2008年10月19日日曜日

10月19日(日)利休のふるさと堺大茶会

・ 勤務場所が徐々に南下してくるにつれ、「堺という町に興味」が出てくる。最初は北の「土佐堀」のマンションで淀屋橋の本社には歩いて数分のところであった。中ノ島新線がなくとも便利なところで当時は「北の新地」は庭みたいなものだった。
・ 次に勤務先が「上町台地」ということで「天王寺」に住んだ。4年間であった。もう天王子界隈はこれまた庭みたいなものになった。今度はミナミだ。勤務先が南海高野線沿いの市内南部ということとそのほかの理由もあり「難波」に移ったのである。
・ 「大和川に近い勤務先」には川を越えた堺、岸和田、泉州地域からの生徒らが多くいる。それで徐々に堺という町は深い関係となってきたのである。最も企業時代は堺には関係会社群があの地域には集中しており、よく出張したものだった。定宿は堺ロイヤルであった。歩いて出張先に行けたものであるが市内には行く機会などあろう筈がない。
・ この「堺ロイヤルホテル」は本校の「塾長様対象の学校説明会」で利用する場所で「縁の深さ」を感じたものだった。学校から車で堺旧市街の中心地「宿院」というところには15分もあれば行ける距離で大阪市内といってももう学校は堺市にあるようなものだ。
・ 堺は「千利休」で有名である。もっともそれだけではなく、仁徳天皇陵から考えれば日本の歴史の中枢を担ってきた土地柄であるがなんと言っても好きなのは「戦国時代からの堺の歴史」だ。
・ それに下手の横好きで「茶道というかお茶の世界」が大好きで一度ゆっくりと「利休生誕の地」と有名な「南宗寺」を訪問して見たかったのである。今日は我孫子前駅のポスターで知っていた「堺まつり」の日で特に予定はない。それで本日堺行きを決行したのである。
・ 今日は堺まつりのイベントの一つで「大茶会」というのがあるのは知っていた。場所は2箇所に分かれ、一つは南宗寺もう一つは「大仙公園」というところだが、迷うことなく私は南宗寺を選ぶ。結果的にここは各流派のお席が立てられており「グッド」であった。公園の方は大学の茶道部とかの集まりのような感じであった。
・ しかし本当に分かりにくい場所で数人にお聞きしてようやくたどり着いたのである。南宗寺はあの戦国大名三好長慶が建立したが大阪夏の陣で消失、あの沢庵和尚が1619年再建したものだ。
・ 中は広大で千家一門の供養等、「利休好みの茶室実相庵」、伝説の域を出ないがあの徳川家康の墓と言うものがある。私は「表千家」がどうも好きで今日も「表さん」のお茶席を探す。運の良いことに「実相庵」がお席であった。
・ それにしても極めて多い客であった。洋服のご婦人もおられたが多くは「和服姿」でそれはそれは見ごたえがあったのである。「女は着物姿に限る」。今日は生憎堺の地場振という会館で月に一度の「骨董市」で私はオンボロのバイクで出掛けたから着物は着れなかったのであるが後悔した。
・ 表が2席、裏が2席、武者小路千家が2席と境内の天慶院と徳泉院とか野点席とかそれは「巣晴らしい環境でのお茶席」であった。境内の中には古い建築物もあり、特に甘露門、唐門、仏殿はいずれも17世紀の建築物で国の重要文化財に指定されている。
・ お茶席でお隣さんになった妙齢のご婦人二人とナンと言うことはなくご一緒になり、ともに境内を散策しました。こういう日は「ボランティア」のご年配の方が親切に案内してくれた。これは男の私一人では駄目だったでしょうね。
・ 特に仏殿の「四方睨み龍」には驚きました。素晴らしいものでした。今日は何処へ行こうともお茶席券を買うことで入門はパスなのです。ご一緒したご婦人は「物言い」が本校の女性事務職員のO主任とまったく同じで聞けばやはり「堺っ子」とのこと。堺の女性の話し言葉は「何かはんなりというかやさしいというか感じがとても良い」。私は堺弁が大好きである。
・ それに比べ和泉、岸和田 貝塚などのいわゆる「泉州弁は少しきつく感じます」。もっとも良い人ばかりですが。そのようなわけで今日は堺南宗寺という千利休ゆかりの場所で有意義な、ゆったりとした一日を過ごすことが出来ました。帰宅は15時ジャストでした。
・ 私は「千利休が大好き」だ。。このような「偉大なる俗物」に大いなる敬意を表します。私流に言えば利休も「覚悟の人」です。秀吉にも頑として主張すべきはして転向、偏向はしない。従容として「死についた利休」に「男の激しさ」を逆に私は感じるのです。
・ 「利休は激しい男」であったと思います。だからこそ信長、秀吉と戦国の覇者の「茶頭」を勤めることが出来たのです。そして最後まで「安穏な人生」とはならなかった。そこに惹かれるのです。自宅の「畳の上で大往生」するのはどうも性に合わない。
・ そしてあの短い間に400年経っても基本的には何も変わらず、今に続く「侘び茶茶道」を完成させた「プロデューサー」としての才能は余人には不可能です。彼が聖人君子であったらこのような大事業は為しえていないというのが私の考えです。だから私は「偉大なる俗人」と言っているのです。
・ 私は利休の「遺偈」にとても感動を覚えます。余りにも有名な利休の「遺偈」。激しい男だったんですね。「全身からエネルギーが迸り出る」。
   「 人生七十 力囲希吐   吾這宝剣 祖仏共殺
     提我具足一太刀 今此時 天擲 

  「先祖とか仏とか関係ないワイ。時至れりだ。我が腹を掻っ切って、はらわたを天に投げうってやるワイ」といったところでしょうか。「凄い」。 こんな政治家、今居ます?。