2010年5月31日月曜日

5月31日(月)5月の最終日






















・ 遂に5月の最終日となった。早いものである。明日からは6月となるが前に書いたように「6月下旬くらいまではこの校長日記を書いていこう」と思う。「精魂」込めて現在作っている「堺の校外グランドの竣工式が6月19日」であり、この記録を公式に残しておきたいからである。
・ 「3年前の平成19年6月1日にブログを書き始め」、丸々3年が経った。「ほぼ毎日更新」でそれもA4版2枚の「長文」だから、ある程度「骨組みのある自分の考え」を発信出来たと思う。
・ 対象はまず「教職員」、そして保護者、そして理事者や評議員、そして一般府民の皆様に「情報提供」してきたものである。まあ、ほとんど教職員だ。いい加減な気持ちで書いたものではないから「書いたものには自信」がある。
・ 注意深く書いた積りであるが、「日記」という性格上、ある程度「踏み込んで」書かねば、思いも伝わらない面もある。強く書かなければ日記の内部にある「書き手の奥底の思い」は伝わるまいと思ったからである。元々教職員の反応は敏感というわけではない。「人事(ひとごと)と受け取る性向」があるからだ。
・ しかし何時かは「閉めなければならない」ことも事実でそれを本当は今日で節目としたかったが何事にも勢い余った「オーバーラン」はあるもので、6月をそれに充てたい。特に5月は色々あって昨日までで24日分しか書いていない。
・ 残りの日日を大切にして、この「学校の責任者」として最後の月の「ブログ発信」していきたいと思っている。大体「固定の読者」に読まれている。これだけの長い文章を毎日読むのは「容易な話し」ではない。このようなお方のためにも「しばらく休憩」がいる。
・ 昨日の「多聞尚学館での授業参観」で、ある保護者から以下のように言われた。私の「ブログの愛読者」だと言われていた。勿論現1年生の保護者である。おっしゃったことを忠実に再現してみよう。
・ “校長先生のブログからは「生徒、教職員への溢れるばかりの愛情」を感じます。私どもは「夫婦して校長日記を読むのが楽しみ」です。大体夕食時に話題となります。今や生活習慣の一部となっています。
・ ブログからは単に学校で起きていることを知ることが出来るという意味だけではありません。校長日記に書かれている「物事への視点」が大変勉強になります。私はまだ若く人生経験も豊富ではなりませんが、あのブログから「なるほどこういうものの見方」「物事の考え方」「時事解説」などが大変ためになります。以下略“
・ 特に私はこのお方のお話から「生徒教職員への愛情を感じる」と言われたことが嬉しくて仕方が無かった。その通りである。「私は本校の生徒や教職員へ溢れんばかりの愛情を持って接している」。これだけは間違いない。
・ 愛情ある接し方というのは「口に優しい」ことばかり言うのではない。むしろ「」であるかも知れない。しかし「最後の最後ではいかなる理屈があろうとも生徒教職員を私は守る」。それが無かったら「厳しくは出来ない」。
・ 理事長職務代理が一度私に言われたことがある。「理事長は浪速家族の親父さんみたい」ですねと。そうかも知れない。良い悪いは別として「浪速ファミリーの家父長的存在」として毎日を過ごしているのかも知れない。
・ 家族の親父とは「うるさくて、頑固で(私は頑固ではないが)圧倒的な存在感」で家族に君臨して初めて親父さんであろう。親父の言っていることが全て正しいとは言わないがそれでも親父は家族のために「嫌われるのを覚悟」して「家族を守っている」のである。
・ 実は明日が誕生日で64歳となる。昔で言えば64歳とはもう「おじいさん」である。亡くなった父は63歳一杯まで仕事をした。敬愛して止まなかった私の父が63歳まで働いてくれたのだから「私も絶対に父が第一線で働いていた63歳までは自分も頑張ると自らに約束」していた。
・ その年令になったのである。明日からは父を超えることが出来る。何も父には勝てなかったが現役勤務期間だけは父を超えられそうである。これだけは勝てた。天国で見守ってくれている父はそんな私を褒めてくれるか。

・ 昨日の中学1年生の多聞尚学館での「授業参観」は「本格的」なものでこういうのもたまにはあって良いと思った。学校とは全く違った雰囲気でとにかく「授業参観」に徹して「浪速の実践」を見てもらうのである。
・ それも「3こまぶっとうして」観て貰うのだから、「様々な教科」「様々な先生」の授業が分かって、「今の中学の教科指導の中味」もご理解頂けるのである。これは案外大きな効果がある。正直言って保護者の中には学校の先生でもないかぎり「教えている内容」まで詳しくご存知だとはいえないのではないか。
・ 私も昨日は4人の先生方の授業をある程度詳しく観察できた。英語、社会、国語、数学の4科目であった。それぞれ特徴があって良かったのだが、当然気になるところもあって今日昼休みに中学の教頭と3人の先生を呼んで感じるところを話した。
・ まず私が感じたところは「授業もリズム」であり、リズム感の無い授業はただだらだらと続くだけで効果も薄れるのではないか。次に「板書」である。汚い字でゆっくりと書き時々間違ったりしてはどうしようもない。
・ それから「声の大きさ」である。はっきりと教室の隅々の生徒全てに伝わるような声で話さないといけない。下を向いて「一部の生徒」だけに話しているようなものでは駄目だ。
・ 加えて解答をさせて間違った解答をした生徒の数など確認して「どうしてこのように高い比率で間違っているのか」考察しなければただ「一方通行」の授業になってしまう。
・ それと「為め口」というのか、「お笑い」というのか、関係ないことをあれこれ言うのも耳に障る。確かに時々は生徒の緊張を解くためにあっても良いだろうが、それが「パターン化」してしまったら「緊張感のない授業」「集中力の無い授業」となってしまう。
・ 50分の授業でも文章作成と一緒で「起承転結」が必要ではないのか。最初の5分で導入し言ってみれば「仕切り時間」である。そして「授業のピークが何回かあって」終末に向かう。「大切なことは最後の5分」である。ここで「まとめ」なければ意味は無い。
・ 料理番組でも紀行番組でも最後の5分間で「総括」をするものだ。実はこの5分間が頭に残っておればその授業は成功である。私が何時も授業をみて感じることは「どれくらい生徒が理解しているか」ということである。その確認がなされていなければそれは「教師の自己満足の授業」でしかない。
・ 私は今日3人の先生方に言ったのである。「君たちが教えている生徒は基本的に誰の生徒か?」。直ぐに答えは返ってきた。「学校長の生徒です。」その通りだ。「入学を許可したのは誰だ?」「校長です。」
・ 私は先生方に言明したのである。先生方に「私が入学を許可した大切な生徒」をお預けして教育をして頂いている。いわば先生方に「委託をしている」のであって、先生方が自分の好きなように教えて貰っては困ると。
・ 「自分のワールド」に浸っていては駄目だ。「唯我独尊こそ教師が最も気をつけなければならない」。例え教科は違っていてもお互いが授業を観察して「指導法を高める努力」をして欲しいと。逆に専門教科が異なる方が良い場合もあるのではないか。3人しか居ない担任である。お互いがもっともっと高めるようにして欲しいと。
・ 「自分の世界」に閉じこもって「自己満足の授業」に陥らないためには何をなすべきか常に考えておいて欲しいとお願いしたのである。今までは「教科単位で教え方に違いがあって当然」と思っていたが「本当にそうか」と私は思い始めたのである。「基本的なことは同じ」はずでそうでなければおかしい。