・ 学校関係者にとって「注目すべき判決」が4月28日に「最高裁」であった。極めて重要な判決だと私は評価している。最近の最高裁判決は畠山鈴香事件でも和歌山カレー事件でも何だが分かり易い。
・ 「教師を足で蹴って逃げ出した子ども」に対して「胸元を掴んで壁に押し当て、“もうすんなよ”と大声で叱った教員の行為」を「体罰にあたらない」と最高裁が判断した。当たり前とは言わないが「妥当な判決」だ。大体このようなことが「訴訟」になるのか。
・ 熊本県天草市の小学校で7年前のことだ。男友達3人が4人の女生徒をからかうなどしていたので若い教師が止めさせた。しばらく通り過ぎたところで注意を受けた男子生徒の一人が追いかけていて後ろから教師の尻を二度ほど蹴って逃げ出した。
・ 教師は生徒を捕まえて壁に押し付け、「もうするなよ」と大声で指導した。胸倉を掴んだとあるが、どこかを掴まないと押しつけられないからこれはあまり意味はない。要は殴ったり蹴ったりせずに「許されるぎりぎりの対応」で「教師の存在、大人の存在価値」をこういう形で示したのである。私はこの先生は立派だと思う。
・ ひどいのになると、さも頭にきた感じで「コラーッ」と叫んで顔色を変えて蹴りの一つでも入れそうなものだがこの教師は「抑えた」のである。「講師」という身分とあるから余計に「抑制」したと考えることもできる。
・ しかしその子の母親は「事件」にした。「子どもが先生を恐ろしがってPTSDになった」と「損害賠償の民事訴訟」を起こしたのである。教師のこの行動は「学校教育法」で禁じられている「体罰」だと原告の弁護士が出てきたのである。大体こういう弁護士は世の中にはいるものである。
・ 1審、2審とも体罰と認め賠償を命じたが、最高裁は「体罰ではない」と請求を退けたのである。相手が教師であれば当然、それが友達でも「人を蹴ってはいけない」ことは「本来家庭でしつけておくこと」で、それを友達、教師にやってしまえば教師が毅然とした態度で「厳しく指導したのは当然」だとしたのである。
・ NHKの報道では教育長が「我々の主張が認められて大変うれしい」などのコメントを出していたが、私はこの教育委員会の対応に頭が下がるのだ。「立派」である。普通はこうはいかない。
・ 「揉め事をとにかく嫌う教育委員会」が1審で破れ2審で敗れても最高裁に上告「争った姿勢が立派」だと言っているのである。この市の教員は「教育委員会を見直した」のではないか。校長も教員もこういうことが続けば教育委員会に信頼を寄せることは間違いない。
・ とにかく「児童生徒の暴力行為が増加傾向」にある。簡単に手を出してしまうのだ。文科省の調査では2007年度の発生件数は小中高で過去最高、中でも「対教師暴力は06年度よりも500件増えて7000件」もあったとう。7000件ですぞ。
・ 生徒や保護者が「あの教師、クビにしてやる」とか暴言を吐くのはもはや日常的で「教育委員会に言いつけてやる」というのは「今や常套語」となり、小学校低学年でもこの言葉は知っているくらいだ。面白いのは私立中学でも保護者の中には「教育委員会に言ってやる」と、とんだ勘違いの人もいるのである。私学課でなければならない。
・ 2006年に「学校教育法」が改正され、「学校生活を営む上で必要な規律を重んじる」ことが明記された。07年には「安部内閣の教育再生会議」が第一次報告で「体罰とそれにあたらない行為を区別した終戦直後の通達の見直し」なども求めた経緯がある。
・ これらを受けて文科省は「教師が児童生徒の暴力行為から身を守るためにやむを得ず力を行使」するのは体罰に当たらないことを明確にして通知を出した。しかし一方では教師の体罰もそれほど減ってはいないことに留意しなければならない。
・ 2007年度公立教員の中で体罰によって「懲戒処分を受けた教員は370人」いると29日の読売新聞は報じている。今回の最高裁判決も今回の行為を積極的に認めたわけではない。
・ 教師が手を出すのは児童生徒に恐怖心や反抗心を生み出しかねない。私は特に中学生には「体罰は厳禁」として理由の如何に問わず、体罰は懲戒の対象とし、実際処分してきている。ある体罰常連の非常勤講師は解雇したこともある。
・ 高校生にもなるともはや「体罰は何の教育的効果生み出さない」と確信している。半分大人の高校生に体罰をしても「逆効果」だ。私も高校生の時に当時は「体罰など当たり前の時代背景」で教師からほっぺたを張られたことがある。
・ 勉強は出来た方だったが体も大きく、「生意気盛り」でその教師には扱い憎い生徒だったのだろうが、今でもその教師のことは「糞ったれ野郎」と思っている。「単なる頭にきて手を出しているのか、そうでないのか生徒にはよく分かる」のである。大体体罰をする教員は 頭にきて体罰をしているのではないか。「良くよく熟慮して手を出す」などではあるまい。
・ 話は変わるが私は「先生、教師、教員」の使い分けをしているのをブログの読者は気づいておられるか。分かり易く言えば「教師の体罰」と「教員の体罰」は異なると私は考えている。教師の体罰はあるかも知れない。
・ ”大した人間でもないくせに、偉そうにして、仕事が教職というだけで生徒に手を出すということでは許すわけにはいかない”などと言われてはいけない。”自分の若い高校生の頃を思い出してみろ”などと言われてはいけない。”大人として立派に完全無欠に生きているのか”などと言われてはいけない。
・ あの鳩山総務大臣という男は草薙剛さんのことを「最低の人間」とはよく言ったものだ。この男はその昔法務大臣のときに「友人の友人はアルカイダ」と言った奴で、こちらの方が最低ではないのか。草薙さんも「あんたにだけは言われたくなかった」と思っているだろう。
・ しかしいずれにしても「体罰は損な役回り」であり、しないほうが良い。「我慢、我慢」だ。限界点に達したら、「進路変更を促しても(実質的な退学処分)、体罰はしないほうが良い」。それが私の考えだ。
・ 確かに様々な保護者が出てきている。しかし我々は私学である。最近私は「私学と公立の違い」を色々な視点から深く考えているのだが、私学は「私企業」という気持ちがますます強くなってきている。今後この傾向は更に進むだろう。
・ どんな理由があろうともどのような手順の違いがあろうとも「お客様である保護者」の思いを、まずは「受け止める」ことが重要である。世界中の企業で大企業から零細企業まで、例えトヨタ自動車、マクドナルドハンバーガーと言えども「お客を大切にしない会社」はつぶれる運命にある。
・ 勿論生徒はお客さまではない。「保護者との契約関係」で「お預かりしている可能性の商品」と考えたらどうだろう。商品が否なら「創造物」でも良い。大切なモノに手を出すアホはいないだろう。体罰は良くない。「教師は浅野匠ノ守になってはいけない」のだ。