嬢さんでお嫁に来たときは「卵焼き」一つ出来なかったと年取った女中さんが言っていた。お嬢さん育ちの人であるがご主人が7年前に脳梗塞で倒れた後からは「自分がこの家を守らねば」と思って頑張っているとのこと。しかし立ち振舞いには育ちが出るものだ。僕はこういう女性は好きだ。やり手婆はあまり好きではない。お嬢さん育ちでどこか抜けたところがあるほうが良い。

⑧ 今日も客は僕一人であったが5時半頃飛込みで一人の男性が入ってきた。後で知ることになるが、東京は荻窪の人、70歳、山歩きが好きで8月、9月、今回と3回目の区切り打ち。夕食を共にする。男も70歳となると自由気まま、誰に気兼ねもなく、好きなようにして生きているらしい。決しておかしい方ではないが僕とは根本的にDNAが異なる人とみた。話も普通なのだがどうもいささか違うのだ。めがねに鎖をつけて首からぶら下げているが、これも僕の波長に合わない。洗濯もしないのだ。明日の着るものはどうするのだろう、入らぬ心配まで僕はしてしまう悪い癖がある。

⑨ 獅子文六が住み多くの作品を残した町、大うなぎで有名な岩松川が町の面積の大半を占める津島町は静かな町で昔は交通の要所であったが今は取り残された愛媛県の南端の町である。静かに夜は更け、歩き2日目の僕にとって三好旅館は疲れをとる快適な安らぎの場所となった。ようやく旅日記を書く気分になってくる。昨日との二日分であるが書くことが苦にならない僕には1時間で十分である。それよりも写真の整理が大変なのである。明日は四十一番札所「龍光寺」前の民宿稲荷までの歩きである。四十番観自在寺から四十一番までは山越え51キロの道のりであるがすでに今日25キロを歩いているので心配ない。二日目も順調であった。