・ 今日は休みだが公務があって通常通り学校に行き、その後「多聞尚学館」に向かう。そこで昨夜から「キャンプをはって」いるスカウト隊のメンバーとその保護者に来てもらって正式の「結団式」を実施した。このときの模様は近いうちに別途日記に残そうと思う。中々面白い。「何事も初めてというのは面白い」ものだ。
・ さて今日は「衆院選の投票日」であった。「天地人」が終わったと思ったら、すぐ「民主圧勝」を報じていた。遂に「政権交代」である。投票が終わって1分ですべてが分かるのだから何とも言いようが無い。「出口調査」ですぐ分かるのだ。「悲喜こもごもの人間ドラマ」がこれから何回も報じられるだろう。
・ しかしこのような勝利は一体何と言えば良いのだろう。「地すべり的」「完勝」「大勝」「圧勝」?「すごいことである」。選挙のことは今は詳細は書くまい。しかし歴史的な日となったことは間違いない。今日は「時代の節目の記念すべき日」になったと言うことが分かる。私は何か「国民の怒りの声」を感じる。
・ 「政権選択選挙」と言われ激しい選挙戦が真夏の8月に行われたのも珍しいと言う。私は「アラカン」の世代であるが政権選択の選挙と言われる時代が来たのだと思えば感慨深いというか、まさに「時代の潮目」である。
・ 今から40年前は1969年でちょうど私は大学を卒業して企業に就職した年度であった。昭和44年で「日本は元気」があって「躍動」していた時代であった。私自身も「希望の会社に就職」でき「将来の夢に燃え」て、気力・体力が満ち溢れた23歳の若者であった。
・ 国、国民も「豊かさへの挑戦」であり誰もが「小異はあるが未来への希望」を失わず、頑張ってきて、あれから40年経った。ところが「現実の姿」はどうだ。「希望の21世紀」どころの話ではなくて過去最高の5.7%という失業率に代表される「貧困国家」にずり落ちそうな様相である。
・ 労働市場も、国民所得も肝心の「世相」も21世紀になって「つるべ落とし」の状況である。日本は完全に「制度疲労国家」となったと感じる局面はここ10年間多かったが結局「政治の力」で「あるべき姿への変革は出来なかったいうことだ。「何故だろう?」と思う。
・ 誰もが「今のままではいけない」と頭では分かってはいたと思うが「変えられない」のだ。そこが「人間社会の悲しい性(さが)」である。「分かっちゃいるけど止められない」だろう。
・ 特に米国や英国などと比べ「我が国の文化」がそのようにさせて来た面もある。「まあまあ、そんなに急がなくとも」「上手く行っているのだから」「みんなの声を聞いてあげて」「余り無理しないように」とかなんとかとにかく基本的には「混乱や混沌、混迷」を嫌う国民である。
・ だから自分個人に少しでも「上昇している」「高まっている」「得をしている」という感覚があれば「急激な改革」「痛みを伴う改革」など望んで来なかった国民なのである。典型的な「総論賛成、各論反対」の国民なのである。
・ 戦後60年間、政権を担って来た自民党は「その流れ」の中で「見動き」が取れなくなってきたのだろう。何をやろうにも「がんじがらめ」とはこういう状態を言う。「既得権益グループ」を温存させ、パイを分配しながら「口封じ」をさせておいて「新しいこと」をやろうとしても「成長のパイ」がなければ「早晩行き詰まる」のは明々白白であった。
・ 「分配しまくって」その結果「国の借金は800兆円」と言うから尋常ではない。これをもたらしたのは自民党であってその自民党が民主党を「ばら撒き政党」とののしるのは面白い絵柄で「噴飯」ものだと私は思っている。自民党は「脳死状態」であったのだ。今日で「古い自民党は死んだ」のではないか。
・ 要は「全体最適の視点が欠ける」と言うか出来なかったのである。「部分最適の集合体」ではバブルみたいに膨れ上がるだけである。限られた資源の「選択と集中」と言うことが出来なかったのである。少なくともそういう状況に舵を切ることが出来なかった。だから薄く広く霧のようにばら撒かねば誰もが満足できなかったのである。
・ 以上は政治の話であるが学校に置き換えて考えてみると「構図はまったく同じ」である。戦後60年間「公教育の果たしてきた大きな功績」を国民は忘れてはならない。戦後の復興を私は日本の教育が果たしてきたと強く感じている。
・ 高度経済成長時代から「質と志の高い勤労者」で日本は今日の繁栄を勝ち得てきたのである。その「ベースは教育」にあった。その限りにおいては教職員団体が果たしてきた役割は大きい。高い組織率で「教研集会」を行いながら「真正面から教育に立ち向かってきた」ことは間違いないだろう。
