2008年12月25日木曜日

12月25日(木)英語の授業を英語でする

・ 高校の英語の先生は一体今回の「新高校学習指導要領」についてどのように受け止めているのであろうか。「英語の授業は英語で指導することを基本とする」と出た。平成13年度から全面的に実施される。
・ 私はこの公表を見て正直「?」というのが感想だ。一見「悪い話ではない」ように見えるが「ちょっと待てよ」という気がするのである。確かに日本人の「英語下手」は分かってはいるが、「英語は学問なのかはたまた伝達手段」として捉えるのか今日本の英語教育は分水嶺に来た感じだ。
・ 近くではノーベル賞を受賞した益川敏英先生は「英語大嫌い」人間を自ら宣言していたが、これもおかしな話だ。理系の学生は「研究論文を英語に訳する」のが今や常識中の常識で「日本語で論文」を書いても世界には問えまい。
・ かく言う私は「英語大好き人間」で時に気障に見えるくらい英語をスピーチに入れたりする。その方が分かりやすいし、表現として良い場面があるからだ。テレビのコマーシャルやタレント、コメンテーター、評論家などの話す言葉は今や「和英折衷」ではないか。
・ 私の場合高校の時の英語の先生が「可愛がって」くれ、英語が大好きになった。一生懸命に先生は私に「文法」を教えてくれた。そのうちに「英作文」についても「これを訳して明日持って来い」と鍛えられた。
・ 企業時代に「ニューヨーク勤務」を命じられて赴任したのであるが「英会話はさっぱり」であった。しかし「何とかなる」もので3ヶ月で聞けるようになり、半年で意思の伝達が出来るようになった。勿論決して「流暢で上手い」とは言えない代物であったが「伝達言語」としては形が出来てきたのである。
・ 人間、その世界に放り出されたら「飯を食って行く為」には「その気になって努力」をするものだ。その時に大切なことは「基礎基本」が出来ているかが問題である。私は当時「褒められた」。それは「お前の英語は正しく喋ろうとしている。」「それは何処で学んだのか?」というものだった。すべて「高校時代の基礎基本の勉強のお陰」である。
・ 突然「英語で授業せよ」と言われても全国の英語の高校教師は「困惑」するだけだろう。90%以上が高校に進学する時代だ。一口に高校と言っても超進学校からスポーツ振興の学校もあるし、課題を抱えている生徒が通う学校もある。
・ 私はこの問題について「二人の教員」を部屋に呼び、今回の件について「意見を求めた」のである、男女で英語にかけてはTOEICで900点を超える「名うての英語使い」だ。「思うところを述べよ」としたのである。
・ その結果は一人の先生は以下のように言う。本校で実施するとしたら現段階では「上位クラス」のみだという。しかし完全に英語だけというのは不味い。文法説明などは「混乱を招くので日本語の進行が望ましい」という。
・ 「復習する場合はそれは既習のことなので英語での進行も斬新」で良いと思われると書く。質問が英語で出来るようになれば上等であり、それくらいになれば企業が求める人材TOEIC500点以上のレベルとなると。
・ しかしこの先生はいう。「率直に言って作文や和訳などを見ていると日本語の言語能力が乏しい」中で「やっていけるとは思わない」。外国語という枠組みではなくて言語はまず「読み書きができてこそ何ぼの世界」だから英語の聞き取りや会話を重要視する必要性を感じないとまで言い切っていた。
・ もう一人の女性の先生は「正直なところ大きな不安を感じる」と書く。英語で授業が可能かどうかの問題ではなくて、「小学校での英語導入、中学の英語指導、高校、大学入試」と文科省には「一貫した狙い」があるのかという指摘である。
・ 「使えない英語」から「使える英語へ」と「強制的に移行」させようとする危険性を指摘し、この先生が出た外大の学長が入学式で「外国語大学は会話ができるようになるための学校ではない。会話が出来るようになりたいなら街の英会話学校に行けば良い。学問として言葉を研究するところだ」といわれたことを思い出すという。
・ 特に最近決まった小学校の英語教育は「学校任せ」で「到達度もばらばら」では意味はないと。「絵本のような教科書」「スカスカの中学英語」から例えば本校の理数科クラスになると10倍くらいの分量の教科書を使うようになる。
・ 今問題は「増えていく英語嫌い」の問題であり、単語をひとつずつ覚え、文法や構文をものにしていく「息の長い努力」をする生徒が減っていると言う現実の解決が教師の目先の問題であり、さらに2人に共通しているのは「大学入試」を如何するのかと言うのだ。
・ 私はこの2人の教師の指摘する点は理解できる。これを本格的にするのであれば「大学入試の大改革が必要」で小学校からの一貫した「シラバス」が絶対必要だと主張する。理想だけの理念を示しただけで後は「現場で宜しく」では間違いなく「日本の英語力は低下する」と断じているのだ。
・ マスコミは教師の側の問題を指摘する論調が目立っていたが、これに対しては文科省も「困る先生を想定していない」と朝日は書いている。確かに高校の英語教師であれば英語で授業自体に問題を感じるような先生はいないだろう。居たら失格である。そういう問題ではないのだ。
・ しかしクラス40人で又習熟度別クラス展開の中で具体的にどのような「英語による英語の授業」が意味を持ち「到達度と評価の仕方」について「学校間でバラバラ」ではこれは大きな問題となる。「ゆとり教育の二の舞」になりかねない。
・ 経団連は「グローバル時代の人材育成」を訴え、中教審は「今回の方針は小学校に英語教育を導入した時点から既定路線」というが現場を預かる英語の先生にはこれは「大変なテーマ」となろう。
・ おそらく何単位もある英語の授業中で一単位位が「日本語絶対駄目、英語だけの日」などで「お茶を濁す」ことになるかも知れない。当面この議論に注目する必要がある。英語を伝達手段とするか、ひとつの学問かという基本問題だ。
・ と同時に「一生英語なんかと関係のない人生を送る生徒」が殆どだということを考えれば、そういう生徒に何で英語を必修で学ばせるのか。「英語は選択で良い」というのは言語社会学の権威である慶大の鈴木教授だ。一理ある。とにかくこの問題から目が離せなくなってきた。