2007年12月10日月曜日

12月10日(月)その二:私の細木数子論

1.「胆識
 ・「胆識」、この言葉は通常の国語辞典にはない。「安岡正篤先生の造語」である。若いときに読んだ先生の書物でこの言葉の意味を知り、爾来、事あるごとにかみ締めてきた。住友金属工業勤務時代、職位が上がるに連れて、管理職、リーダーたるものの心得として大切な言葉だと思って常に頭にあった。平成14年請われて「学校界」に身を投じ、企業サラリーマンから「校長職」に転身してからは、この言葉ほど「校長の資質」に必要な言葉はないと今でも痛感している。
・ 胆は「たん、きも」、「肝っ玉、度胸、勇気」一方「こころ、まごころ」の意味もある。熟語も多く、「臥薪嘗胆、胆力、大胆、胆勇、豪胆、落胆」というのもある。「肝胆合い照らす」という使い方もあり、「魂胆が分からない」とも使う。胆識とは「高い見識を持ち、ことにあたっては太っ腹、勇気、こころを持って決断することの出来る資質」を言うと私なりに理解している。
・ 何故長々とこの言葉の意味を書くかと言うと後述する「細木数子論」と関係してくるからである。
2.事務室との忘年慰労会
 ・12月7日(金)事務室のメンバーとの忘年会が心斎橋にて行われた。男性教師が圧倒的に多い教師集団との忘年会に比べ、相対的に女性が多く、華やいだ雰囲気になるのだが、今回は特別参加で府内の有力な神社宮司であり、本校理事長職務代理の先生にも参加して貰った。宴は大いに盛り上がったが、中でも大きな話題になったのが「細木数子論」であった。
 ・分かり易く言えば5名全ての女性陣は大体が「細木擁護派」、理事長職務代理は「嫌悪派」と言え、意見が両極端に分かれたのである。私自身はたまに「ちらちら」とテレビで見る程度で最近の様子は見知ってはいたが、印象としては「時に良い事を言っているよなー。しかし、すっげー人だなー。あそこまで言うか!」程度の印象であった。
・ 結論を言えばこの日の宴会が私の「細木数子」への関心をより具体的なものにした。それは兼ねてより、前述した「胆識」の生みの親たる安岡先生と細木数子は先生の晩年、「ただならぬ仲から婚姻関係」となり、先生の没後、遺族との間で壮絶な裁判沙汰があり、その世界で大きな事件となったことは知っていたからである。細木数子が現在のようにテレビに出る前からぼんやりと細木の名前は知っていたのである。
3.溝口敦著作(講談社)“細木数子 魔女の履歴書
 ・早速9日の日曜日、千日前のJUNKUDO書店で本を求めに。買う本は既に決めている。この本は発売当初から大きな騒動になったもので細木が暴力団を使って著者を脅かし、発行差し止めを狙ったとか、結局民事裁判で6億円の名誉毀損訴訟をした“いわくつきの本”。大体こういう本は書棚内には無いもので、直接窓口に言って在庫を調べて貰ったら「ありました。ありました。」税別で本体1300円でした。
 ・それにしても良くぞまあ、こんな本があったものだ。帯には「テレビがひれ伏す稀代の“女やくざ”が歩んだ欲望の戦後史!」と書いてある。私のブログで書けるのはここまで。これ以上発行本の中身を書くとややこしいかも知れないので止めておくが、まあ「すごいわ」。
 ・この本は通常の「人物論」ではない。これでもかこれでもかと細木数子の生き様を悪意としか考えられないような筆致で書き尽くしたもので、ここに書かれたことが事実かどうかは別にして「ここまで書くか、これはないよな。」とも正直に感じる。「書く人の悪意が満ち満ちた本」と言える。此処まで書かれる細木数子とは一体どんな人物か。
4.木村の細木数子論
