2010年5月26日水曜日

5月26日(水)屋久島ウイルソン株まで





































・ 理事会・評議員会が当初予定の27日から先週の21日に変更となったのでぽっかり予定が開いて結局一日遅れで「中学3年生の修学旅行に一日遅れで追いかけていく」ことが出来た。幸運である。
・ 管理職は中学の教頭先生が付き添っているから、そういう意味では必要なかったかもしれないがやはり「中学生が好きなのである。可愛いのである。好ましいのである」。元来学校の修学旅行には校長は帯同すべきか否かについては「原則帯同すべき」が答えだろうが、規模が大きくなってきたりする高校などでは行き先も数箇所に分かれたりするから、管理職で手分けして行かねばならない。
・ 私は今からこの11月の高校2年生の初めての海外修学旅行について管理職の付き添いをどうするか「頭を絞って考えている」ところである。管理職の仕事は平穏無事であれば全くないが,一度「事故、事件」が旅先であった時に必要なのである。勿論無いように気配目配りすることが管理職に仕事である。
・ 学校会に転じて始めて修学旅行に付き合ったのは2年前だった。校長になって6年目で初めて初めて修学旅行というものに付き添ったのが中学3年生の九州、屋久島方面あったのである。
・ 当時のブログ「無念の撤退」は保護者にも多大の関心を持ってもらった。屋久島縄文杉登山は移動性低気圧のために大雨となり途中から引き返したのである。何時かは「リベンジ」と思っていたわけではないが是非中学生と一緒に登りたかったのである。そういうわけで3年ぶりに屋久島に来たのである。
・ 天気はこれ以上は無いと言う具合の晴天で空気は乾燥し、風も無い絶好の登山日和に恵まれた。この時期珍しいとガイドさんは言われていた。地形は丸く勿論「世界遺産の島」であり、目玉は「屋久杉」であるのだが、「屋久しゃくなげ」も有名である。
・ それに「ポンカンとタンカン」という果物の看板も目に付く。林芙美子はここの安房に逗留し小説「浮雲」を執筆した。とにかく「雨の島」だ。「屋久島は人が2万で猿2万、鹿で2万で計6万」と言う言葉があるらしく猿と鹿の町でもある。今日も我々は何回も猿と鹿に遭遇した。
・ ホテルは屋久島グリーンホテルと言い、本校の「定宿」である。4時起床。外の様子を伺うが「雨はない」。これは行けると嬉しくなってきた。4時50分全員揃う。カウンターに置いてある「朝食と昼食用の2食、ポカリと生茶のペットボトル2本」だ。それにカロリーメイトが一箱づつ全員に配られる。
・ 生徒数が増えたのでバス3台となった。約50分ほどで「荒川登山口」に到着。2年前は汚い廃墟みたいな屋根だけだったがハウスやトイレなども新築されており大変良くなっていた。しかし生徒たちは駐車場の片隅で朝食だ。おにぎり2個と少しのおかずである。
・ 今回は縄文杉コースと「白谷雲水峡コース」の両方を用意し生徒の体力で選択できるようにしたのである。縄文杉コースは10班に別れ大体1班当たり7名程度である。女生徒は9名が挑戦してくれた。そしてそれぞれの班に山岳会のガイドさんが付く。
・ まず初心者用に準備されたトロッコ道を歩くルートだ。此処は比較的歩き易い。老壮男女で一杯だ。200人以上とガイドさんは言っていた。それくらい「人気のスポット」なのである。
・ 足場はトロッコ道の軌条内を歩くのだが「枕木」を踏んで歩けば問題ない。途中からはその軌条内に板を走らせており、極めて歩き易くなっている。幅が30センチ程度であるが丁度下駄の裏みたいに凸凹になっており、すべることもない。この道が2時間ほど登り道であるが続く。
・ しかし手すりがなく一つの板場を歩くのも結構難しい。特に川を渡るつり橋というか鉄橋というか陸橋の数が多く、そこは手すりもなく、眼下は激流だ。正直少し怖いのである。落ちたら「一環の終わり」である。
・ 晴れ亘った青空が垣間見え、左側には大きな川が流れ、豊富な水が岩に当たり砕ける水しぶきと轟音が山にこだましている様はまさに「心身ともに洗い清めてくれる感じ」がする。空気の匂いが生々しくまさに「薬の空気か空気の薬」である。
・ 最初のポイントは小杉谷小中学校の跡地。看板によれば大正12年に集落が完成した学校の跡地だ。林業関係者の子弟のためにこのような山奥に学校があるなんてと思うが、雰囲気がとても良いのだ。正門がまだ残っている。ここまで50分か。
・ 次のポイントは三代杉だ。江戸時代初期から3代に亘って一つの切り株に自生してきた大杉である。ところで屋久島では1000年未満は「小杉」といい、1000年を越えて初めて「屋久杉」というらしい。
・ 遂にトロッコ道が終わる。これからは厳しい山道である。足場は悪く石ころだらけ、雨こそ無かったが本当に歩きにくい。しかし生徒は弾むように進んでいくが私はここから遅れ始めるので「マイペース」を宣言し「ゆっくりゆっくり」登って行ったのである。
・ とにかく私は2年前に撤退を宣言した「ウイルソン株」の地点が気になっていたから、ただ黙々と進んだ。しかし「苦行」であった。あれから2年、又体力が落ちているのか。「ウイルソン株までが遠い」のである。道はまさに難所であった。
・ 登山口を出発して3時間遂にウイルソン株に到着だ。私は「感慨無量」であった。あの時は本当に酷かった。それに比べて今日は「天国のような環境」で私はここでの休憩で「息を吹き返した」のである。これで「縄文杉にチャレンジ」出来ることとなり幸せの気持ちで一杯になったのである。
・ ところがこれからの登山は「苦難の道路」で何しろ標高1300メートルのところにある「縄文杉」は簡単には「お目見え」してくれなかったのである。「鎖場」である。足元は悪い。途中には観光協会が敷設している板道などもあるのだがとにかく「狭く、急勾配」で手をかける場所もない。
・ 正直何回滑りそうになったことか。「足元が上がらないからつまずいて傾く」のである。足を引きずっているのだ。それでも自分を鼓舞しながら縄文杉を目指した。「一歩一歩」である。これ以外に表現の方法が無い。この道が2時間は続くのである。前後には生徒の姿は見えず一人「分け入っても分け入っても山の中」であった。
・ そして遂に「縄文杉」を目にしたのである。「詳細は又別途のブログで」。ホテルに全員が帰着したのが17時、実に朝5時に出発して「12時間の長丁場」で浪速中学の生徒は完全に「縄文杉を自分の胸に焼き付けた」のである。生徒は満足そうであったし元気で平気な顔をしている。私も大満足であったが、本当に「疲れた」のである。しかし今日は「我が人生でも忘れられない一日」となったことだけは間違いない。