・ ところがだ。政治と同じで「徐々に硬直化」し始め「教育問題ではなくて土台がイデオロギー」に取って変わっていく。そのイデオロギーも「分捕り合戦」の様相になっていき、この辺から「日本の減速が政治も経済も教育界でも始まった」と見ている。
・ 今朝の新聞各紙には自民党と民主党が1面ぶち抜きでリーダーの顔を大写しで最後の新聞紙上訴えをしている。私は大変興味深く観察した。自民党は「日本を壊すな」と書き、「偏った教育の日教組に子供たちの将来を任してはいけない」「特定の労働組合の思想に従う偏った政策を許してはいけない」とある。
・ しかし私は言いたいのだ。結局日教組と妥協してきたのは自民党政治に他ならないのである。官公労を中心にして労働組合幹部労働貴族を作ってきたのは自民党政治そのものではないかと。 一方の民主党は「本日政権交代」と書き、まさしくそのとおりとなった。「次の日本のリーダー」は「鳩山由紀夫さんだろうがどのようなリーダーになるのだろう」。大変に興味がある。
・ 組織と言うには悲しいことに時間の経過とともに「疲弊」し「制度疲労」を起こし「腐敗」していくものだと考えるべきである。だから何十年に一度大きな「マグマ」や「巨人」「偉人」「革命家」「独裁者」等が出てきて根本的に仕組みを変えて「組織はまた息を吹き返していく」。「歴史はこの繰り返し」でである。
・ 何を改革、変革するのかと言えば「意思決定方法の変革」である。果たしてこの国は明日以降どのような意思決定方式となるのだろう。「脱官僚」「地方分権」「霞ヶ関解体」とか色々言っているが、それを本当に民主党はやり切れるのか。 どうか「先祖帰り」だけはしないで欲しい。
・ 本校も3年で様変わりと言われるくらい「変えに、変えて」きた。しかし「菜根譚」にあるように「得意のとき、失意の悲しみを生ず」と得意絶頂にあるときにはすでに転落の兆候が出ているということだ。自民党みたいになってはならない。民主党も今日の得意絶頂からすでに組織の弱体が始まっていると思わねばならない。
・ 私は本当に「コワゴワ」して業務を執行している。「先行きが心配でならない。」私の後、誰がこの所帯を守り育ててくれるのであろうか。次の「浪速の指揮者」は誰になるのか。後事を託するに相応しい人物を当てはめるまで私はこの「学校のリーダー」として徹底的に責任を果たしていく積りだ。しかし選挙は面白い。トリプルスコアである。
・ さて今日は「衆院選の投票日」であった。「天地人」が終わったと思ったら、すぐ「民主圧勝」を報じていた。遂に「政権交代」である。投票が終わって1分ですべてが分かるのだから何とも言いようが無い。「出口調査」ですぐ分かるのだ。「悲喜こもごもの人間ドラマ」がこれから何回も報じられるだろう。
・ しかしこのような勝利は一体何と言えば良いのだろう。「地すべり的」「完勝」「大勝」「圧勝」?「すごいことである」。選挙のことは今は詳細は書くまい。しかし歴史的な日となったことは間違いない。今日は「時代の節目の記念すべき日」になったと言うことが分かる。私は何か「国民の怒りの声」を感じる。
・ 「政権選択選挙」と言われ激しい選挙戦が真夏の8月に行われたのも珍しいと言う。私は「アラカン」の世代であるが政権選択の選挙と言われる時代が来たのだと思えば感慨深いというか、まさに「時代の潮目」である。
・ 今から40年前は1969年でちょうど私は大学を卒業して企業に就職した年度であった。昭和44年で「日本は元気」があって「躍動」していた時代であった。私自身も「希望の会社に就職」でき「将来の夢に燃え」て、気力・体力が満ち溢れた23歳の若者であった。
・ 国、国民も「豊かさへの挑戦」であり誰もが「小異はあるが未来への希望」を失わず、頑張ってきて、あれから40年経った。ところが「現実の姿」はどうだ。「希望の21世紀」どころの話ではなくて過去最高の5.7%という失業率に代表される「貧困国家」にずり落ちそうな様相である。
・ 労働市場も、国民所得も肝心の「世相」も21世紀になって「つるべ落とし」の状況である。日本は完全に「制度疲労国家」となったと感じる局面はここ10年間多かったが結局「政治の力」で「あるべき姿への変革は出来なかったいうことだ。「何故だろう?」と思う。
・ 誰もが「今のままではいけない」と頭では分かってはいたと思うが「変えられない」のだ。そこが「人間社会の悲しい性(さが)」である。「分かっちゃいるけど止められない」だろう。
