2009年3月15日日曜日

3月15日(日)男が泣くということ

・ 昨日の「中学校卒業式は大変感動的なシーン」が多かったことは昨夜のブログに書いている。ただ一つ書き漏らしていることがある。それは「ある一人の生徒のこと」だ。生徒のことだからイニシャルもここでは書かないでおこう。
・ 式が終わり卒業生が拍手に送られて会場を出て行くときに目にしたのだが、ある生徒が「男泣き」に泣いているのだ。「嗚咽」に近いものももらしていた。名列順に出て行くから最後の方だが「ウッ、ウッ」と声を出しながら歩いて行くのが目に入ったのである。
・ 私はこの時、この生徒はついこの前生徒の不幸があって葬儀に参列していた時も同じように泣いていた。これは「号泣」に近かった気がする。いずれもまったく恥ずかしそうにせず前を顔をまっすぐに向いてである。私はこの時この生徒の「意外性」に驚くと同時に「感動というか、驚きというか心に響くもの」を感じたのである。
・ この生徒は日頃は明るくてお茶目というかささやかなやんちゃなムードメーカーであり、皆の人気者である。スポーツも大好きでクラブも熱心である。私とも仲が良い。昨年の運動会では3年生ということで「大きな役割」が与えられ立派にやりとげたのである。
・ このときは「上手くやってくれるだろうか」と心配そうなお顔をしたお母さんらしき人に「あっちへ行け!」というようなことを言っていたのを、私は微笑みながら観ていたのを思い出したのだ。母親が側に居るのが恥ずかしかったのだろう。
・ 結論的に言おう。私はこの生徒に「言いようもない好感情」を有したのである。「泣きたいときに泣けば良い」。恥ずかしいことでも何でもない。この生徒は「優しい心根」を有しているのだ。私も卒業生のクラス担任も今回の式では「涙した。」それで良いと思っている。
・ 私は「涙もろい人間」である。「加齢を重ねる」たびにますますその傾向は強まっている。「喜怒哀楽、毀誉褒貶、感情の起伏」、人は色々言おうと私は泣きたいときには泣いて良いと思っている。「男は人前で涙を見せるな」と良く言われるが、そんなことはないだろう。
・ 「鉄面皮」と言われるよりは良かろう。「泣き顔」を恥ずかしいと思わないでもないが、恥ずかしいから泣かないということではなかろうということだ。泣くという行為をもたらすものは圧倒的に「悲しみ」である。私も敬愛する父や母が亡くなったときには傍目もはばからず「男泣きに泣いた」。今でも思い出すと涙がにじむ時がある。
・ 記憶に新しいが「橋下知事」が府下の市長会のメンバーに「財政改革」で訴えていたときに市長連中から激しい非難を受けたときに「マスコミの前で泣いた」。この時は大きな騒動になり、作戦か、自然かというつまらない意見が出たりしたが、あれは「自然の涙」だと私は確信している。
・ 知事は基本的に「涙もろい人情家」だと私は思っている。喜怒哀楽が激しいのだ。だから光の母子殺人事件の弁護士など許せなくて「懲戒請求」を求めたりしたのだと思う。人情家が冷徹に振舞っているだけだ。ただ目標を達成するために「フラッグ」を余計にはためかすきらいはあるが、この辺は意識して「タレント性」を出しているのだろう。
・ 涙は悲しみだけではない。「悲憤の涙」「歓喜の涙」「悔し涙」もある。最近、昨年大学受験に失敗して「一浪」し、今年「大阪市大に合格」したとある生徒が校長室に報告に来てくれた。この生徒のお母さんはPTA役員で本校は大変お世話になった人である。
・ 私は「お母さん、喜んだろう」と聞くと「びっくりするくらい大声で泣いてました」という。嬉しくて、嬉しくて当たりかまわず、大声で畳にペタッと座り込んで天井を見ながら大泣きしたのだと想像する。このお母さんは「太っ腹で親分肌の感情豊かなお人」であった。木村改革の支援者であった。私は思わずこのお方が泣いている姿を想像して「にんまり」としてしまったのだ。
・ 毎日新聞3月14日卒業式の朝刊の「近聞遠見というコラム」に政治評論家の岩見隆夫さんが面白い記事を載せている。見出しは「かって政治家は泣いた」とある。私はこの記事を読んで嬉しくなった。タイミングが良い。
・ 「かって政治家は涙した。それが行動のバネになる。しかし今や政界は情感の乏しい世界になってしまった」と書いてある。かって豪腕で知られた河野一郎という政治家が居た。この河野が昭和27年第3次吉田内閣のときに盟友鳩山一郎が病に倒れた後、復帰の日比谷公会堂の演説会をうまく乗り切ったときのことらしい。
・ 鳩山が演説後「河野が涙をポロポロ落としましてね。面白い人ですね、あの人は。あんなに強くて、非常に泣きっぽい」と記事にはある。河野という政治家はあたりを睥睨する感じの大物政治家で、「あんなに強い」という鳩山の表現が面白い。そう「強い男こそ泣く」のだと言ったら語弊があるか?
・ その鳩山が河野と並び立った「鳩山の軍師」と言われた腹心の三木武吉の葬儀では「枕頭」で泣き崩れ、その鳩山の写真が残っているとある。岩見氏は「涙する政治が懐かしい」と評論家らしい表現を使われている。
・ 文中、あの田中角栄さんなども良く涙したとある。「この10年くらいの日本はかさかさしてドライでウエットな潤いのあるものが失われている」と岩見氏は言う。私もそのように感じる。
・ 私は自分のことを基本的に「涙もろい義理人情家」だと思っているが本校の教職員はどのように感じているのだろうか。管理職が5名いるが私が最も感受性が豊かだと自信を持って言える。最も仕事だけの付き合いだから詳しいことは分からないがあらゆる場面でそのように感じる。
・ 「泣いて子どもを叱る」、昔はこういう話を良く聞いた感じがする。教育の現場では「ウエットな部分は極めて重要である。」確かに「ドライに割り切らないと教師は大変ですよ」というのも分からないではないが、それでも私は「学校現場にもっと涙があって良い」とさえ思うのである。