・ 「教育費の公的支援の拡充」は確かに教育の機会均等に効果をもたらす。「親の経済力格差」が罪のない明日の日本を担う子供たちに教育機会を与えると言うより、「失わせないという意味」で大きな意義はある。先進各国の中で日本は最低に近いという現実はまず押さえておきたい。
・ しかし中世以降日本では又世界でも共通の現象であるが、少なからずこのことはあったのである。むしろ「士農工商」とか言って「身分制度」が厳しかった時代よりも現代は「教育を通じて」あらゆるものが改善改革され、「夢の実現に至る可能性の門戸」は格段に広がっているのではないか。ここも押さえておきたい。
・ 何か親の経済力格差がこの数年で発生し拡大しているような論調になっているのを時々感じるが、「高校進学率も大学進学率も伸び続けてきた」のである。この点も押さえておきたい。
・ 選挙区における一人当たりの「一票の持つ重み」が余りにも格差として大きくなり、放置できなくたって衆議院の各選挙区の定員を見直すような感じで親の経済力格差を論じても良いのではないか。「格差は昔からあった」。問題は「程度の問題」ではないのか。
・ いずれにしても「教育費の問題」はこの国の将来を規定するような極めて重要なテーマであることは間違いなく今度の衆議院選挙を経て数回の国政選挙である程度目に見える形で変わっていくだろう。そうでなければならない。
・ しかし教育の抱える問題は「教育費だけの問題ではなかろう」。ここが最も重要である。ここまで上級学校への進学率が上がってもかえって「青少年の抱える問題は深刻化」しているような気がするのだ。
・ 不登校、問題行動、凶悪犯罪、薬物、いじめ、暴力行為、ネットトラブル、無業者、フリーターほか今日的高校生と大学生の問題行動と抱える課題は「一部の生徒・学生の問題」と簡単に片付けるわけには行かないくらい比率的にも内容的にも看過できない状態である。
・ 高等学校教育におけるこのような問題への対処については正直言って「事後対応」に終わっているのが現実と考えたほうが良い。毎日毎日、「人の物を盗ってはいけません」「いじめをしてはいけません」などと教師が伝えるわけにはいかないからである。
・ ましてや大学生にもなって「薬物はいけません」などと教えなければならないことにこの国の教育の問題はあるのではないか。最近の大学生の犯罪は目に余るものがある。しかし大学生を責めても解決にはならない。大学側も困るであろう。「大学生はついこの前まで高校生であった」のである。
・ 「 高校生とてもついこの前までは中学生であった」のである。「積み重ね」であり、「蓄積」なのである。これらの論考は別途の機会に詳述したいと思っているが、世の教育評論家と言われる人々の中には簡単なこの種の理屈が分からなくて大学ばかりを攻め立てる人がいるのには驚くのだ。
・ 確かに高等学校の担任教師はホームルームの時間に社会の大きな出来事について語りかけたり、あるいはテーマを決めて行動上の指導をしたりする。又生徒生活指導に当たっている教師も厳しい対応をするが基本的には「発生した事態への対応と、今後同じことのないような対策の策定」に終わるのが現場の事態である。
・ 起きないように、発生しないように「次から次と起こりうる事件を予測しながら」考えて「事前予防の授業」をしているのではない。何か大きな事件が起きるたびに「学校は一体何を教えていたのでしょう」などという教育評論家と称する人々がいるのを学校の現場のプロは「冷ややか」な面持ちで受け止めているかも知れない。
・ 「生徒生活指導に関係する学校の授業」を考えてみたら一体何があるのだろう。これを考えれば明らかとなる。数学の授業では難しい数学の講義を中心に展開するものでまったく生活指導のこととは関係ないだろう。眠っている生徒が居れば「こら、起きろ」というくらいだと思う。
・ 英語もしかりである。そのように考えたら結局学校の授業において「子供たちに正しく適切に生きていくための判断させる基礎基本のアイテム」に最も近い教科は一体何なんだろうということになろう。ここ数ヶ月私はこのようなことばかり考えている。
・ まず体育の授業は「規律」とか「忍耐」とか「訓練」とかに近そうであるし分かり易い科目であるが、体育の授業で「コンビニの万引きはいけません」と言っているわけではない。
