2007年12月24日月曜日

12月24日(月)「是非に及ばず」

1.「是非に及ばず
・「是非に及ばず」この言葉に惹かれています。「自分の人生観」と言ってもよいくらいです。何時も頭にあります。この言葉は信長が1582年6月2日未明、京は本能寺にて明智光秀の謀反にあい、49歳を一期として自刃した時に発したものと謂われています。「是非に及ばず」、私はこの言葉に「信長の生き様と覚悟」みたいなものが、凝縮されているような気がするのです。
・ 頼朝に始まった武家政治も鎌倉、室町と続き、制度疲労の中で、遂に100年に及ぶ戦国乱世の時代は遂に尾張の地に生まれた、この一代の革命家によって「天下布武」の号令のもと、まさに終結しようとしたその矢先、「天下統一の最終章で倒れた信長」が発したこの言葉が「是非に及ばず」でこの言葉にどうしようもなく私は惹かれます。
・ 革新、革命、改革の過程では様々なことがあります。あって当然で、だから改革なのだと思います。100人が100人賛成とか、すべての人が理解しているとか、そういう前提で物事を見ると間違いますね。組織の中で従うすべての構成員や周辺からただ傍観しているものの中には「改革そのものの意義を理解できない」「全体最適と部分最適の違いが分からない」「まず個人の利害得失を優先して考える」「組織目的よりも個人勘定と感情が第一」「個人を責め、状況を責めない」輩は信長の時代も今の時代も同じようにいますよ。信長はまったくそのようなことは無視して進めたから「近世日本に一歩進めることが出来た」のだと思いますよ。時の常識人には「叡山焼き討ち」は神をも恐れぬ所業であったと思いますが、信長には別の意識があったのでしょうね。信長には従来の価値観とか慣わしとかまったく関係なかった。
・ 美濃の浪々中の身から織田政権幕閣の中で筆頭にまで引き上げてきた、光秀の軍勢をを本能寺に見た信長は「是非に及ばず」と散っていったのです。単に「潔い」ということだけではこの言葉は説明できません。光秀ともあろうものが結局「この程度の男であったかという嘲笑?」、加えて私は「俺はやるだけやった、後は光秀、秀吉、勝家、お前ら、出来るなら好きにやってみろ。」という気持ちもあったかも知れない。
・ 平成18年3月23日、私自身も「是非に及ばず」と考え、戦っていた(改革)戦線から身を引きました。幾分無念さはありましたが、結局、静かに何も語らず、「是非に及ばず」と自分なりに結論つけたのです。
私が信長が無性に好きなのは既存価値観を破壊し、新たな秩序を極めてスピーディに構築していく革命家だからのみではなくて、この一見、「さわやかさ」が残る「是非に及ばず」の言葉があるからです。
2.信長の館
 ・ 年内最後の休日、特段やることもなく、思い立って「安土城跡」を訪ねることにしました。8時30分発の新快速で近江八幡まで行き、車を飛ばします。9時30分には到着。運転手さんのアドバイスでまず「信長の館」を見て「県立安土城考古博物館」に脚を運びます。その後ぶらぶら歩いて「安土城址」に向かいました。
本能寺の変より3年前の1576年1月に、びわ湖畔安土山200メートルに我が国で最初の天守閣を有した5層7階の平山城の「安土城」は完成しました。詳しく記述することは不要なくらい有名なこの城は、キリスト宣教師が「ヨーロッパにもその例をみない壮大なもの」とまで称され、世界最初の木造高層建築(46M)で、その5階に宇宙空間を表す8角形、金箔はりで、それを模した「信長の館」で我々はそのイメージを十分実感できます。
・ しかしこの建物は築3年で灰燼に帰しました。本能寺の変後わずか12日で完全に消失しました。「天下統一の拠点」としてびわ湖畔に建設した豪壮華麗な天主や本丸御殿を山頂に頂き、秀吉や利家の屋敷が山腹から山ふもとにかけて林立する安土山の姿を見た人々は「新しい時代の到来」を思い知ったと思いますが、完成まもなく消えました。
