・ 1月7日読売の夕刊はトップ記事で「大阪府公立小中、放課後学習に塾講師」とある。府教委は「大手学習塾など3社と提携」し、府内の公立小中学校で実施している放課後授業「おおさか・学び舎」に「塾講師を派遣」することを決めたとある。
・ 「基礎学力の向上」を目指す「橋下知事の意向」を受けた取り組みで、今月中旬から数校でスタートし順次実施校を増やしていくらしい。講師を派遣するのは大手学習塾の「サッピクス」「第一ゼミナール」「トライ」だ。極めて強力なグループである。
・ 背景に新たに任命された藤原和博氏の東京和田中の「夜スペ」があることは間違いない。橋下知事による「公立教育改革」が熱を帯びてきた。しかし私は何時もこういう記事を読むと「どうしようもない複雑な感慨」を覚えるのだ。私は6年前、新聞は言うに及ばず、NHKやABCテレビにも取り上げられた「教育界の一大事件」の主役であった。
・ 府立高津高校で1年生を対象に「進学塾ウイン」と組んで土曜日4コマの英数国の講習を企画した時だ。「土曜日には公立学校は何もしない。」ところが北野や茨木、天王寺高校などでは実施している。「高津の生徒が可哀想」と私は考えたのである。
・ 教師はやってくれないので、「やむなく進学塾と組んだ」のだがまあ最初は大変だった。「公立の教師を馬鹿にしているのか」「塾から金を貰っているのだろう」等々教育委員会に「紙つぶて」は行くは、「組合の機関紙」には載るわで「大騒ぎ」となった。「赤旗」にも掲載された。
・ 朝日などは半面を使って「特集記事」を組み、1ヶ月に渡って「大学進学数値目標は是か否か」などと教育評論家や大学教授を動員して二つに分かれての論戦だ。批判派は「木村の数値目標導入は時代錯誤の企業的ノルマ主義」とまで書かれた。
・ さすがに高津同窓会が動き朝日新聞に物申したのであろうか、朝日は私に大きな紙面を提供してくれ「反論の機会」を与えてくれた。今私はつくづくと「大阪府初の民間人校長成りたての頃の苦難」を思い出すのだ。すべて「高津の生徒のため」であった。しかし教員は最初に自分のことしか考えない。
・ 府教委に対し「進学塾ウィンと組んでやるから土曜日に空いた教室を使いたい」と言っても結局許可が下りず、仕方なく「ホテルアウィーナ」を安く借りて実施したのである。それが今や知事が変わり教育長が変われば「この有様」だ。週2回放課後2時間「塾講師が学校の教室に入れる時代」になったというのだから「隔世の感」がする。
・ 当時の教育長も教育監も「視野の狭い木っ端役人根性丸出しのつまらない男」だった。しかし橋下知事はやはり「豪腕」だ。新聞記事の見出しも「知事旗振り」とある。如何に組織にとって「トップが重要」だということがここでも分かる。今の教育長はその点立派だ。「組織のトップの思いを実現しようとしている」のは良く分かるからだ。組織というのはこういうものだ。
・ 間違いなく橋下知事が誕生しなかったらこういうことは出来ない。学校現場からは「点数主義に陥る」とか「塾に任せて良いのか」とかの反発が出るかもと記事にはあるが「教員がやらない、出来ないから塾に任せる」ことになったのだろうと私は言いたい。「思い上がるな」と言いたい。
・ しかし頼まれた塾も大変だ。講師の人件費が2時間1500円だから私に言わせれば「安すぎる」。しかし仕方がないのだろう。第一ゼミナールの次長さんは「営利事業ではなくて社会貢献として取り組みたい」と説明している。「心中」が分かる。声がかかって断るわけには行かなかったのだろう。しかしこれで「大きな責任を負う」ことになった。
・ 私は心配する。「価値あるものは当然コストが高いのが当たり前」でそれを安くするのは中身までに影響してこないか。塾が不足分を負担すると言うが「ちょっとおかしい」気もする。私が高津高校で、先の藤原氏が和田中でやったようにどうして「受益者負担で正当な価格」でしないのか、「やりたい人だけで良いではないか」、ここにまだ大阪公立の限界を見るような気がするのだ。
・ 橋下教育改革のもう一人の「助っ人」は陰山英男氏(50)である。ご存知「陰山メソッド:百マス計算」「早寝、早起き、朝ごはん」で知られた人でこの人は藤原さんや私と違って「教師出身」である。
・ 私は今この先生の言うことを「じっくりと観察」しているのだが「徐々に見方が変わってきている」。「中々の人物」と感じるようになったのである。「言霊の国」日本といい、人間観察はその人の発言や書いたものに直ぐに現れるものだ。