・ 特に米国や英国などと比べ「我が国の文化」がそのようにさせて来た面もある。「まあまあ、そんなに急がなくとも」「上手く行っているのだから」「みんなの声を聞いてあげて」「余り無理しないように」とかなんとかとにかく基本的には「混乱や混沌、混迷」を嫌う国民である。
・ だから自分個人に少しでも「上昇している」「高まっている」「得をしている」という感覚があれば「急激な改革」「痛みを伴う改革」など望んで来なかった国民なのである。典型的な「総論賛成、各論反対」の国民なのである。
・ 戦後60年間、政権を担って来た自民党は「その流れ」の中で「見動き」が取れなくなってきたのだろう。何をやろうにも「がんじがらめ」とはこういう状態を言う。「既得権益グループ」を温存させ、パイを分配しながら「口封じ」をさせておいて「新しいこと」をやろうとしても「成長のパイ」がなければ「早晩行き詰まる」のは明々白白であった。
・ 「分配しまくって」その結果「国の借金は800兆円」と言うから尋常ではない。これをもたらしたのは自民党であってその自民党が民主党を「ばら撒き政党」とののしるのは面白い絵柄で「噴飯」ものだと私は思っている。自民党は「脳死状態」であったのだ。今日で「古い自民党は死んだ」のではないか。
・ 要は「全体最適の視点が欠ける」と言うか出来なかったのである。「部分最適の集合体」ではバブルみたいに膨れ上がるだけである。限られた資源の「選択と集中」と言うことが出来なかったのである。少なくともそういう状況に舵を切ることが出来なかった。だから薄く広く霧のようにばら撒かねば誰もが満足できなかったのである。
・ 以上は政治の話であるが学校に置き換えて考えてみると「構図はまったく同じ」である。戦後60年間「公教育の果たしてきた大きな功績」を国民は忘れてはならない。戦後の復興を私は日本の教育が果たしてきたと強く感じている。
・ 高度経済成長時代から「質と志の高い勤労者」で日本は今日の繁栄を勝ち得てきたのである。その「ベースは教育」にあった。その限りにおいては教職員団体が果たしてきた役割は大きい。高い組織率で「教研集会」を行いながら「真正面から教育に立ち向かってきた」ことは間違いないだろう。
・ ところがだ。政治と同じで「徐々に硬直化」し始め「教育問題ではなくて土台がイデオロギー」に取って変わっていく。そのイデオロギーも「分捕り合戦」の様相になっていき、この辺から「日本の減速が政治も経済も教育界でも始まった」と見ている。
・ 今朝の新聞各紙には自民党と民主党が1面ぶち抜きでリーダーの顔を大写しで最後の新聞紙上訴えをしている。私は大変興味深く観察した。自民党は「日本を壊すな」と書き、「偏った教育の日教組に子供たちの将来を任してはいけない」「特定の労働組合の思想に従う偏った政策を許してはいけない」とある。
・ しかし私は言いたいのだ。結局日教組と妥協してきたのは自民党政治に他ならないのである。官公労を中心にして労働組合幹部労働貴族を作ってきたのは自民党政治そのものではないかと。 一方の民主党は「本日政権交代」と書き、まさしくそのとおりとなった。「次の日本のリーダー」は「鳩山由紀夫さんだろうがどのようなリーダーになるのだろう」。大変に興味がある。
・ 組織と言うには悲しいことに時間の経過とともに「疲弊」し「制度疲労」を起こし「腐敗」していくものだと考えるべきである。だから何十年に一度大きな「マグマ」や「巨人」「偉人」「革命家」「独裁者」等が出てきて根本的に仕組みを変えて「組織はまた息を吹き返していく」。「歴史はこの繰り返し」でである。
・ 何を改革、変革するのかと言えば「意思決定方法の変革」である。果たしてこの国は明日以降どのような意思決定方式となるのだろう。「脱官僚」「地方分権」「霞ヶ関解体」とか色々言っているが、それを本当に民主党はやり切れるのか。 どうか「先祖帰り」だけはしないで欲しい。
・ 本校も3年で様変わりと言われるくらい「変えに、変えて」きた。しかし「菜根譚」にあるように「得意のとき、失意の悲しみを生ず」と得意絶頂にあるときにはすでに転落の兆候が出ているということだ。自民党みたいになってはならない。民主党も今日の得意絶頂からすでに組織の弱体が始まっていると思わねばならない。
・ 私は本当に「コワゴワ」して業務を執行している。「先行きが心配でならない。」私の後、誰がこの所帯を守り育ててくれるのであろうか。次の「浪速の指揮者」は誰になるのか。後事を託するに相応しい人物を当てはめるまで私はこの「学校のリーダー」として徹底的に責任を果たしていく積りだ。しかし選挙は面白い。トリプルスコアである。