2007年10月22日月曜日

10月22日(月)学院神社と絵馬

1.学院神社の絵馬作成
・ 町の神社には絵馬などがある。ところが本校の「学院神社」には「絵馬」がない。「破魔矢」もなければ何もない。別に「おみくじ」は要らないが、どうしたことか?着任以来考えていた。学院神社は一日祭、春季礼祭、秋季例祭と本格的神事を斎行している「本格的神社」だ。神道科もある学校なのだ。
・ 最近3年生が一人ひとり神妙に神社にお参りしている。理事長室のガラス越しに神社があり、「柏手の音」で良く分かるのだ。何事かと見に行くと生徒は祈願した後、絵馬を神社の庭に掲げているではないか。「・・大学合格」などと書いているものだ。
・ 「えー、何処の絵馬なの?」。ところがこの絵馬は必要な都度、他の神社より安く譲ってもらっているもので裏にその神社の焼印が押してある。学院神社への祈願にそれでは余りにも勝手良すぎないかという気持ちが膨れ上がってきた。ご利益に影響しないか?
・ 門塀を更新し、学院神社は外部にも開放した。お参りいただいた方にプレゼントしたい。幾ばくかの「お賽銭」は頂けるだろう。神社の前に賽銭箱は大きなものが昔からあるのだが、お金を投げ入れる時の音は聞いたことがない。記念のお品がないからだ。浪速祭などはチャンスなのにと思う。
2.木村の思考と新しい絵馬
・ 「決めた。本校独自の絵馬を作ろう!」もともと入試担当教頭には「学校入試説明会」に来て頂く生徒さんに「何をお土産にするのか」再検討を指示していた。何時までも鉛筆や筆入れ,サインペンやファイルフォルダーでもあるまい。「本校の神社の絵馬をプレゼントしたら、関心を持って頂くに有利」とも考えた。絵馬など容易には捨てられないものだ。あれやこれやで、心の中の気持ちが集中してきたのだ。
・ このように私は「考えを頭の中で熟成」させていく。結構長い期間「練らす」こともある。短い時は1日と言うこともあるが、「ひとたび口に出したら、一挙に具体化するのがスタイル」だ。このことを分かっている人は少ないから、思いつきくらいにしか思っていないのであろうが、身近な人間には良く分かっていることだ。だから職員会議などで、深く考えもせず、思いつきで発言する人間を逆に厳しく指弾することが時にある。ここが悪いところだ。自分でも分かっている。寛恕寛容の気持ちだろうが・・・・。
・ 寝ても覚めてもと言う言葉があるが、こちらは何時も「この学校のことをあらゆる視点から考えて」発言している。それをその場の数秒で思い付きの意見を「対案なしで発言」などされたら、「考えに、考えて提案した人へ失礼になろう。」さらに私はそれは「考察する対象への侮辱」だとさえ考える。この辺が「木村は厳しい」と言われる所以だと思うが「自分の仕事に対する責任の自覚の度合い」ではないのか。
3.絵馬のデザイン
・ 学院神社全体の「カラー版イラスト」入り、「浄明正直」の校訓入り、言葉は「学業成就」「大学合格」などお参りした人が自由に書けば良い。裏には「三種の神器を形どったエンブレム」を配置した素晴らしいものを作るよう神道科に指示し、競争見積もりに入ることにした。数は5000個、とにかく安く作ってくれるところを探そうとしている。
・ 入学式において新入生にはこの「絵馬」と「浪速生活の綱領」「学院神社拝詞」をセットとして渡したらどうかという考えもある。とにかく使い道は多いはずだ。折角の神道系の学校だ。もっともっとPRせねばならない。元や現の神道科の主任教諭へ「皮肉」を飛ばす。「本校独自の絵馬の作成」の考えなど浮かばなかったのかと。毎日が慣れた状態になるとこのような考えに及びもつかない典型的な例だ。金があるなしではなくて要はセンスの問題だ。
4.学院神社の神域の確保
 ・ 神社に関して言えばすでにもう一つ大きな改革をすでに実施している。域内にあった某校長、二人の石碑の移動だ。「冗談じゃない。」不遜極まりない。こういうことなど論評も不要だ。神道科主任教諭には申し渡している。「今後いかなる人物といえども神社域内に個人名の入った石碑など建立はまかりならぬ。後世、言い伝えよ」と。
・ 枯れた大木はレッカー車をいれ、伐採した。玉垣を増やし赤、白の椿2本、榊を数十本、緑を増やした。お手水屋方の柱が腐り、ぐらぐらしていたので作り直した。神社や鳥居をすべて専門家を入れて、洗い清めた。相当な費用はかかったがこの神社は本校の精神的支柱である。金の問題ではない。それくらいこの神社を私は大切にしている。
・ 毎日出勤してきたらまず、神社にお参りする。今日一日の教職員と全校生徒の安全を祈願するのだ。校務員さんが毎朝参道を掃除してくれている。すがすがしい気分になる。教職員も生徒も神域内ではないが神社の方に向かって軽く会釈をする。見ていて「美しい。」仏教徒もクリスチャンも皆だ。「神も仏も有り難きかな。」神仏が生活の身近にあるということは「幸せなこと」だと私は思う。