2008年11月17日月曜日

11月17日(月)教養ということ

・ 「教養」がないと見られるくらい恥ずかしいことはない。特に漢字の読みを間違えるとその後遺症はしばらく続く。書き間違いより応える。僕などの「生き様」を気にする性格では特にダメージが大きい。
・ 「踏襲(ふしゅう)」「未曾有(みぞうゆう)」「頻繁(ひんざつ)」などと麻生総理が使うといって最近のマスコミは皮肉っぽく報道している。しかし麻生さんは一向に平気で「読み間違え」とシャーシャー言っているだけだからたくましい性格で、だから政治家が務まるのだろう。
・ 今朝の産経新聞には曽野綾子さんがコラム欄に「総理の日本語が貧しくて漢字を読めないようでは困る。マンガ愛好を売り物にしているとこうなるという見本である」と木っ端微塵に切り捨てていた。笑ってしまった。そこまで言うか。
・ 昔、私の勤めていた会社の上司が社員を集めての何かの話のときに「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と何回も使って「エー」というどよめきが出たくらいだから特に組織の長は気をつけなければならない。「まんぽ」と読めないわけではなかろうが「まんぱん」だろう。勝手に読み方を変えて貰っても困る。
・ 話をしていても「品の無い言葉」をわざと使うのが「てらい」がなくて良いという向きもあろうがそれは不味い。それに間違った言い方もその人間を良く現す。兵庫県の井戸知事が「関東大震災は関西のチャンス」というような使い回しで「チャンス」を使い「ぼこぼこ」に叩かれたがこれなどは散文的役人出身だからだと私は思う。チャンスなどは奥行きのない言葉だ。
・ 案の定、東京都の石原知事は「木っ端役人の使う言葉云々」といって批判していた。橋下知事は「くそ教育委員会,ざまァ見ろ」といい、石原知事は「閉経した女性は世の中の害」とか何とか言って訴訟騒ぎになった。
・ しかし麻生総理の漢字の読み間違いとこれら井戸、橋下、石原知事などが使う表現方法とは根本的に性質が異なる。基本的に「蓄積された教養の部分と、性格、人格の違い」がこういう時に表にでてくるものだ。
・ 私の考えは「漢字の読み間違いは低レベルの話」で表現方法の問題は逆に知性と教養がベースとなる「人格がなせるわざ」だから始末に負えないのである。だからややこしい。中学生や高校生に時々「反省文」など書かせることがあるが、中学1年生の作る文章と高校2年生の作る文章では当然、漢字の数や表現方法に雲泥の差がある。
・ ところが同じ高校3年生でも素晴らしい文章を作る生徒と「えー、これは何?」といおうような文章しか書けない生徒がいる。一言で言えば完全に広い意味での学力とその蓄積と相関があるのである。
・ 学力が高く成績席次上の方の生徒の文章はしっかりしており、漢字数も適切であるが、そうでない生徒の文章などは、まず平かなが多く、中には句読点などない文章に出くわしたりする。そして文章の長さなどもおかしい。又「話し言葉」を文章にしようとするから読んで何かおかしい。
・ さすがに教員は人に教える立場にある人間だから文章や言葉使いなども上手い。しかし読書量の多さが伺える優れた文章を書くことができるかどうかとなると微妙に違ってくる。そのようにして教員の文章を読んでいると極めて面白い。
・ 教員だから教養があるとは必ずしも言えないのではないか。今手元にある教職員の人材評価育成シートの自己申告表の文章がそれである。これを見るだけで私にはその教員の教養の蓄積と人格レベルが手に取るように分かる。
・ 文章を作る時に特に私が心がけているのが「分かり易い」ということだ。何を訴え、言いたいのか分からないような文章は作らない。元々文章など作るのが好きだから良く「毎日更新するのは大変でしょう」などと人は言ってくれるがブログの文章など全く負担ではない。
・ 時に「ユーモアのある文章」、これは「硬派の文章」「骨太の文章」と書く内容で変化をつける。「表現方法」についても気を遣っている。最もこれは蓄積されたもので付け焼刃ではダメであるが、これは日々の努力で向上できると思っており、死ぬまで進化可能だと信じている。
・ だから私は「努力」する。日々のブログの一字一句や表現に工夫と努力をしている。これが面白いのだ。それに私は基本的に「勉強」することと他人の優れた言い回しを「パクる」のが得意である。
・ 先のブログで私は関西大学の河田悌一学長先生が私学助成で「大学人として初めて意見を発信」して頂いたことについて触れたが11月13日の日経夕刊の「文化カルチャー」欄に先生の「中国の近代化と格差実感」と題された一文が載っているのだが、その末尾に「四訪」という単語があった。
・ 文章は「この地を四訪してみたい」と使われてるのだがこの四訪と言う「初めて見る単語」に惹かれて少し調べてみた。旺文社の国語辞典、講談社の「日本語大辞典」、三省堂の「大辞林」、それにネット辞書も調べたが結局見つけることが出来なかった。
・ この「四訪」という言葉は河田先生の「造語」なのか私がまだ調べきれていないのか分からないが,言いたいことはこのようにして私は言葉を調べることが大好きだ。そして「パクル」のだ。何事も最初は人真似や昔のやり方をパクって最後には自分のものにしていくのである。
・ 「四訪」というのは「前に三度行ったが又四度目を行きたいのだ」という思いから使用されたのか、何度でも行きたいと言う強い思いの表現なのかまだ分からない。このようにして私は言葉を増やしていく。今朝はまた一つの単語を勉強した。「墨跡淋漓」と言う単語だ。「墨跡」までは良く使うが初めて墨跡淋漓と知ったのである。
・ とにかく「学者・研究者・小説家・文章家・新聞記者」などが使う単語や熟語は勉強になる。英語と違って「漢字は醸し出す雰囲気」がまるで異なる。私は日本語が大好きでこの年になっても新しい言葉を知ると嬉しくて興奮する。
・ 一昔前ある国語の教員がこのブログを書き始めた頃の私の先生で日本語の使い回しや誤字脱字をチェックしてくれていたのだが彼が私の文章の中の「中食」というのは間違っている。「昼食」でしょうときたから、いや「ちゅうじき」と読んでこれで良いのだといったことがある。国語の先生でも知らないことがあるのだと思ったことがある。
・ 上手い文章家は天賦の才も勿論あるが長い間に「名文」に触れることによって醸成されていくものであろう。だから私は感激する一文に触れると嬉しくなってメモに留める。そして何時かそれを自分の文に応用してみる。つくづく「作文と言うのはその人が出て面白い」と思う。