・ 「橋下人事 部長総入れ替え」とある。4月1日の朝刊朝日である。夕方にはABCテレビなどでも大きく取り上げられていた。対して他紙は概して「当然」というような感じで扱いは無く、朝日だけが5段抜きの記事にしていた。
・ 見出しの書き方も「ひな壇から落とす 実行」「課長級から昇任も」ともある。1日橋下知事は大規模な人事異動を発令した。その中で大きなニュースとなったのが「ひな壇部長」と呼ばれる9つの部長ポストを総入れ替えしたのだ。
・ 新聞には異例の人事とあるが企業社会では当たり前の話で「取締役総退陣」など珍しくもなんともない話だ。「こんな異動は過去にない」「公務員の常識では有り得ない」など歎いているから駄目なんだ。何が公務員の常識だ。大切なことは府民にとってどうかということだ。
・ 知事はテレビのコメントで「後悔しないため」と言っていたが「全く同感だ。」知事の思うような改革をやり遂げるには「思うような人材」を知事の考えで投入したいと考えるのは「自明の理」である。
・ 「府の組織の最終責任は僕が負う。だから自分が納得する権限の行使はさせてもらう」と朝日の記事にはあった。当たり前だと思う。定年60才までの数年残した部長は「あと1年やらしてください」とか「今回の人事は知事に意見した人が左遷させられた」とか「意見をいう古参部長がうっとうしかったのだろう」とかピーチクパーチク言っているが「人事は結果が全て」である。
・ 「公務員の常識から見たら異例」と言われる「飛び級昇任」も知事の考えだし、大体行政のことが全く分かっていない外部の民間人をひな壇部長に据えるなど「知事の思いのまま」だ。それで良い。後になってやっぱり「あの時あの人を変えておけば良かったのになー」と臍を噛んでも仕方がなかろう。
・ 私も常勤講師5ヶ月でこの4月専任教諭に採用し一挙に中学の教務部長にした先生がいる。この先生が廊下を歩いていたら「抜擢先生!」と生徒から声がかかったそうだ。これなど「飛び級昇任」である。
・ 大体「人事権や査定権」のない上司の言うことなど部下が聞くか。余程の人格者か誰もが認める素晴らしい芸を有している人間国宝ならいざ知れず、組織というのは「指揮命令系統」が命である。
・ 誰が何と言おうとも最後は組織のトップの方針が組織の方針になるのは国家レベルでも会社レベルでも行政レベルでも同じことだ。「万機公論にて決すべし」というがそれでも「最後はトップが決める」のだ。
・ 「校長に人事権はあるのか」そこが問題である。答えを言おう。「ない」。あるのは「意見具申権」である。これが現在の一般的な解釈とされていると思う。まず公立学校においてはすべて教育委員会の責任で採用異動昇進人事は行われる。
・ 校長は「教員についてあれこれ言う」ことは出来るが「年度末の3月中旬になって「初めて来年度の人事結果」を紙切れ一枚で知ることになるのだ。「蓋を開けて喜んだり、悲しんだり」が何時もの光景である。
・ 校長が昔あの先生とは一緒の学校で勤務し気心を知っているから「是非本校に呼んでください」「この先生は私の言うことを何でも反対して、やりにくくて仕方がないから他校へ出してください」が校長の意見具申であるが実現の度合いは当然低い。全ての校長が望むから教育委員会は収応がつかなくなるからだ。
・ 教員人事は教育委員会にあるのは分かったが、それでは「校内人事」はどうかと聞かれたら「それも難しい」と考えた方が良い。即ち「校内人事権が校長にある学校とない学校」に分かれているのである。
・ 無い学校はどのようにして人事を決めているかと言うと「教員の投票」で決めるのである。校長はまずその結果を受け入れるしか無く、要は教員が決めたことの「追認」でしかない。ここには橋下流など通用しないのだ。まるで生徒が投票でクラス委員を決めるのと全く同じだ。人気のある教員か組合推薦の教員がなるのである。時にサボりの教員を懲らしめのために選ぶ時もあるという。「無茶苦茶」である。
・ 又教員の賛否で決めた校内人事を校長が「私には別の考えがありますから」と言って覆した話など聞いたことがない。それは教職員全体を敵に回すことになるからである。「教職員の意向を無視されたのだから一切の責任は校長にあります」と教員は突きつける。
・ 校長は校長で「うーん、まッ良いか」「教員がこうして欲しいと言っている」のだから「それで良い」となるのが普通だ。そこには「適材適所、人材育成、人心の一新などの発想」はない。
・ 学校社会には「人事のダイナミックさ」などない。極めて「硬直」している。学校改革に人事を生かしていくなどの発想は基本的にないと私は思っている。それは基本的に「個人の能力と意欲の差」を認めていないからである。「全ての教員が同じ」だと前提しているからである。
・ そして人事権は必ずしも教育委員会だけでなく、教職員組合に大きく影響されてるのが現実だ。だから前にブログでも書いたが「西宮市教組」などは「教頭はすべて組合推薦者から」などのたまげるような本当の話が出てくる。「大分県の教員採用汚職の根源」もそこに原因がある。
・ 学校改革は「校長のリーダーシップから」と幾ら声高に叫んでも校内人事権さえないような校長ではパワーは無い。平成14年市内の公立高校の校長で赴任した私は「校内人事権を校長の手に取り戻すのに相当苦労した」が成し遂げた。しかし大変だった。
・ 私立の本校に着任する前には「校内人事権はどこにあるのか」相当心配したが「基本的に校長が握っており」私はホッと一安心したのを今でも思い出す。もしこれが違っていたらその「戦い」だけで相当エネルギーを消耗していた筈だからである。
・ これはその学校の歴史と文化であり、必ずしも組合の力が強いとかは関係ない話だった。それに大きなパワーは理事長兼務と言うことであり「採用の人事権」「給与の決定権」「評価の査定権」など全ての権限を私が有していることも「学校改革をスピーディに成功させた要因」だと思う。
・ 最近時々聞かれることがある。「もし理事長兼務でなかったらここまで行きましたかね」と言われるので逆に「どう思う?」と聞き返すと「全く結果は同じように成ったでしょうね」と答えてくる。私もそのように思う。単なる「手続きの話し」で理事長校長だと「話が早い」だけのことだろう。
・ とにかく私も橋下知事と同じで「後で後悔しないように」人事は思い切ってやることにしている。サラリーマンも人事が全てで飲み屋のサラリーマンの話の大半は人事の話だ。誰をひな壇部長にするかなどは組織の長たる知事の専権事項だ。衆議院議員の首を切る解散権は総理大臣の専権と同じことではないのか。
・ 本校でも私は「人事権を徹底的に行使」する。今までの「教員のわがまま」は聞かない。30年近く勤務しても分掌や学年の長など経験せず高給を取っている教員が山ほどいる。絶対に一度は経験させて「能力と努力を見る」のだ。それが「処遇に跳ね返っていく」ことになる。当たり前の話である。