・ 「教員への言動指導」は難しい。しかし私は「言わねばならないときは言う」ことにしている。この学校の経営者として又校務運営の責任者として「言うことが私の責任」とも考えているからだ。断っておくが基本的に「がみがみ言う」のは好きではない。
・ とにかく「指導する」ということは結構「エネルギーを消耗」するものである。あまり言っても「一々、箸の上げ下ろし」と取られてはこちらも面白くないし、言わなければ教職員は「それで良いのだ」と勘違いしてしまう。
・ 特に今の浪速のように「素晴らしい学校に変貌」しつつある現実を見ると「まあ、これくらいは・・」とか、ついつい思ってしまう。現実として最近は私の怒りや非難、指導の矛先は鈍っているのである。
・ しかしそういう時に限って「失敗した、言うべきであった」とか後で後悔するときも多い。人間というのは悲しいもので「そう簡単に変わらない」ことは自身の体験も入れて痛感している。「意識改革」とよく使うがこれが簡単に出来たら苦労することはない。特に加齢とともにますます難しくなるものだ。
・ このようにして悩んでいるのだが、迷いを払拭するような記事が出ていた。6日の朝日だが「作家の吉武輝子」さんである。見出しは「見事にきれる高齢者に」「60才過ぎれば人生思いのままに」と言うものである。
・ 吉武さんは言われる。「変な社会的制約から解き放たれてドンドン楽しくなりだんだん自分らしくなっていく感じ」と自身を観察し、「年寄りへの注文」としておとなしい年寄りになりすぎていますね。「喜怒哀楽の中で人間の尊厳に関わる感情は怒りです。」「若い後輩たちに対して優しく、そしてその上で切れるべき時には見事にキレる、そういう高齢者になるべき」と言われているのだ。
・ 以上の言葉は「地獄に仏」とはオーバーであるが、私にとって考えさせる吉武先生のお言葉であった。記事には「病気になっても病人にはならない」という感銘するものもあった。さすがだ。人生77年も生きてこられると違うということを感じさせられるのだ。
・ そう「見事に切れる」「おとなしいだけの年寄りではいけない」この二つの言葉が私を「すっきり」させたのである。しかし先生の言われるように「見事に切れる、怒るというのは難しい」。口で言うほど易しいものではない。
・ 少なくとも「私憤」と成ってはいけない。私はこれだけは気をつけている。「オーナー企業やオーナー学校経営者」には時々このようなことがあるみたいだ。公私を混同し、社員や学校の先生を「徒弟」や「召使」みたいに捉えては絶対にいけない。それらを「私物化」という。
・ その点私は「オーナーではない」し、「内部から上がってきた人間」ではない。まだ本校に来て2年ちょっとだから経緯もしがらみもない。私物化しようにも「私物そのものがない」のだ。
・ 着任後に良く耳にした「あの先生とあの先生は仲が悪い。すれ違っても挨拶もしない」から「金魚の糞みたいに、何時も連れ添って歩いている」とかの「人間関係の相関図」などは全くない。要は真っ白で単身落下傘で乗り込んできただけの話だから誰とでも「等距離」なのである。
・ 従って私のキレは「単純に学校にとって良いか悪いか」が判断基準である。それも「昔の話し」などは関係ない。「私の目にしたこと、聞いたことだけが判断基準」になる。だから前の校長先生の時に失敗していようがいまいがそんなことは関係ない。
・ 「すべてリセット」して理事長そして校長としての仕事をしてきたのである。これだけは分かっておいて欲しい。個人が憎くて怒っているのではないのだ。切れた後はあっけらかんとして一部の事例を除いて忘れるし他への影響などはない。
・ 私が切れるには大体のパターンがある。「幾ら言っても分からない、理解しようとしない連中、卑怯な振る舞いの人間、余り勉強もせずに深く考えもせずにいい加減のことを口にする人間、礼儀のない連中」など対してはどうも「寛容性がない」みたいだ。
・ こちらは「神経を張り詰め」この学校の「現状と将来」のことばかり考えている時、あれほど「説明責任」を果たしているのに、「脳天気」なことを言われると「ぶちッ」と切れることがある。何時もではない。
・ 「職場というものに対する基本的考えが違う」のだと思う。「職場には緊張感が必要」というのが私の考えである。仕事をして対価としてお金を稼ぐ職場は「居酒屋でもなければ、リラックスする癒しの空間」ではないだろうということだ。勿論職場の人間同士は仲良く助け合っていかねばならないが「赤信号を皆で渡る」ようなことではなかろうということだ。
・ 大体職場や自分の仕事にストレスなどがないようにというのは「嘘っぱち」だろう。自宅の居間でコタツに入って一杯飲みながらワールドベースボールの試合を見ている場所ではない。「職場というのはプロ職業人の真剣勝負の場所」である。
・ まず「私の指示」を守らず、勝手なことをしたり、遅れたり、又その報告がなかったような場合は指導する。その理由は、例え結果についての影響が大きかろうと小さかろうと許せない。殆どがこれだ。私の仕事の大きな特徴として「タイミングを大変重要視」する。タイミングを外した仕事など全く評価しない。
・ 仕事というものは「乾坤一擲の勝負時」があり、それを外したりしたら意味はないと考えているから勝手に解釈して自分のペースで仕事を進める連中もだ。私の指示は考えに考えた上で出しているからそれを無にされると切れる可能性は高い。
・ それは周辺の事態が時々刻々変化するから、企画した「手順が狂う」と全てがパーになることを恐れている。だから「スピード」を重要視する。結局「感性の問題」なのだろう。遅い仕事などタイミングを狂わせるだけで、それならしない方が良い。
・ 単なる失敗とかボーンミスとかは決して怒らず責めたりはしない。人間誰しも時には失敗はあることだ。しかし一旦私が注意し、指示し、強調したことを「ボーッ」としていて守らず失敗した場合は厳しくなる。私の指示は極めて具体的でその前後までストーリーを指し示し、時には「出来上がりの結果」まで指し示すことがあるくらい「実践的で具体的で良く分かる」ものである。
・ もう一つポイントは「組織の秩序維持」である。大体教職員はこの意識が極めて薄い。変にプライドが高く、力もないくせに偉そうにするところがある。従って「礼儀作法、立ち振る舞い」などはサラーリーマンに比べれば「子どもみたいに無知」なところがある。それは誰も教えて来なかったからである。
・ 近日中に直近6ヶ月で「どのような現象で私が切れたか」記してみよう。どのような項目で私が厳しい指導をしたかを良く観ることで私が「新しい学校つくりで職員に何を求めているか」が分かると思うのだ。