・ 今日は12月14日(日)、「赤穂浪士討ち入りの日」である。ちなみに昨年の12月14日は金曜日でブログには以下のように書いてあった。要約を再掲してみよう。
* 「赤穂浪士、討ち入りの日」である。学校の方はとても静かな日で、「校長はどこにも討ち入りする用事などなく」、終日部屋に。今日で校内考査も終わり。生徒もどこか良い顔をしている。ほっとしているのであろう。
* 遂に「啓光学園」が大工大グループに入ることになった。大阪工大摂南グループが「常翔学園」となるに合わせて「常翔啓光学園」と改称するそうだ。言ってみれば常翔学園の系列校に入り、2009年4月に男女共学化を予定しているという。(12月5日の大阪日日)
* 以下大阪福島女子高が好文学園女子高に、北陽高校が関大北陽高校にと法人合併に絡めて「学校名変更」について記述している。そして大阪学芸、大阪夕陽丘、開明、関西大倉、星翔、清明、阪南、飛翔館、履正舎等改名した学校を上げ、校名変更が成功に結びつく・・・。
・ しかしあれから1年、本校はまだ名前を変える事態にはなっていないが近隣では初芝さんが初芝立命館高校に変わり、飛翔館さんが近大泉州高校と変わった。1年というのは本当に色々なことがある。
・ さてゆっくりとした日曜日、「私の今年のニューストップ」は、なんと言っても「南河内郡千早赤阪村千早」にある「千早城址」と「千早神社」に参拝したことである。千早城、国の指定遺跡でご存知、鎌倉時代末期から南北朝にかけて存在した「楠木正成の城」である。平成18年に日本百名城の55番目に選定された。
・ 四方を山に囲まれ「要塞堅固を誇った連郭式山城」である。築城が1332年で落城というか廃城が1392年というから「60年の短い命」であった。その城跡が現在は「千早神社」となっており社務所が三の丸、神社が二の丸、その後が本丸跡である。
・ ある目的があって道明寺天満宮宮司で本学校法人の理事長職務代理とご一緒であったが時期は本年「10月16日(木)」で暖かい日和であった。私はこの日に起きたことを「生涯忘れることはない」だろう。しかしその理由はまだ書けない。
・ 千早赤阪村、千早城址といえば「楠木正成」公である。尊称で「大楠公」と言われている。歴史を少し振り返ってみよう。元弘元年(1331)年京都を逃れた「後醍醐天皇」は倒幕の旗印を立てて笠置山で挙兵するが鎌倉幕府の大軍に攻められ捕らわれの身になる。
・ 「隠岐島」に流された後醍醐天皇をお救いせんと元弘2年(1332)吉野で挙兵した「護良親王」に呼応して楠木正成は「金剛山中腹」のこの地に「千早城」を築いて再起を図る。100万の大軍と言われているがいささかオーバーで恐らく数万の幕府軍だろうが、それを正成は約1000人の手勢で「積極果敢なゲリラ戦法」を駆使し、知略の限りを尽くして100日も持ちこたえ、幕府軍を撃退する。「太平記の世界」である。
・ 遂に関東でも倒幕の動きが激しくなり遂に「源頼朝開闢以来の鎌倉幕府」は滅亡する。後醍醐天皇は建武元年(1334)京都に凱旋し天皇親政のいわゆる「建武の中興」である。
・ しかし建武の中興は長続きせず、各地の武将は「足利尊氏」を棟梁と仰ぎ、反旗を翻す中、「忠臣」楠木正成は敗戦を覚悟して兵庫県の「湊川の合戦」に出陣し、遂に足利軍に破れ弟正季と「七生報国」を誓って刺し違え自刃する。正成の死から3年で天皇親政は終わり、延元元年(1336)、尊氏は「室町幕府」を開くことになる。
・ この千早城は正成の死後、南朝に味方したその子「正行、正儀、正勝」が根拠地とするが元中元年(1392)足利幕府の畠山其国らの兵に攻め落とされる。遂に千早城60年の消滅である。
・ 当日ご案内して頂いたご年配のお方の後ろについて歩きながら、私の口につい出た歌が「青葉茂れる桜井の」の歌である。そのお方はちょっと驚かれ、「その歌ご存知ですか」と聞かれたので、私は「小さい頃から知っている歌で何時ごろ覚えたものかは分かりません」とお答えした。
・ 私の世代は大体知っている歌だと思うがその後学校で誰彼に聞くのだが案外知っていない。残念である。「青葉茂れる桜井の」は出だしの歌詞で明治時代に国文学者の落合直文が作詞した「学校唱歌」に入るのであろうか、詩、曲とも巣晴らしいと思う。これを口ずさむと「涙がにじむ」のだ。
・ 湊川に死出の出陣を控えた正成が嫡子正行を呼び寄せ、生き延び再起を期し、「滅私奉公」として天皇にお仕えせよと諭す有名な「桜井の別れ(別離)」の名シーンである。場所は現在の島本町桜井の辺りと云われている。「親子の今生の別れの情景」を歌にしたものだ。忠臣正成を髣髴とさせる素晴らしい詩である。
・ 歌は6番まであり「尽忠報国」の精神を謡う詩の出足が「青葉茂れる桜井の」である。
「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か」
ある人は日本人好みの典型的な歌詞であり「日本の歌謡曲の源流」という人もある名曲である。CDを探しに探しようやく心斎橋のレコード店で見つけることが出来た。
・ 千早城、標高660メートル、千早の里からも200メートルも高く正面は540段余りの急な石段の連続で四の丸跡に至る。この地にある「千早神社」はもともと千早城の鎮守として「八幡大菩薩」を祀っていたが明治以降は正成、正行を祀るようになっているそうだ。ちなみにご存知のように正成は神戸の「湊川神社」、嫡子正行は「小楠公」と称され「四条畷神社」に祭神として祀られてもいる。四条畷神社の宮司は本校の名誉理事長である。
・ まさに千早城址は「太平記の世界」であり、この地に立つと「悠久の大河」を思う。千早城攻防の歴史と正成の一生は「日本人に生まれたことを誇り」とするような感慨を覚える。私は楠木正成を尊敬する。
・ 大好きな歴史上の偉人は二人いる。若い頃から「織田信長」に心酔して来たが、年を取ってくるにつれ「楠木正成」に惹かれていく自分を自覚する。「正成と信長」、全く異なるこの「二人の歴史上の人物が私の生き方を導く」。
・ 歴史家は以下のように評価する。楠木一族ほど、「この美しい生き方、そして悲しい生き方」をした一族はないという。日本外史には「死ありて他なかれ」と賞賛され、この正成の生き方が幕末の多くの志士を奮い立たせ、「明治維新」へと導いたというのです。たった一人の楠木正成の死が500年後の日本の歴史を動かしたというのです。
・ 「道徳教育」が今議論されていますが明日の日本を担う子どもたちに「このような偉人の存在」を「語り継いでいかねばなりません」。私は今日の12月14日「忠臣蔵」赤穂浪士の討ち入りの日にちなんでつくづくと楠木正成公を改めて深く感じるのです。
・ 大楠公も赤穂浪士も「ぶれずに大義に死んでいったその尊さ」を批判するような教育をしてはなりません。「歴史的事実」を教え子どもたちが大人になったときに彼らが評価の判断をすれば良いと私は考えています。千早赤阪村と千早城、千早神社は「神社神道の精神」を礎にする「本校のアイデンティティ」に極めて一致するような気がしてなりません。