2009年3月30日月曜日

3月30日(月)管理職の給料

・ 私は3月8日のブログで「鹿児島県阿久根市の市長」のタイトルのもと、かなり詳しくこの人の進める「市政改革」について言及した。「市議の人気投票」をネットで募ったり「市職員の給与をすべて公開」したり、とにかく今ホットな人なのである。
・ このとき大阪府の橋下知事は「大変よく分かる」と評価の声を上げたが遂に具体的な動きが出てきた。大阪府は28日職員の年収額をホームページ上で公開した。知事が「職員は税金を貰って生活している」から当然阿久根市と同じで「公開すべき」と指示したというのだ。知事も仕事が速い。
・ ただ職員数が多いのですべてというわけには行かず、「役職や年令で27モデル」にわけて算定し公開した。最高年収は特別職を除き、「部長級(55歳)で1176万円」である。
・ モデル年収額は「行政、教育、警察の3分野」で算出し地域手当などは含むが時間外手当など役職で増減しない手当ては含まれていない。ここが阿久根市と大きな違いだ。とにかく公務員には何十項目も「手当て」と称するものがありここが分からないと詳細な比較は出来ない。言葉は不適切かも知れないが「ブラックボックス」と言う人もいる。
・ 「1000万円超え」は行政職の部長級と次長級(55歳で1106万円)、警察官の警視(58歳)の3モデルだったという。行政職の主査クラスでは「45歳で657万円、主事級・大卒初任給は312万円」と発表された。
・ 警察官の警部補クラスは「45歳で703万円」である。「巡査・大卒初任給は351万円」である。さて肝心の「教育職の年収」は一体どう発表されたのかということである。まず高校教員については「校長55歳で936万円、教諭45歳で694万円、教諭・大卒初任給は363万円」となっている。これはちょっと実態より少ない感じが私にはするが・・・。
・ 小中学校教員については「校長55歳で874万円、教諭45歳では677万円、教諭・大卒初任給で363万円」となっている。さて問題はこれらの「公立教員の給与が私立に比べて高いか安いか」ということである。
・ しかし正直なところ前述したように発表された数値、これだけでは断定的なことはいえない。上記発表された年収に算入されていない「手当て類」は結構大きいものがあるからだ。それでも敢えて言えば「私立の教員は公立の教員に比べて断然年収は高い」ということは出来る。その根拠は私は別のデータを有しているからである。
・ この新聞記事を読んだ本校の教職員は「すぐに自分のものと比較できる」だろう。該当する年令の本校の教員は自分と比較すれば高いか低いか直ぐ分かる。もっとも大阪府の場合、全国のラスパイレベルでは最下位に近いから、そこは外してはいけない。
・ 私は意見として「校長の年収が少なすぎる」と思っている。公立の校長になったとき給料の安さに驚いたものだ。前の企業時代の仲間から同情されたりした。大体校長が1000万円以下というのはおかしい。もっと「校長の処遇を高めなければならない」。安い給料で校長のリーダーシップも無かろう。
・ 世間的には「学校の校長先生」と尊敬のまなざしで見られるだろうがその給料たるや一部上場企業の課長以下並で「これではアカン」というのが私の受け止めである。だから教頭や校長へのなり手など居なくなるのだ。シンドイ仕事をさせられて給料は恥ずかしくて口に出して言えないのではどうしようもない。
・ 公立の管理職はボーナスが「期末・勤勉手当」と称して半期単位で反映させているが基本的には差が付かないシステムであろう。しかし本校は半期単位など全く関係ない。「貴方の来年度の年俸はかくかくしかじか」ですと通達するだけである。それを12ヶ月の均等割りにしようが、7月と12月に少し多く配分しようがそれは本人の好き勝手としている。
・ 管理職の年俸は仕事や業績で変化をつければ良い。元来そうあるべきである。だから本校の場合私が理事長になったその年から「年俸制」に切り替えた。管理職手当てを本給に対してパーセント支給とし、加えて「業績反映部分」を付加した。管理職の給料が平教員の体系と同じであることがそもそもおかしいのだ。
・ 大体「日本の組織体の管理職の処遇は低すぎる」というのが私の意見である。アメリカの自動車ビッグ3や今問題となっているAIG生命の重役ボーナスの高額さとは言わないが、その辺の仕事もしない人にくらべて「毛の生えた」ような給料で仕事をせよとはしんどい話だ。「組織の成果はやはり管理職の働き」による。
・ 府の人事室は今回の公開の理由を「府政への理解を高めたい」と言っているがこのようなことで理解が進むわけが無い。もっと部長や「校長の給与を上げて頑張って貰った方が良い」というのが私の意見だ。「もう少し上げて欲しい」というべきだ。
・ 知事もパーフォーマンスでこのようなことをしても府政改革に効果は上がらないということを知るべきである。とにかく「府民を味方に」と考えて「役人バッシング」や「教員バッシング」に走るが、少し対象とする人間が違うのではないか。
・ バッシングの対象は「仕事をしない役人や教員」「さぼりの役人や教員」「自己努力のない人間」、このような人には処遇を下げてその原資を頑張っている人に付加することが重要である。その「幅を思い切って大きくする」ことが府政改革である。
・ 大体公開するということは公開してもだれも傷つかないということだろう。大体企業で社員の給料など公開はしない。組織人にとって「給料は命」であり、それは単に銭金の問題ではなくてその組織体における「自己の存在価値、アイデンティティの確認証明」となるからである。
・ 当然バランスはあるが日本でも「自分の禄を稼ぐ」という概念が強まってくれば「組織は締まり」、「緊張感」も生まれてこよう。仕事をしようがしまいが給料が同じように上がり、賞与も出るとなれば誰が身を粉にして、苦労して仕事をしようとするか。
・ 日本は実は戦後「コミューン化された社会」だったのである。「皆で均等に公平に」、「飛び出る釘は叩き」「自発的にやってくれるのを気長に待つ」「皆で決め、建前は皆で責任を分かち合う」、だから結局「誰も責任を取らない組織」ばかりになっていった。
・ 日本の組織の問題は一般の構成員の問題ではなくて実は力を発揮しない「無能な管理職の責任」であったのである。「名ばかり管理職」とはマクドナルドだけの話ではなかったのである。政治家など酷いものだ。私は安い給料では絶対働かない。給料の何十倍もの効果を上げるために頑張ろうとなるからだ。馬の鼻ににんじんで良い。元来仕事とはそううものだろう。生きるか死ぬかの戦いである。
・ 戦国武将ではないが戦場で兜首を挙げ地領を増やすなどの「論功行賞」は日本の原風景であったのだ。農耕民族的発想から少しは変えていかないと世界の競争に負けてしまうという危機感が私には強い。それにしても「本校の管理職は良く仕事をする」。まだ働きに見合うだけ差し上げられないのが恥ずかしいが本日「来年度年俸を通知」した。