・ 社会科の科目はそれに近い気がする。犯罪を犯せば逮捕され、罪を重ねれば収監されるとか教える場面はある。それに古代以来の日本史、世界史をたどることで「歴史を教訓に子供たちに判断する材料を与えている」ような気もする。
・ それ以外の授業については全くと言って良いくらい「生活パターンとその要因根拠」について学校は事後で知ることになるのが精一杯なのである。結局良く観察してみるとその方面の指導を受け持っているのは「部活動指導」ということになる。
・ 「部活動指導」は「チームを組み」「勝つと言う目的」のために「我を押さえ、一心不乱に練習」し、お互いが良い点悪い点をさらけ出して高校生と言えども「人間社会そのものの様相」の中で「個人が鍛えられる」のである。体験する「初めての公共の世界」と言って良い。
・ 勉学と部活動を両立させるのは大変難しい。しかしこれは出来ない話ではない。本校では勉学も部活動も上手くやっている生徒は多い。部活の指導者に言わせると「スポーツの出来る生徒は勉強も出来る」という。「集中力」なのだと思う。
・ 部活もしない、勉強もしないでは本当に取り柄というか何か不足を感じるのである。しからば部活に熱中してその中から何かを掴んだ方がその後の人生を彩ってくれるだろうし「生きていく力」はいくらかはついている。
・ そのように考えていくと生徒たちへの精神的発達に大きな影響を与えるのはやはり「基礎基本の学力」とベースとなる「教科書」であることが分かる。数学と言えども、英語と言えども「解れば生きていく力」となるのである。
・ 様々な生徒を抱えている学校にとってやはり毎日毎日使う教科書がじわじわと生徒への心に降りかかる「滋養みたいな役目」を有しているのがわかるのである。そういう意味から「しっかりとした教科書」を選択しなければならない。
・ その中でももっとも注意すべきは「社会科」の教科書と言うことがわかるのである。本校は「神社神道の精神を根幹においた私立学校」であり「伊勢修養学舎」など他校にないものもある。
・ 毎週1単位「神道科」の授業があって「古事記日本書紀の世界から神社神道の歴史」を学ぶように教育課程が組まれている。学校改革が大いに進展し、遂に「新校舎建設の道程」が見えていた今、私は「社会科の教科書」について「本校の教育目的に如何に合致させたものにするか」徹底的に勉強しているのである。
・ しかし中世以降日本では又世界でも共通の現象であるが、少なからずこのことはあったのである。むしろ「士農工商」とか言って「身分制度」が厳しかった時代よりも現代は「教育を通じて」あらゆるものが改善改革され、「夢の実現に至る可能性の門戸」は格段に広がっているのではないか。ここも押さえておきたい。
・ 何か親の経済力格差がこの数年で発生し拡大しているような論調になっているのを時々感じるが、「高校進学率も大学進学率も伸び続けてきた」のである。この点も押さえておきたい。
・ 選挙区における一人当たりの「一票の持つ重み」が余りにも格差として大きくなり、放置できなくたって衆議院の各選挙区の定員を見直すような感じで親の経済力格差を論じても良いのではないか。「格差は昔からあった」。問題は「程度の問題」ではないのか。
・ いずれにしても「教育費の問題」はこの国の将来を規定するような極めて重要なテーマであることは間違いなく今度の衆議院選挙を経て数回の国政選挙である程度目に見える形で変わっていくだろう。そうでなければならない。
・ しかし教育の抱える問題は「教育費だけの問題ではなかろう」。ここが最も重要である。ここまで上級学校への進学率が上がってもかえって「青少年の抱える問題は深刻化」しているような気がするのだ。
・ 不登校、問題行動、凶悪犯罪、薬物、いじめ、暴力行為、ネットトラブル、無業者、フリーターほか今日的高校生と大学生の問題行動と抱える課題は「一部の生徒・学生の問題」と簡単に片付けるわけには行かないくらい比率的にも内容的にも看過できない状態である。
・ 高等学校教育におけるこのような問題への対処については正直言って「事後対応」に終わっているのが現実と考えたほうが良い。毎日毎日、「人の物を盗ってはいけません」「いじめをしてはいけません」などと教師が伝えるわけにはいかないからである。
