2009年2月26日木曜日

2月26日(木)言葉は命

・ オバマ大統領の「施政方針演説」が素晴らしい。24日夜の上下両院の合同本会議で初の施政方針を行い国民に「経済危機」への対処に向け団結を訴えた演説だ。確かに大統領は「演説の名手」である。各紙とも詳細記事にしているので目を通すのだがとにかく「分かり易い」。これを一番私は評価する。
・ 良く何を言っているのかわからないような言い方をする人がいるが指導者はそれではいけない。「漠然とどうして良いのか判断できないような言い方」なら返って混乱を与えるだけだ。私もこの点だけは気を付けている。時々判り易すぎて失敗もするが・・。
・ とにかく私は「言葉を大切」にする。言葉が大好きだ。従ってこのようなときには新聞の大統領演説の全てを、詳細読んでいく。勿論日本語だ。そして「論旨の展開」と「使う言葉(ボキャブラリー)」を勉強する。日経新聞などは全文を日本語で掲載している。
・ 難波のジュンク堂では店に入って直ぐのところに「大統領就任演説の本」が山のように並べられ「売れている」と言う。「教材」としても人気があるそうな。確かに彼の使う言葉は分かり易くて具体的で「品がある」。この品位というのも大切である。
・ 大統領の言葉でキーワードは「米国再建(rebild)」である。就任演説はこのブログにおいても書いたが幾分「トーンを抑えた」感じであったが今回の施政方針演説は「オバマ節炸裂」である。「国民を鼓舞」し元気付けたことは間違いない。
・ 通常は「こき下ろすメディア」も「好意的」で辛口で有名なニューヨークタイムスでさえ「乗り越えるべき深刻な問題を矮小化せず、再建を約束した。自信を感じさせた」と高く評価している。大統領選で争った共和党のマケイン上院議員も「米国民に強さと安心を与えた」と演説を褒め称えているのだ。
・ 勿論大切なことは「演説」ではなくて「何をやるか」であるがまず国民に「希望を与える、将来を指し示す」言葉を放つことが国家の指導者のまず最初にやることだ。特に政治家にとって言葉は重要である。「言葉は命」である。しかしオバマ大統領は「聡明」な感じがするね。「頭がシャープ」に見えてならない。
・ それに比べて日本の政治指導者の言葉の「貧弱さ」が際立つ。麻生総理と小沢代表が今最も政界でキーの政治家であるがこの2人とも「どうしようもない」感じだ。「響かない」のだ。
・ どうしてなんだろうか。元々日本という国においては「物言えば唇寒し」の文化が土壌にある。「雄弁は銀、寡黙は金」「男は黙ってサッポロビール」の国柄は分かっているが、それにしても政治家がそれでは駄目だ。政治家は言葉で国民に希望を与えていかねばならない。
・ もう一つはトップリーダーの存在を認めて来なかった歴史的経緯を観れば分かる「日本の体質」があるのではないか。歴史的必然で突然「強烈なトップリーダーが出現」するが長くは続かない。「用事が住めばハイ、それまでよ」で又「集団合議制」に戻るのである。集団合議制の指導部に「言葉は不要」である。
・ 自民党政治の終焉は「これに気付かず」何時までも各派閥の領袖が料亭で「ひそひそ」話をして決めていったことに原因がある。そういうバランスの上で就任した内閣総理大臣は何を言ってもパンチはない。それはオバマみたいに直接選ばれたのではないからだ。従って政治家の隙間を付いて「官僚が跋扈」することになる。
・ 特に戦後日本は「お上」意識が余りにも強く、それは「官僚統制」となって現代までも続いており、官僚のやりたい放題を許したのは全ては政治の責任である。「官僚の頭脳」に政治家が付いていっていないのである。彼らは「賢い」。しかも官僚には絶対に言葉は不要で「紙と鉛筆で予算を決めて日本を左右」している。
・ こういった硬直した日本の意思決定の骨組を変えるにはやはり政治しかないし、「政治家が言葉で国民に話すことから体制変革が進む」。最初にやってのけたのが小泉元首相である。そして大阪府では橋下知事だ。そして今麻生総理の言葉に国民がしらけている。
・ 東照二立命館大学教授は極めて的を得た「麻生語」と「小沢語」について論考されており1月15日の日経に記事が出ていた。「見事な分析」と私はおもう。特徴は麻生総理は「上から目線」で小沢代表は「曖昧・単調」と切って捨てていた。
・ 東教授は「フレーム理論」という考え方を軸にされ、言葉が聞くものに連想、想起させる世界を如何に魅力的で光を放つために勉強しなければならないかを強調されている。2人とも「修行が足りない」と厳しい。
・ 首相は「皮肉と居直り」で小沢氏は「言葉の力を信じていない」と言い、オバマ大統領、ケネディ、レーガン、クリントン、日本では田中角栄、小泉純一郎元首相などはフレームを聞き手の中に作り上げた「成功者」だったと分析している。
・ 教授は「物語性」というテクニックを入れると効果は瞬時に表れるとも言い、聞き手が「私のことを喋っている」と思ってもらったら演説は生きてくるといわれる。一々うなずけるものだ。
・ 結局私は思うのだが確かに「首相官邸や大統領の補佐官」の中に「ライター」が居るのだろうが、最終的には「個性が表れる」もので「文章が言葉になって口から出る」時に「大きく変態」というか「魂を吹き込まれる」のだと思う。
・ 正直なところ私は「麻生さんも小沢さんも若い頃からの蓄積」がないのではないか。分かり易く言えば「勉強していない」と思う。そのように思えてならない。私のほうが余程上手くしゃべれる自信はある。
・ 知事クラスには立派な演説の出来る人は多いがどうも国政レベルの政治家と大きく異なる。橋下知事や東国原知事などが典型的である。まず彼らの使う言葉は「口語体」である。普通の「話し言葉」を演説に使ったりするところが返って新鮮に見える。
・ 口語体だから時に橋下知事みたいに「くそったれ」「様を見ろ」「ふざけるな」「どうして首を取るか」などなどが頻繁に出てきて時に顰蹙を買う。最も私も人の事は言えなくてお互い「舌禍事件」になりやすい。でも二人の「言葉は分かり易い」。