・ 大阪商工会議所会頭で大阪ガス相談役の野村昭雄氏がいつぞや産経新聞の「教育想論」欄に投稿されていたのだが、この記事の内容に私も「思うところ」がある。野村氏が若い頃に「先生」と呼ばれた時期があったというところから文章は始まっている。
・ その昔大阪ガスは「各地の中学を卒業」して大阪ガスに「就職」した少年たちを預かる人事部所管の「教習所」というのがあって野村氏は1年間クラス担任を務めたことがあるらしい。文章はその時の思い出と教育に関するご意見を述べたものである。
・ 実は私もクラス担任はしていないが住友金属において本社の能力開発室長を務めた時に当時和歌山製鉄所にあった「教習所」を所管する立場から足しげく和歌山に通ったり、とにかく「教習所と深いかかわり」があったのである。
・ この「教習所」と言うのは自動車教習所ではなくて当時大手の企業が現場の社員採用・育成のうち「中学卒業生」を「囲い込んで」徹底して教え込む「一般の学校ではない企業内教育訓練機関」として存在していたものだった。生徒の普遍的呼び方は「養成工」であった。読んで字の如く工員さんを養成する機関だったのである。
・ 昭和30年代の日本はまだ貧しく、地方には高校に行きたくとも行けない世帯は多く、「集団就職列車」があった時代に日本の企業は「中卒社員として採用し」給料を支払いながら、徹底して「一般教養や学力教科指導を寮生活」をさせながら行った「企業内職業訓練、企業内学校」であったのである。言わば「現場の直参旗本、子飼の郎党」の育成であるとも言える。
・ しかしこの教習所はその後厳しい運命を辿っていくことになる。日本が豊かになり「高校進学率」が高まってくるにつれて「希望者が減少」し始め、開設当初の「家庭の事情で高校には行けない、学習好きで聡明な子ども達」が集まらなくなったのである。
・ 平成に入って徐々に各企業はその教習所を閉じ始め「一般の高校卒業生の採用にシフト」し始めてくるようになり、住友金属でも遂に「教習所の終焉」を宣告したのであるがその時の社内の責任者は私であった。
・ 若くして就職した少年たちは丸坊主で目が輝き漫然と高校に進学した生徒たちとは明らかに異なり何より「自立心が旺盛で人生や職業に対する真剣な気持ち」が明らかに見てとれ、当初の教習所の卒業生はまず間違いなく「職場の中心、幹部となって豊かな人生」を送ったと私は思う。
・ 私は理系出身のエンジニアであったから現場経験も長かったがこの教習所出身者の技能の力量や何より愛社精神などは比べようもなく高く、どれほど未熟な学卒のエンジニアが助けられてきたことか。
・ 戦後経済成長を歩んできた日本の製造業の現場ではこのような中学卒の企業内訓練学校卒業生の力に負うところは極めて大きかった。しかしこのことを知っている人も少ない。今や姿を消したこのような「教習所の存在」を今私は改めて思い起こしているのである。
・ 又昭和40年代に高校を卒業して企業に就職してきた若い社員も「金の卵」などといわれる時代もあって、総じて「質の高い労働力」として戦後の復興、特に製造業現場でその働き振りが賞賛されてきたことはどの企業でも口に出すことであった。
・ ところが昭和40年代後半から50年代にかけて一般高校への進学率、大学への進学率が高まって「中学卒業生の97%が高校の行く時代」となってきたことが「労働市場に大きな質的変換」を迫るようになってきた。
・ 「頼むから、高校くらいは出ておきなさい」というような風潮から猫も杓子も高校に進学し「ファッションとして大学に進学」するとしか思えないような一部の現実を目の当たりにすると私は野村昭雄氏と同じく昔の「企業内教育施設」を思い出すのである。
・ 目的意識もなくただ漫然と高校に行き、大学に進み、その高校も「普通科」として、大学も一般大学として日本の学校教育は子供たちの「職業観」や「勤労観」に真正面に向かって来なかったという反省につながるのである。
・ 私は前から思っているのであるが教育改革・学校改革の中心の一つにこの「職業教育」を据えて国民的議論が必要だと思っている。しかしこれは相当腕力が必要であり、その理由は「関係者の利害得失が大きい」からである。
・ しかし今の枠組みでは若年の無労働者、フリーター、高校中退者の行き先など社会問題であるが、その解決策は容易には見当たらないのも現実ではないだろうか。特に問題は「大学」である。高校は「牛のよだれ」的にポタポタした遅い歩みではあるが「総合学科」とか「単位制高校」とか「特色ある高校作り」が進みつつある。
・ 高校に97%も進学する時代であるがゆえに高校卒業を一般の「教養教育の終了」と考え、その後を「複線化」する「新しい大学の出現」を考えざるを得ないのではないだろうか。それはまさしく「キャリア教育」を旗印にしたものであるべきと私は考える。