・ ましてや大学生にもなって「薬物はいけません」などと教えなければならないことにこの国の教育の問題はあるのではないか。最近の大学生の犯罪は目に余るものがある。しかし大学生を責めても解決にはならない。大学側も困るであろう。「大学生はついこの前まで高校生であった」のである。
・ 「 高校生とてもついこの前までは中学生であった」のである。「積み重ね」であり、「蓄積」なのである。これらの論考は別途の機会に詳述したいと思っているが、世の教育評論家と言われる人々の中には簡単なこの種の理屈が分からなくて大学ばかりを攻め立てる人がいるのには驚くのだ。
・ 確かに高等学校の担任教師はホームルームの時間に社会の大きな出来事について語りかけたり、あるいはテーマを決めて行動上の指導をしたりする。又生徒生活指導に当たっている教師も厳しい対応をするが基本的には「発生した事態への対応と、今後同じことのないような対策の策定」に終わるのが現場の事態である。
・ 起きないように、発生しないように「次から次と起こりうる事件を予測しながら」考えて「事前予防の授業」をしているのではない。何か大きな事件が起きるたびに「学校は一体何を教えていたのでしょう」などという教育評論家と称する人々がいるのを学校の現場のプロは「冷ややか」な面持ちで受け止めているかも知れない。
・ 「生徒生活指導に関係する学校の授業」を考えてみたら一体何があるのだろう。これを考えれば明らかとなる。数学の授業では難しい数学の講義を中心に展開するものでまったく生活指導のこととは関係ないだろう。眠っている生徒が居れば「こら、起きろ」というくらいだと思う。
・ 英語もしかりである。そのように考えたら結局学校の授業において「子供たちに正しく適切に生きていくための判断させる基礎基本のアイテム」に最も近い教科は一体何なんだろうということになろう。ここ数ヶ月私はこのようなことばかり考えている。
・ まず体育の授業は「規律」とか「忍耐」とか「訓練」とかに近そうであるし分かり易い科目であるが、体育の授業で「コンビニの万引きはいけません」と言っているわけではない。
・ 社会科の科目はそれに近い気がする。犯罪を犯せば逮捕され、罪を重ねれば収監されるとか教える場面はある。それに古代以来の日本史、世界史をたどることで「歴史を教訓に子供たちに判断する材料を与えている」ような気もする。
・ それ以外の授業については全くと言って良いくらい「生活パターンとその要因根拠」について学校は事後で知ることになるのが精一杯なのである。結局良く観察してみるとその方面の指導を受け持っているのは「部活動指導」ということになる。
・ 「部活動指導」は「チームを組み」「勝つと言う目的」のために「我を押さえ、一心不乱に練習」し、お互いが良い点悪い点をさらけ出して高校生と言えども「人間社会そのものの様相」の中で「個人が鍛えられる」のである。体験する「初めての公共の世界」と言って良い。
・ 勉学と部活動を両立させるのは大変難しい。しかしこれは出来ない話ではない。本校では勉学も部活動も上手くやっている生徒は多い。部活の指導者に言わせると「スポーツの出来る生徒は勉強も出来る」という。「集中力」なのだと思う。
・ 部活もしない、勉強もしないでは本当に取り柄というか何か不足を感じるのである。しからば部活に熱中してその中から何かを掴んだ方がその後の人生を彩ってくれるだろうし「生きていく力」はいくらかはついている。
・ そのように考えていくと生徒たちへの精神的発達に大きな影響を与えるのはやはり「基礎基本の学力」とベースとなる「教科書」であることが分かる。数学と言えども、英語と言えども「解れば生きていく力」となるのである。
・ 様々な生徒を抱えている学校にとってやはり毎日毎日使う教科書がじわじわと生徒への心に降りかかる「滋養みたいな役目」を有しているのがわかるのである。そういう意味から「しっかりとした教科書」を選択しなければならない。
・ その中でももっとも注意すべきは「社会科」の教科書と言うことがわかるのである。本校は「神社神道の精神を根幹においた私立学校」であり「伊勢修養学舎」など他校にないものもある。
・ 毎週1単位「神道科」の授業があって「古事記日本書紀の世界から神社神道の歴史」を学ぶように教育課程が組まれている。学校改革が大いに進展し、遂に「新校舎建設の道程」が見えていた今、私は「社会科の教科書」について「本校の教育目的に如何に合致させたものにするか」徹底的に勉強しているのである。