2009年5月24日日曜日

5月24日(日)大学及びその周辺の当世的事情ーセンター試験

・ 連休前の4月27日の日経新聞の中に久しぶりに「分かり易い」記事に遭遇した。インタビュー「領空侵犯」という囲みで大体「門外漢」と言っても実体はそうではないのだが、見識ある人を選んで「オピニオン」を紹介するものだ。
・ タイトルが「センター試験、科目選択なくせ」である。インタビューした記者は「聞き手から」として「この人、高校生の実態や大学入試の現状を知らないんじゃないの」と「戸惑った」と書いてあるから、言ってる内容は想像できるだろう。
・ オピニオンの当事者はいわゆる「教育界の人」ではない。「ここが良い」のだ。ニッセイ基礎研究所経済調査部長の櫨(はじ)浩一氏(55歳)という人である。東大から経済企画庁、そして現職だ。この人は言う。「若者にはもう少し勉強してもらわないと日本の将来が心配です」。
・ 「大学入試センター試験の科目選択をやめるべき」と論陣を張る第一人者である。センター試験は余りにも科目選択の幅が広い。だから昨年社会問題となった高校での「世界史の未履修問題」などが発生する。大学入試に出ないなら「勉強しなくて良い」となるのは当たり前だ。それを誰もチェックしようとしないのはおかしいと言われる。
・ そういうことなら「学習指導要領に必修科目」として入れる意味が無い。「センター試験は高校の必修科目を全部課すべき」との主張である。「イヤー胸がすくオピニオン」だと思いそうだが「ちょっと待って」という気もする。
・ 「受験雑誌」にはどの科目は平均点が高いとか点が取り易いとか書いてあるがナンセンスで科目選択の巧拙が合否を左右するのは「不公平」である。理系は理科選択が2科目、文系は理科などなくて社会科2科目とか、社会なら「地理」と「現代社会」が点を取りやすいとか、確かに受験生は良く知っている。
・ この方はそんなことは止めて「高校生ならこの程度は知っていて欲しいという内容」を「全部の領域から出題すべき」。これに対してインタビューした記者は「選択科目の拡大は高校進学率が97%という「多様化した高校生への対応」でしたよと反論する。
・ この「突っ込み」は的を得ているみたいだが、必ずしもそうではない。記者の視点ははっきりいえば「ほとんどすべての中学生が高校に進学する」時代になり「勉強のできる子と、できない子がいるでしょ!」と。「基礎学力のない子供にも全科目を課すのですか?」という疑問であろう。
・ これに対して「範囲を減らせば負担が軽くなると言うのは幻想」と切って捨て、「逆に範囲が狭いと問題が作りにくいため、瑣末なことばかり聞く問題が増えてかえって詰め込み」となる。議論がかみ合っていないのではないか。
・ 「範囲を広げて基本的な理解を大局的に問うことの方が高校生のため」という。このかぎりでは正しい意見だと思う。そして続ける。「大学はAO入試や推薦入試が増」え、私立大学の半分は「学力試験」を受けずに入学している。これは「当たり!」。
・ こういった大学生は「学力スタンダード」はきちんと守られているのか、「高校卒業に相応しい学力」が身についているのかチェックしなければならない。「大体、大学も大学で、安易に入学させる大学も、大学で何を学んだか問わずに採用する企業も問題」だと幾分「八つ当たり気味」だ。そして大学卒業時に「能力を測る試験が必要」と言われる。どのような能力を測定するのと私は聞きたいのだが。
・ センター試験はいずれ全国統一の「高校卒業認定試験に衣替え」すべきと結論を述べられ、難しくなくて良いから広範囲から出題する「全国統一の評価基準で高校での学習到達度を測定できる仕組み」が必要だという。これは分かる。
・ その上で各大学が独自に試験をすれば良い。そして最後が面白い。「高校の序列化」を招くと批判はあっても試験があるから人間は勉強する。高校生は勉強すべきで「こんな勉強何の役に立つのかと思ってもそれは後になって必ず役に立つと言われている。
・ しかし考えてもみよ。ご自身は東京大学から中央省庁に行ったエリート中のエリートであるだけにこのようなご意見を述べられるが、そういう高校生は「ホンの一握り」だ。まさに記者がいっているような「多様化した高校生」の集団である。
・ 学力は今一でも「性格の良い誰からも好かれる高校生」、「部活動に汗を流し、礼儀正しい高校生」、「文化活動や社会貢献に熱心な高校生」と「様々な高校生」がいるから高校は「面白い」ということも出来る。
・ ただ高校へ行くことの「目的を見失った高校生」、アルバイトに精を出す高校生、まったく勉強しない高校生などもいる。「親が高校だけは行ってくれ」と頼むから高校に行っているが本当は行きたくないとはっきりという高校生もいる。「好きなようにしたいねん」生活指導の厳しい学校は行きたくないと髪を染めたりオシャレしか関心のない高校生もいる。「学力だけが高校生の価値判断基準とならない」のだ。
・ ただ「全国統一の高校卒業学力認定試験」の提言などは十分意味があり、私は賛成である。120万人程度の高校生生のうち現在「センター試験を受験する高校生は45万人から50万人までである
・ その他の高校3年生はその段階でほとんどが「進路が決まっている」のと大学に行かない高校生である。大学に行かないということは就職か就職もしたくないフリーター予備群の高校生である。
・ 同じ学校において隣の生徒はセンターを目指して一生懸命勉強しているが、その隣では9月終わり頃には推薦入学が決まっている生徒がいるのは「普通の光景」である。そしてそれは「学校単位」で極めて明確であるということである。
・ 中学校の進路指導は「完全な、徹底した偏差値輪切り」であり、その「高校の名前」を聞いただけで、口には出さないが「ピンッ」と学校のレベル(?)が誰でも容易に分かるとうことが「教育界の常識」である。
・ このような高校教育の現実の姿を見ながら「日本の将来を担う高校生の学力レベルの担保と進路指導の議論」こそ重要である。単にセンター試験を全科目に課すとか全国統一高校卒業学力認定試験とか「言いたいことは分かるが、簡単なものではない。」まだまだ「深い議論が必要」である。しかし難しいのは、こういう議論が出来る人は現場の実態の分かっている人しか出来なく、「その数は極めて少ない」のである。
・ 教育問題は誰でも「すぐ教育評論家になれる」が、そのベースは「自分の関心の範囲内」か「自分の高校時代の体験・経験」である。英語が話せないのは日本の英語教育が「ナットラン」と言い、漢字を知らねば「日本語の教育が駄目」と言い、「理系教育が全滅」と嘆き、「30年前や40年前の学校の先生は良かったー」などと短絡的な意見は誰でも言えるのが、ますます教育問題の解決を複雑にするのだ。