・ たった3年で炎の中で消えていく、メラメラ燃えさかる天主を見た、同じ町の人々はどのように感じたでしょうか。誰が火をつけたか、諸説あるみたいですが私は「信長の意」がそこにあったような気がしてなりません。全くの私だけの新説ですが、「是非に及ばず」と時代から消えた信長はその象徴たる「安土城とともに消える」運命としたのかもしれないと思っています。
3.安土城跡
 ・焼け落ちた安土城は400年、茂る樹木や厚く堆積した土砂の中に埋もれ、樹間に垣間見る石垣や石段にその面影を見るしかなく、誰も顧みることはなかったみたいですが、「安土城址」の古い石柱の横には「大正15年内務省特別史跡」と彫ってありましたから、国はようやく大正末期になってようやく手を入れ始めたのだと思います。私は名所旧跡を訪ねると必ずその石碑の年代をチェックする癖がついています。
 ・さすがに滋賀県と安土町はまずいと思ったのか、財政的余裕が出来たのか、平成元年から発掘調査と史跡整備事業を20年計画で進めており、整備されつつあります。しかし本当に「石垣と石段しかない旧跡」ですね。本当に何もないのです。しかしそこが私は気に入っています。変な「ままごと的建物やからくりみたいな建物」は一切作らないほうが良い。「石垣と石段だけで十分」です。
 ・大手道に沿う秀吉や利家などの屋敷址も石垣と門の礎石が残っているだけです。専門家には戦国時代の侍屋敷の構成をしる大変興味ある対象らしいですが、私はそんなことよりも、あー、ここで秀吉が寧々に「オッカー、飯だぎゃ」と言ったのかと想像しながら、にんまりするのです。
 ・遠藤周作がその小説「男の一生」で安土城の城壁に関して「その残った石垣の焼けた址」の表現に作家らしい素晴らしい文章を残していますが、私も本丸近くの黒ずみ、苔むした、まさに焼けた後が判る巨石に手を添え、なでながら、この石も400年前に炎に洗われたのかと思えば、「不思議な情感」が湧いて参りました。
 ・遂に5層7階の幻の天主址に立ちました。ふもとから40分間ですよ。感激です。琵琶湖が眼前にひらけ、遠くの対岸が見え、比叡山が望めます。400年前織田信長はこの地にたって同じように遠く京を眺めたのは間違いありません。私は今「信長と同じ位置で同じ場所で琵琶湖を見ているのです。」「標高200メートルの山頂から更に最上階の部屋から琵琶湖越し見る京方面を見て信長は何を思い、考えをめぐらせたのでしょうか。
4.安土城下
 ・交通の要衝、安土の町に天主を構え、家臣団を呼び集め、大いに賑わったであろう安土の市街地はどのようなものなのかを感じるために城跡からJR安土駅まで歩きました。昔の信長の始めた「楽市楽座」の址など、当然のことながら、どこにもなく、かすかに、信長が土地を与え、カトリックの神学校「セミナリオ」の石碑がありました。この場所から城のある山はよく見えます。説明書きに信長はよくマントを着てセミナリオに来たと書いてありました。外国人に開放する、この信長の解放性は素晴らしいと思いませんか。鉄砲を作り、鉄の船を作り、外国語大学を作り、千利休をして茶道を高めるなど400年前ですよ。すごい。
 ・彦根に城普請してから、彦根城が中心となり、「安土城は廃城」となりました。石なども一部は彦根に移されたといいます。その後平成まで誰も振り向くことのなかった安土の町なのでしょう。道路は狭く、何か活気も感じられない状況でした。叡山焼き討ちの影響を受けた坂本の町と同じく安土城炎上でこの安土の町も時代に取り残されていったのでしょうか。「悲しい運命」を感じます。
5.お土産は例によって地酒、本醸造「信長の夢」とにごり酒「安土城 信長」の2本を買い、帰路に。15時過ぎ天王寺に到着。恐らくもう行く機会はないと思いますが「今回、行って良かった」と思っています。「是非に及ばず」。安土の城跡を見てますます信長が好きになりました。