 ・別に良いではないか。法的に悪ければ司法が何時かは出てくる。別に細木が東京の青線地域の妻妾同居の家で生まれ、極貧生活の中で成長し、広域暴力団の組長の姐さんとして子分の指を詰めさせ、他人のパクリで六星占術の占い師になろうと、島倉千代子を騙して金づるにしようと、細木家の墓が暴力団一家の横にあろうと、テレビに出て「あんた、地獄に墜ちるよ」と言おうと、生き様の問題であって、他人にとやかく言われる筋合いはないのではないか。
 ・溝口敦氏は力戦派のジャーナリストでノンフィクションものでは中々の文章家である。私はかねてからこの人の作品は大好きだ。こまめに自分の脚で取材し躍動する文章は読む人を飽きさせない。「武富士、サラ金の帝王」や「食肉の帝王 同和と暴力で巨富を掴んだ男」、特に「山口組四代目 荒ぶる獅子」は傑作であったのでわざわざ映画まで観に行ったくらいだ。その他「池田大作 権力者の構造」など時代背景の中で権力者や寵児、申し子的な人物を真正面から描くことについては得意な能力をお持ちだ。
 ・元々「週間現代」(‘06年5月~8月)及び「月間現代」に掲載されたものを加筆修正したものが本書であるが、細木も取材に一切応じず、「出版差止め」を裏で画策したと溝口は本書で言っているのだが、「ノーコメント、無視」の姿勢でいれば良いものを「文春」などで反論したり、“組”組織を使って押さえにかかったりするからこのような事態になる。「有名税」と思えば良いのに。
・訴訟に打って出たのは良いが「本書にあることは、事実無根で一切ない」というけれども「無い」ということを証明するのは大変である。無いことを証明するためにある事を青天白日のもとにさらさねばならず、だから大体「“無い”を証明するための時間とお金と個人情報の開示」が面倒くさくなって「止めてしまうのが普通の考え方だ。」私などもそのような局面は過去あったが、そのようなことにお金と労力を使うのは嫌で、それなら今の季節なら友人を連れて“ふぐ”を食いに行った方がましだと思っている。
・私はあの細木数子のバイタリティに圧倒される。中学1年でポン引き商売、これは認めているのだが「売春はしていない」と公開の席でも言っているらしいが、高校生で神田のキャバレー「白い手」でホステスとして働き、「娘茶屋」で掛け持ち、その金で東京駅近くのガード下で建坪3坪ほどの小さな店を買ったという。すごいではないか。女子高校生細木はただひたすら金を貯めたという。
・ 彼女の「女の履歴書」によればそれからが又すごい。すぐ新橋駅近くのビルに「クラブ」を開店し、この店も高値で売却し、今度は19歳の若さで銀座八丁目のクラブの雇われママを始めている。有名な雑誌「酒」のグラビアに銀座のママとして細木が出ているが、「美形である」と言える。1961年昭和36年細木22歳の頃だろう。その後個人高級客相手の「かずさ」を構える。その後超高級住宅地にベビー用品店を開店したり、その後静岡のめがね店を経営する男と結婚したがすぐ東京に舞い戻り、銀座一等地の並木通りにバー「だりあ」をオープンする。まだまだ続くぞ。この水商売の天才は同じく銀座にもう一軒クラブをオープンし、事業の拡大は続く。
・ 女一人、高校もろくに出ていない女が銀座に店を持つまでになるには、余程の才覚と度胸と言うのか、騙しのテクニックというのか、裏稼業の男がいるとか、男出入りが色々あって不思議なことではなかろう。常にこの女の傍には暴力の臭いがぷんぷんとし、事実生涯連れ添ったのは有名な極道組織の親分であり、既に亡くなっているのだがお墓は細木家の隣にある。
