2009年8月3日月曜日

8月3日(月)天王寺は遠くなりにけり




・ インターハイの応援に出かけるため二日連続で「天王寺」に出た。住居が「天王寺から難波」に変わったので最近ではほとんど行く機会も無かったが「何処へ行くにも」天王寺が大変便利である。
・ 東関東から8年前に「転勤」して来たときに最初に探して住み着いた場所が「天王寺」であった。道路一本挟んで「阿倍野」となる。「JR天王寺駅と近鉄阿倍野駅」は道を隔てて存在するのである。
・ 当時の私の住居はJR天王寺駅東口から歩いて2分のところで大変便利なところであった。振り返ってみるとその昔大阪の北に住んだときは「四つ橋線肥後橋駅」の上に立っているマンションで住金の本社には歩いて、それこそ1分の場所であった。
・ 何時も私の「寓居は駅そば」にある。今の難波の住居も南海難波駅のそばで「雨が降っても傘は要らない場所」にある。どうも私は駅そばの住居と言う「こだわり」があるみたいだ。
・ 天王寺は大変良いところだった。今の学校に勤務するようになってもそれまでの環状線から阪和線に電車を変えるだけで「我孫子駅」まで直通であった。ある知人が私に言った言葉であるが天王寺は「大阪のへそ」だという。
・ 確かに地下鉄御堂筋線、地下鉄谷町線、路面電車阪堺線、JR大和路線、JR阪和線、JR環状線、近鉄南大阪線と「放射線状」にアクセスが出来るまことに至便極まりない場所であった。
・ ところが「駅周辺の開発」は北の梅田、南の難波に比べて相当遅れており、大阪の中でも何か「疎開地」「疎外」的な雰囲気で、私にはそこがまた大変心地よかったのである。「垢抜けない」というか「大阪らしい田舎」というか、言い換えればまだ「大阪の味」の残る町であった。
・ 周辺には「名所旧跡」には事欠かない。まず「四天王寺さん」があり、有名な「新世界」がある。そこには「通天閣」がそびえたっており、じゃんじゃん横丁には「串かつ」がある。
・ 「天王寺動物園」にはパンダがおり、「市立美術館」があって芸術のセンターでもある。芸能でも「天王寺芸能発祥の地の碑」があったりして、昔の「遊郭」である「飛田新地」は今でも健在である。
・ 以上の場所は天王寺駅から「ウォーキング」でぐるり30分程度で行ける、誠にもって「楽しい場所」であった。私は今でも忘れられないのだがJR天王寺駅の改札前広場というかコンコースにはいわゆる「特殊職業を生業とする女性陣」を多く目にする。
・ 今時このような中央駅で「街娼」と言われる女性が「客引き」で立っているような場所は有るだろうか。そこがまた天王寺らしくて私は好きなのである。天王寺には足掛け5年間も住んで、買い物は近鉄百貨店、日常品はMIOあるいはステーションプラザであったから彼女たちとも顔なじみになった。
・ 顔なじみといっても言葉を交わすわけではないがお互いが顔を知っているというような感じである。またこれが不思議なのであるが彼女たちはいわゆる若い女性では無くて、「年配」それも相当年配のお方である。あるとき警察の摘発でその「街娼のお年が76歳」だったと新聞記事にはあったので大笑いしたものだった。
・ スタイルが面白い。首から上は首筋ではっきりと分かるような厚化粧でとにかく口紅は「真っ赤」であった。そして足元はなんと「スニーカー」なのである。足元が疲れるのでそのようにした生活の知恵なのであろう。
・ 私の住んでいた天王寺のマンションは当時新築で10階建ての7階であった。最初の住人が私だった。家主さんは夕陽丘高校の卒業生で大変良くして頂いたが、荷物が増えてきたのといささか「環境が悪くなって」きたと感じたので移転を決意したものであった。慣れ親しんだ場所だったから決断するにはある程度「決意」が要ったのである。
・ しかし「住めば都」というが今住んでいる難波も大変便利ではあるが、とてもとても「天王寺の味わい」は無い。もう日本語、中国語、韓国語、あらゆる言語が飛び交う「国際都市」の様相であるが「いま一つ落ち着きの無い町」と感じている。
・ とにかく「ものを食べるところ」「着るものを買うところ」「安売りドラッグのお店」などがある場所でしかない。デパートも「高島屋」と「大丸」だけでついに名門そごうは破綻した。ああ言った雰囲気のデパートは今日のミナミにはそぐわないのだろう。
・ 道頓堀戎橋、法善寺横町、あるにはあるが大阪らしかった「歌舞伎座」も閉じてしまった。「ナンバパークス」とか開発されてはいるがあれらは大阪ではない。もう雑多な町で千日前の「グランド花月の吉本興業だけ」とは情けない気がするのだ。
・ 私は「ウォーキングが趣味」であるが今のルートは御堂筋を本町の船場センターまで上り、帰りは心斎橋筋を下って高島屋を抜けて帰ってくる1時間のルートである。天王寺と違って「歩いている人々もほとんど同じ」に見える。
・ 天王寺は違った。青空カラオケに立ち止まり、新世界で「たこ焼き」を買ったり、「ビリケン」などそれは面白かったのである。公園横では「青空将棋や囲碁」などがなされている。
・ ところで天王寺に対して紀州和歌山の人は「特別な思い入れ」があると書いたものを読んだことがある。「新宮出身の芥川賞作家で純文学の大作家」であった中上健次は46歳で死去するのだが東京から熊野に帰るときにヘリコプターで天王寺駅の上空を旋回したときに、初めて「大声で泣いた」という。
・ 早くして死ぬ無念さに加え、紀州熊野から都会の天王寺に出て「東京に勝負に出かけた若いころの自分」を思い出した「慟哭」なのだろう。この作家の「」や「枯木灘」などは素晴らしい小説である。
・ 私も恐らく関東に戻っても死ぬ前にもう一度行きたいと思うのは「天王寺界隈」ではないか。天王寺のマンションに住んだ5年間は本当に色々なことがあった。「実業の世界から教育の世界に転じ」、本当に苦労したが、「今の自分がある」のはすべて「天王寺が原点」であった。
・ 身の回りの物も徐々に天王寺時代のものは無くなっていく。天王寺ステーションプラザ5階のショップで買った戦友ともいうべき「愛用パソコン」も最近処分した。あのパソコンでどれくらいのドキュメントを作って教育委員会や教員と戦ったことだろうか。「天王寺は遠くなりにけり」だ。