2008年10月20日月曜日

10月20日(月)職務命令

・ 「大阪市の裏金問題」はもう聞きたくも無い話しだがようやく終結に向かった。確か7回目のくらいの調査で「これでもうない」と市長が言ったら又何処かの区役所からぼろぼろでてくる感じだった。「腐っている」としか言いようも無い公務員の体質である。
・ 総額7億2800万円というから尋常な数値ではない。すべて大阪市民の税金だ。飲み屋や風俗などにも流用され、上は局長級から課長級一般行政職、全てにわたって「裏金を作り流用」していたのだから酷い話だが、大阪市だけではなく大阪府も太田知事の時代は裏金で大変な騒動になったのは記憶に新しい。
・ 再発防止で市長は公金を扱う部門の全行政職員に「誓約書の提出」を求めたが「26000人のうち106人が拒否」していると言う。困惑した市の総務局は「最高内部統制責任者である市長が職務命令」として提出を求めており、拒否することは「職務命令違反に当たる」として「大量処分」を検討していると言う。これは面白いことになった。
・ 誓約書は「今後一切の不適正資金の取り扱いをしません」と「二度とこのような事態に手を染め市民の信頼をそこなうことのないように公正な職務の執行にあたる」と言うものらしいが報道によれば特に後段の部分に異議を申し立てているらしい。
・ 即ち「二度と手を染めない」というくだりが気に食わないと言うらしい。「個人として裏金にかかわったことがないのに無理やり罪を認めされられているようにしか読めない」と言っているとのこと。
・ これに対して平松市長は「自分自身の指導力のなさとともに大阪市の組織の大きさを知らなかったと反省」しているとのコメントである。何を言っているのかサッパリ分からない。アナウンサーを長年やるとこういう物言いになるのか。とにかくこの人は橋下知事と対照的だ。「トップは分かりやすくはっきりとものを言う」のが最低条件だ。
・ 職務命令違反は「懲戒処分」に相当する。元々公務員は就職時「日本国憲法を守る」と署名捺印が義務付けられており、私なども大阪府の教育公務員になった時は署名捺印した。憲法を守ると言うことは「絶対的な遵法精神、国民府民へのサービス、勤勉義務」等一切合財が含まれており「裏金誓約書」などは元来憲法遵守の署名に含められているものと考えるべきではないか。
・ だから「裏金誓約書」の提出などが元来おかしいのだが「念には念で提出命令が出た」と解すべきでこれに逆らうことは公務員の職を去るということだと私は理解する。「二度と手を染めない」というくだりは読み方で「全体責任」と考えたら良いわけであり、難しく「屁理屈」を言うべきでない。住民目線が全く無い。
・ しかし26000人もいれば「変わった奴」もいる筈で106人で済んだと私は感じる。多くの市の公務員が反省しているということだろう。彼らも「二度と手を染めない」という文言には葛藤があったかもしれないが「ここは連帯責任で我慢」したということだ。
・ 組織のトップが勤務中、業務に関して発した言葉は元来「職務命令」となるというのが私の解釈だ。そうでなかったら40000人の職員を有する市のトップなど務まるわけが無い。「ああ、あれは市長個人の考えです。私は知りませんし、従いません」では組織ではないし仕事にはならない。
・ 学校において「校長は職務命令を出せるか」については学校教育法28条3項の「校長は校務を司り所属職員を監督する」との法律上の規定がある。この監督権とは「学校教育」「所属職員」「学校施設」「学校事務」と重要なポイントは「職務上及び身分上の監督権」も含まれていることである。
・ 「教師の服装や言動に校長の監督権が及ぶ」のは当然であって裁判の判例でも明らかである。教育者として教育活動を遂行する上で支障となる服装や信用失墜行為なども校長は指導助言しなければならないとある。
・ 学校改革で長年「校長のリーダーシップを発揮せよ」との「リーダーシップ論」はこの校長の「監督権を行使して職務命令の形」で進めるべしとの論考があるのだが実際の学校現場で「職務命令という形と言葉」で執行される局面は少ないと言うか殆どないのではないか。
・ かくいう私も「職務命令」という言葉は使わず、「リーダーシップ」を発揮してきていると言える。その代わり「校長メッセージ」という形で「思いを伝え方向を指し示して」きた。「緩やかな職務命令に準じたもの」とでも言えようか。
・ 「職務命令の発行の形態」は例えば卒業式の国旗国歌斉唱に関して一部教員が反対して円滑な式が遂行されない危険性が高いと判断した時に校長は「文書」で職務命令の形で出すと言うことが少ない事例である。
・ 平等で均等で全員の協議で物事を決めていく職員会議のやり方に馴染んだ教員が「校長の職務命令」と言っても「違和感」を覚えるのは考えてみれば当然であり、肝心の校長そのものがつい此の前まで「職務命令に拒否してきた張本人」であることを考えればこの職務命令が生きたものになるのは学校ではもう少し時間がかかるのではないか。
・ 古い世代がすべて居なくなり若い感覚の教員が出てくると「校長先生が言っていることでしょう。それに従うのは当たり前やんか」となってくるだろう。その時は「全ての責任は校長が取らねばならない」のは当然である。
・ 若い世代は割り切っており、「校長の仕事」と「教員の仕事」を峻別している。「自分は何をなすべきかが分かっている。」古い世代の教員みたいに「校長の職務権限を制約するような愚かな真似」はしない。
・ それはそれを行えば「自分の責任に跳ね返ってくる」ことを知っているからである。「責任を取るほど高い給料は貰っていない」ということだろう。「サッパリしている。」それに何でもかんでも「かまされるのはしんどい」と若い世代は思っている筈だ。自分のことで手一杯だ。
・ 「司、司に任せる」という考え方は「個人主義に育ってきた若い世代」には好都合なシステムかも知れない。個人パソコンを供与したが情報のやり取りなどは極めて上手いのが若い世代だ。待ち構えたように職員会議で紙のオンパレードの中で「文句ばかり言っていた教員」にとっては職員会議という落ち着く場所がなくなって寂しい限りだろう。