・ 時代の退廃性というか堕落というか、そういう中に細木数子は体を張って生きてきた。66歳を過ぎる今日まで「負けてたまるか」「なめたらあかん」「指つめよ」「地獄に墜ちるわよ」「あんた、死ぬよ」「馬鹿か、あんたは」「金が一番」「使えるものは何でも使う」言いたい放題言うが、あの存在感は圧倒的だ。本当言うと日本全国の極道一家の唯一絶対の頂点にたてる貫禄ですよ。なまじの男はそばにも立てないでしょう。
・ 「ズバリ言うわよ!」ではないが、「視聴率の女王」は間違いない。何故このような人気か。細木の出るテレビをみているとこの人は「勝負の場面」が本能的に分かっており、そこで一発「かまし」を入れたり、「断定口調で短く吼える」。これなどとても印象的だ。「嫁のあんたが馬鹿なんだよ。」と啖呵をきり、これを姑は涙で歓迎する。時にはやさしい面も見せる。もっともお金持ちとか有名人には優しくて吉本の駆け出しお笑い芸人などには「無茶苦茶を言う」と土曜日の女性陣は批判していたな。確かにそういうところはある。しかしこれとて当たり前だろう。自分の役に立つか、利用できるかが判断材料だから、ピン芸人など頭から馬鹿にしているのが画面から伝わってくるではないか。
・ 大体間違ったことを言っていない。「親は大切に、お墓は重要、親が馬鹿、あんたらレベルが低い、嫁が馬鹿、愛じゃない金だよ」等々テレビを見る人を震え上がらせるくらいの度迫力で細木語録はいやがうえにも番組を盛り上がる。徳光もタレントも「ハハー」とひれ伏すのだ。料理の腕も手早く旨そうだよね。そこへ持ってきて「占い師」だからすごい。どうも当たらないのが有名らしいが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で良いではないか。一言で言えば「時代が生んだ寵児」です。「裏稼業女太閤記 主演:細木数子」だと思えば良いのです。
・ 惜しむらくは「人間の品性とか品格」とかが全く無い。良いものを着て宝石も叶姉妹やデビ夫人に負けないものを身につけているが「人間の持つ高貴な香り」が感じられないのだ。恐らく体系付けられた教育を受けてきていないことからくる知性と教養がない。一見あるように振る舞い、見る人をして「すごい」と思わせるテクニックはすごいが底が浅いし物事を表面だけ流すようにして、さも自分のものにしている上手さはあるのだが、それから先がない。時々歴史的なことをコメントしているが間違った知識や理解のうえでのことがある。しかしこれを言ってなんになる。
・ 時々見せるあの目つき、振る舞い、間違いなくあれは修羅場を踏んだ「やくざ」の持つ体臭だ。カネの臭いがテレビからも流れてきそうだ。しかしそれでよいではないか。我々が細木数子に何を期待しているのか。まさか「吉永小百合」ではあるまい。人は自分の日常性とかけ離れた事、人、物に心を奪われる。一般の人々の対極にいるのが細木数子だ。そこに彼女の価値がある。
・ 悪徳の女帝、女やくざ、視聴率の女王、六星占術カレンダー売り上げ日本一、ベストセラー作家、イケメン大好き、中でもタッキー、大金持ち、何でも良いではないか。防衛省の天皇、守屋はアホだからあのような形で終わったが、テレビ界、出版界の女王、細木数子は終わらない。似たような野村佐知代みたいなのが居たがぜんぜん物が違う。デビ夫人、叶姉妹、あれはまだ子供だ。何、和田あき子、勝負にならない。
・ てな訳で私は細木数子を静かに見守る。ただ許せないのは歴代総理大臣を指導し、東洋思想家、経世の先達、大阪府立四条畷中学から東京大学、尊敬して止まない安岡正篤先生を酒と、色香で誘惑し結婚誓約書を書かせ、多くの掛け軸や書物などを持ち帰り、未だに最後の安岡の妻とお墓を有しているのが許せない。先生が亡くなられたとき、門人の一人が「巨星墜ち 目ぎつね走る 枯れ野かな」と詠んだというが私なら「巨星墜ち 女やくざの 枯れ尾花」としたいね。