・ その昔大阪ガスは「各地の中学を卒業」して大阪ガスに「就職」した少年たちを預かる人事部所管の「教習所」というのがあって野村氏は1年間クラス担任を務めたことがあるらしい。文章はその時の思い出と教育に関するご意見を述べたものである。
・ 実は私もクラス担任はしていないが住友金属において本社の能力開発室長を務めた時に当時和歌山製鉄所にあった「教習所」を所管する立場から足しげく和歌山に通ったり、とにかく「教習所と深いかかわり」があったのである。
・ この「教習所」と言うのは自動車教習所ではなくて当時大手の企業が現場の社員採用・育成のうち「中学卒業生」を「囲い込んで」徹底して教え込む「一般の学校ではない企業内教育訓練機関」として存在していたものだった。生徒の普遍的呼び方は「養成工」であった。読んで字の如く工員さんを養成する機関だったのである。
・ 昭和30年代の日本はまだ貧しく、地方には高校に行きたくとも行けない世帯は多く、「集団就職列車」があった時代に日本の企業は「中卒社員として採用し」給料を支払いながら、徹底して「一般教養や学力教科指導を寮生活」をさせながら行った「企業内職業訓練、企業内学校」であったのである。言わば「現場の直参旗本、子飼の郎党」の育成であるとも言える。
・ しかしこの教習所はその後厳しい運命を辿っていくことになる。日本が豊かになり「高校進学率」が高まってくるにつれて「希望者が減少」し始め、開設当初の「家庭の事情で高校には行けない、学習好きで聡明な子ども達」が集まらなくなったのである。
・ 平成に入って徐々に各企業はその教習所を閉じ始め「一般の高校卒業生の採用にシフト」し始めてくるようになり、住友金属でも遂に「教習所の終焉」を宣告したのであるがその時の社内の責任者は私であった。
・ 若くして就職した少年たちは丸坊主で目が輝き漫然と高校に進学した生徒たちとは明らかに異なり何より「自立心が旺盛で人生や職業に対する真剣な気持ち」が明らかに見てとれ、当初の教習所の卒業生はまず間違いなく「職場の中心、幹部となって豊かな人生」を送ったと私は思う。
・ 私は理系出身のエンジニアであったから現場経験も長かったがこの教習所出身者の技能の力量や何より愛社精神などは比べようもなく高く、どれほど未熟な学卒のエンジニアが助けられてきたことか。
・ 戦後経済成長を歩んできた日本の製造業の現場ではこのような中学卒の企業内訓練学校卒業生の力に負うところは極めて大きかった。しかしこのことを知っている人も少ない。今や姿を消したこのような「教習所の存在」を今私は改めて思い起こしているのである。
・ 又昭和40年代に高校を卒業して企業に就職してきた若い社員も「金の卵」などといわれる時代もあって、総じて「質の高い労働力」として戦後の復興、特に製造業現場でその働き振りが賞賛されてきたことはどの企業でも口に出すことであった。
・ ところが昭和40年代後半から50年代にかけて一般高校への進学率、大学への進学率が高まって「中学卒業生の97%が高校の行く時代」となってきたことが「労働市場に大きな質的変換」を迫るようになってきた。
・ 「頼むから、高校くらいは出ておきなさい」というような風潮から猫も杓子も高校に進学し「ファッションとして大学に進学」するとしか思えないような一部の現実を目の当たりにすると私は野村昭雄氏と同じく昔の「企業内教育施設」を思い出すのである。
・ 目的意識もなくただ漫然と高校に行き、大学に進み、その高校も「普通科」として、大学も一般大学として日本の学校教育は子供たちの「職業観」や「勤労観」に真正面に向かって来なかったという反省につながるのである。
・ 私は前から思っているのであるが教育改革・学校改革の中心の一つにこの「職業教育」を据えて国民的議論が必要だと思っている。しかしこれは相当腕力が必要であり、その理由は「関係者の利害得失が大きい」からである。
・ しかし今の枠組みでは若年の無労働者、フリーター、高校中退者の行き先など社会問題であるが、その解決策は容易には見当たらないのも現実ではないだろうか。特に問題は「大学」である。高校は「牛のよだれ」的にポタポタした遅い歩みではあるが「総合学科」とか「単位制高校」とか「特色ある高校作り」が進みつつある。
・ 高校に97%も進学する時代であるがゆえに高校卒業を一般の「教養教育の終了」と考え、その後を「複線化」する「新しい大学の出現」を考えざるを得ないのではないだろうか。それはまさしく「キャリア教育」を旗印にしたものであるべきと私は考える。