・ 「みなさんはそれでもプロですか」「府民が一円玉を積み上げるようにして納税していることに申し訳なさを感じませんか」「一生懸命ということを理由にするな」などだ。「私たちは一生懸命やっている」という女性教員の訴えを「切り捨てた時の言葉」である。
・ 陰山先生は言う。「教育界と一般社会との接点に立った経験から日本の教育界は甘いと感じた」。特に以下の発言は出色である。「20年間のゆとり教育で失われた一番大きなものは教師のプロ根性だ」とも。だから私たちは一生懸命やっているなどの言葉が出てくると。
・ 所得格差が学力格差につながるなどを教師が口に出すなどは考えられない。「貧乏に負けない人間を育てるのが教育ではありませんか」と言う。その通りである。表現方法は異なるが主張が完全に似ているのだ。教師出身の陰山氏がいうところが迫力ある。
・ 私は中学の副校長に指示して「陰山先生の講演会」を本校で実施する企画をするように本日指示したのである。本校の中学生とその保護者に先生のお話を聞かせたいと考えたのである。先生は公立しか頭にはない。しかし「大阪の教育は私立もある」のですよと言いたい気もするのだ。
・ 昨日夕方、気持ちよく「新春拝賀始業式」を終えて気分良くしていたところにとんでもない話が飛び込んできた。最近全く経験したことがないような「衝撃的な事件」とも言える。
・ 1ヶ月前に3人の校務運営委員である言わば極めて責任ある教諭に「朝読書について答申」をするように指示をしたのであるが、雁首揃って入室したのは良いがその内容は「無茶苦茶」であった。「驚愕事件」と言っても良い。
・ この3人は朝読を「総合的学習の時間」に入れて「授業」とするから10分単位で週5回50分として担任の「持ち時間を1時間減」にして欲しいと来たのだ。「私は顔色が変わるのが自分でも分かった」のである。「何処の学校に朝読の10分を授業にして1時間の持ち時間減」などにしているのか。
・ これだけで「教員数は最低でも5人は必要」で「今から手配など出来るわけがない」。1時間の持ち時間の減を担任全てにしたらそれだけで50時間時間以上時間数が増える。付帯費用を入れれば「年間5000万円の費用増」だ。
・ 本校では総合的学習の時間は「授業」としていないから「評定」も実施していない。「カリキュラム上は授業ではない」。それを授業にするということはどういうことか。生徒に「自由に各人好きなように書物を選択させ」「10分間本を読ませるだけで何故それが授業となるのか」、「教える行為」などはそこにはまったくない。「教師にとっては勤務時間内」の朝のショートホームルームが少し延びるだけの話しだろう。
「各担任にその気になってもらう為」と言うからそれだったら実施している他校の朝読はいい加減なものなのかと聞いたのだ。
・ 「1月6日の初出の日」に私はじっくりと1時間かけて「今年の経営課題」を説明した。「努力と辛抱」を訴え、「多聞小学校を購入し新校舎を建設」しなければならない。とにかく爪に火をともすようにしてお金を貯めなければならない。副校長は1時間、2時間減らすために無理をしながら「科コースの集約」まで実施して来ている。1ヶ月かけて検討し、校務運営に責任あるそれもベテランの教諭3人が雁首揃えて正式に答申した内容がこれだから泣くに泣けないのだ。
・ 今朝付けで「人事を発令」した。3人とも現在のポジションを「更迭」とした。朝読は落ち着いた後でもう一度仕切り直すこととした。陰山さんではないがこのように教員は「甘い」のだ。副校長は目元を赤くしていた。私学助成削減や公私比率の見直しなど厳しい今後の状況下で「脳天気にこのようなものを答申する」とは副校長も信じられなかったのだろう。
・ 仮に意見だから好きなように答申しても良い。しかし「法的論拠」も検討しておらず、又議論の過程で出た色々な案を記載すべきだろう。もし一つの案にするのであれば「国語科の教員の賛否だけではなくて全担任、即ち単なる教科だけではなくて教師全体の賛否を取って私に答申すべきである」。今回は全くそれを無視してどうも「一人の意見」を「ふらふら」とそのまま書いて来たらしい。「ふざけている」。
・ この3人は私の信頼を完全に失した。「今後厳しく対応」する。そしてやはりこういう人間が居るのだと今更ながら「レベルの低さに驚き」、私は再度1月6日の「理事長校長メッセージ」を徹底して頭に入れるように法的な「職務命令」を発したのである。しかし昨日は「朝方は天国、夕方は地獄」だった。「流転の人生」、私の運命かも知れない。