・ 堺の校外グラウンドの視察を終えて大阪天満宮宮司、本校名誉理事長のお車で道明寺天満宮に向う途中、丁度河内長野市を抜ける頃私の携帯電話がなった。事務室のIさんで、電話口で「泣きじゃくって」いるから最初はよく聞き取れなかったが私は「何が起きたか」すぐに分かった。時刻は12時過ぎだったと思う。
・ 「ピンッ」と来たのである。「ああー、Oさんが遂に亡くなられたな」と。Oさんのお兄さんが今から30分前にIさんに直接電話して連絡して頂いたとIさんは泣きながら言っていた。
・ たった二人しかいない事務の正職員であったし、5月の連休前にIさんがお見舞いに行った時には「連休の間も病院に来て、寂しいから」とOさんは言われたそうだ。他には分からない「女性事務員同士の行きかう思い」があったのだと思う。
・ 私は「病院に行ってOさんのご遺体の傍に付き添ってあげるように」言い、同時に直ぐ事務長に電話して「ご自宅でお遺体をお迎えするように」と学校としての対応を指示したのである。話しながら私は「優秀なスタッフを1人亡くした」という「寂寥感」にとらわれていた。
・ 余りにも若すぎる死である。「ご本人もさぞかし無念」であったろう。たった二人しか居ない正職員の女性の事務員さんを1人失ったのは大きなショックである。明るくて快活で、頭が良い。とにかく「仕事が出来る、仕事が速い」のである。
・ 「給与担当」であった。Oさんには本校の教職員は誰もがお世話になっている。又PTA会計など担当していたからPTA役員からも大人気のお人でとにかく「お人柄の素晴しい堺女」であった。3年前に私が着任した時に彼女の話す言葉の一種独特なイントネーションと「はんなり」した口調がとても「印象的」で私は「それが堺言葉ですか」と聞いたものだった。堺に生まれ堺に育ち一生堺を離れることがなかった。
・ 昨年の暮れから「肩が痛いんです」と言っていたらしいが、「1月の新春拝賀始業式」ではダークスーツに身を固めて甲斐甲斐しくご来賓を接待していたことを今でも覚えてる。2ないし3箇所鍼灸院などで診て貰っていたらしいが「どうも肩の痛みの原因が分からない」と言うので住友病院を紹介しようと勧めたりしたが結局堺市の市民病院に入院された。新しくなった大きな立派な病院で安心したのである。
・ そこで徹底的な検査を行い、「病名が判明し」、結局そのまま入院されて遂にご自宅に戻ることはなかった。入院から本日まで丁度4ヶ月である。残念でならない。もっと早く何とかならなかったものか。
・ 私は毎月一回はお見舞いに出かけた。私が行くと大変喜んでくれて最後のお見舞いは連休前の26日だったと思う。共に長い間、事務で頑張ってくれている男性事務職員のM事務長補佐を連れて行ったのである。
・ これも私の勘かも知れない。お見舞いの帰り事務長補佐は「言葉を失います」と言って打ちひしがれていた。このときOさんは「手を伸ばしてきて私に握手を求めてきた」。しかし手には力はなかった。5月11日のブログで私はOさんに言及している。亡くなられる1週間前であった。これも何かの因縁かも知れない。それをサイド引っ張り出してみる。
“今一人の極めて有能な事務職員が病気で入院され闘病されているが、お見舞いに行った時に何時も言われることは「理事長先生、早く仕事がしたいです。」「直ったら仕事頑張ります。」と言われる。”
・ これくらいOさんは「仕事熱心で責任感旺盛」であったのである。ご遺体は3時前に堺市の自宅に戻られた。この家はOさんが自ら建てられたお家であり、私も一度訪問したことがある。
・ ここにご母堂と一緒に住まれていた。最後を看取られたお母さんは「泣き崩れておられた」と事務長は報告してきた。「通夜は18日、ご葬儀は19日」と決まったという。私は事務長に対して「全浪速を上げて通夜葬儀のお手伝いしお見送りするように」指示したのである。
・ 本校名誉理事長である大阪天満宮の宮司も理事長職務代理の道明寺天満宮宮司もOさんを良く知って頂いており、深く哀悼の意を表された。つい先般お二人からお見舞いがなされ、Oさんは「お礼のご返事どうしましょうか」とIさんにメールで聞いてきたと言う。Oさんらしい。
・ 心から哀悼の意を捧げ、そして本校における30年勤続のご貢献に対して深い感謝の意を捧げます。明日から3日間「喪に服す」ため「校長日記は休筆」する。昨年の「天神祭」にOさんとIさんをお連れして奉迎船に乗った時のことを今思い出しているのである。
・ ここに素晴しい写真が数枚あるが「大変可愛い浴衣姿で美形であった」。「才色兼備」とはこういう人のことを言うのであろう。あれから1年も経たずしてこのようなことになるとは当に「人生は無常」である。52歳の若さで逝ってしまうとは・・・。今私は1人涙しているのである。「Oさん、有難うございました、合掌」。