2008年10月2日木曜日

10月2日(木)働きに応じた公正配分

・ 「均等配分」「公平配分」「公正配分」の違いが判っていない人間がまだ世の中には居る。組織内に働いている人間は「取り分はすべて均等でなければならない」と言う論理だろうが、「トンでもない話だ。」毛沢東時代の「人民公社」、スターリン時代の「コルホーズ、ソルホーズ」の時代に遡るわけにはいかない。これらがすべて失敗したことは歴史が証明している。
・ 「頑張った人には頑張った分」を受け取る権利がある。「それなりの人にはそれなりの分」が与えられて当然である。中国も市場経済で息を吹き返し、ソ連は崩壊し、資本主義のロシアになって国力に勢いが出てきている。
・ 「人間の本質的な部分」を無視したら「だれもやる気など出ない。」「皆で公平に分配」というのは聞き心地は良いが「嘘」だ。「個人の所有権、獲得権」というものに応えてこそ、「人間には意識と努力」が現れてくる。額に汗して頑張った教員とサボることだけ考えている教員の給料や諸手当てが同じであるはずがない。
・ 私は論文で今まで何回も「学校は一種のコミューン社会」と論じてきたがこの表現を「上手い」と言ってくれる人は多かった。教員が教員の手で職員会議の挙手を経て全てを決めるという文化が一大特徴であったが、そこには「個人の貢献度と結果責任」と言う概念が希薄でそれが徐々に悪いように作用していったと考えている。
・ 戦前の反省から戦後荒廃した国土の中に「新しい教育を通じて戦後復興に果たした学校と教員の功績」は極めて高い。驚くような経済成長はすべて意識の高い勤労者の勤勉による。初期段階においてはこれらの学校文化は大きな意味を持ち、成果も大きなものがあった。
・ しかしそれは参画する教員が「高い志」を持ち、「教育研究や研修」などを頻繁に行い、教員間で切磋琢磨して、「意識と努力と技量に差異の無い時代の話」である。「銭金勘定だけの教員」などそこには居なかったはずだ。当然そこには必然的に「教職員組合」という団結するグループが出来てもおかしくは無い。逆に組合の持つ良い面が大きく作用したと評価できる部分は大きいと私は思う。
・ 中山前国交省大臣みたいに「日教組は教育のガン」みたいな「アホ」なことは私は言わない。ところがだ。時代の変遷と共に「教員の質に大きなばらつきが出てきた」。「その差が目立ってきた」ということだろう。「でもしか教師」という有名な、この世界で時に使われる言葉があるのをご存知だろうか。「教師にでもなるか」「教師しかなれない」という意味だ。この「でもしか教師が問題」なのである。
・ 今は違う。ちゃんとした学校の専任の教師になるのは「難関中の難関職業」であり、容易なことでは手にできない。就職競争倍率は高いのだ。だから「大分県のような採用汚職」が起きるのである。
・ 「教員間にやる気、実績、努力、協調性等に差がある」ことはどの教師も知っている。ただ口に出して言わないだけだ。又そのことは「当該の教員自身が知っている」ことである。「自分はあの人の足元にも及ばない」と。
・ 公立教員の採用試験に失敗し、「やむなく私学に勤務する」と言う事例は多い。勿論最初から「私学狙い」というのもあるが「曲折と屈折」した中で私学の教員を継続している人は私学には結構居るとこの3月まで本校に勤務していた某先生が私によく言っていた言葉だ。
・ 今社会で大きな課題は「問題教員」であり品よく言えば「資質に問題がある教員」となる。その選別が「評価育成システム」であり、その評価を「処遇に反映する」ということだ。要は「頑張り教員」も「ダメ教師」も給料が1円も違わないと言うことを改めて「頑張っている教員を応援する」というシステムなのである。「青信号を集団にまぎれて渡っているさぼり教員をあぶりだす」と言ったほうが良いかもしれない。
・ 自分は職員会議にも出ず、何か「手当て」とかの「自分の損得」の時には出席し、「とにかく損をしないように意見をいう」輩は公立にも私立にも結構居るのではないか。問題教員の特徴の一つは「生徒の為の教育活動をするという概念よりも教育と言う営為を通じて自分の給料、手当てがどうなるか」が先に来る。順序が逆だと思う。
・ 長期休業中に「朝6時から夜の24時まで5日間連続して特別講習」をした先生の「特別手当があって悪いわけではない」。これは保護者生徒の要望に基づくもので言ってみれば「市場が決める性格」のものである。「あの先生に教えて欲しい」というのは前の学校でもよくあった。「あの先生はサボり、あの人の教え方は良く分からない」ということを最も知っているのは「生徒自身」である。
・ 「あんな講習なら出ても同じ」と生徒の評価が定まったらそのような講習など何時かは廃れる。それが市場である。単価が高かろうと「良いものは良い」のであって、生徒保護者が「価値ある」と判断されたら「お金は出して下さる」ものだ。
・ 「公平分配、均等分配など今後はあり得ない」。「働きに応じた公正な配分」だ。勿論、住宅手当、子ども手当て、通勤手当などは全く同じである。これらは能力実績で差があってはいけない。しかし基本の部分は当然差が出てくるのは時代の流れだ。一般の勤労者はその厳しい現実の中を生きている。今まで教員が恵まれていただけの話しである。「残りものに福」があっただけの話である。
・ 「英国数の教師ばかり得をして」などのたわけた意見があるが「それは大学側の指定」であり、私学文系などは基本科目「英国社の受験」だからだ。これらを「基本科目」と言う。そこに理科や体育や芸術科目が無いから「講習で稼げない」と言う論理には反吐が出る思いだ。「自分のことばかり」である。
・ 「理数科の教員ばかり得をして」という論理にも賛成できない。理数科はそれだけの難易度の高い教材の準備、講習の中身の濃さなど他を圧倒している。他の有名な進学校に比べたらまだまだであるが、理数科が進学実績を伸ばし、生徒を集めているエンジンであることは間違いのない事実だ。それに彼らは「厳しい結果責任」を負っている。
・ 部活動の教員との比較は見た目は教科指導に比べて見劣りしているように見えるが、決してそうではない。保護者負担とか公式戦とかの手当て全てを入れれば大きく見劣りはしない。それは手元にデータがあり、私には良く分かっている。
・ 結局何もしない人間が「取り残されている」ように感じているだけではないのか。「人の懐を気にする前に自分で稼ぐ算段でも考えろ」と言いたい。昨日素晴らしい外部講演会を聴きにいったが沖縄県のトップ私学昭和薬大付属高校の進路指導部長はこう言っていた。
・ 課外講習は夜8時まで実施、長期休業中も春、夏、冬と3回入れ、講座の数は通産物凄い数でPTA会費とは異なる受益者負担で賄っておりその予算は年間3000万円という。驚く数値だ。「価値あれば保護者は出してくれるのである。」結果は東大9人はじめ国公立、早稲田、慶応ばかりだ。人気のある講座は生徒で一杯だと言う。
・ とにかく人民公社とコルホーズの悲劇は「他を知らない、個人の貢献度を認めない」ことで、そのように見てみれば間違いなく「幅の狭い、見方の浅い、枯渇な損得勘定、人への妬み」が全ての人が居るとすれば、そのような人間は教員の資質に問題がある。そのような人物が本校には居ないことを念じる。