・ 私は「手帳」を持っている。もう何十年も同じ会社の物を使っている。ただ予定だけが入っているもので特段変わった手帳ではない。「能率手帳」だ。これ以外は使ったことが無い。手帳も手帳でこの間、まったく内容が変わっていない。
・ 手帳にはただ「週間単位のスケジュール」とその横に「メモ欄」がある程度のものだが、後で振り返って見る時に大変便利なのである。まあ「日記風メモ帳」みたいなものだ。それでも昔は最後にある「住所録」などを良く見ていたが今はご存知のように「携帯電話が普及」しこの中に全ての人々の連絡先などが入っているものだから、この古いタイプの住所録も見ることはなくなった。
・ 今、08年度の手帳を取り出して見ている。「昨年の5月16日は金曜日で、この日私は生まれて初めて関西大学を訪問した」。実はこの前日に初芝高校さんが立命館大学グループ入りすることが大々的に報じられて、私は今日の関西大学さんとの連携を「最終決断」をしたのだ。この日のブログはまだオープンにすることも出来ず、末尾にさらりと以下のようなことが書かれている。
・ とにかく理事長職務代理に電話して当時の関西大学理事長とかねてからのご面識があるとのことで大学側に繋いで頂いたのである。そして私は関西大学秘書課に電話してアポを頂いた。「早速、明日訪問したい」と約束を取り付けたのである。その日が昨年の5月16日だったのである。
・ 平成20年5月16日(金)校長日記、その一部から:
“早速今日は某有力私立大学の理事長と面談だ。行動は素早いのが唯一の取柄か欠点である。「電光石火」であるといいが「拙速」という言葉もある。しかし「動かなければ次が見えて来ない」のも事実だ。私の場合、じっとしていると体がしんどいが、このように動くとリンリンと体が熱くなり元気になってくるから不思議だ。“
・ 以上の文章には何か「焦り」みたいなものと「当たって砕けろ」みたいな悲壮感的なものも感じられる。確かにこの年4月には600名を超える生徒が入学してくれて「学校は上り調子」であったのだが競合する「お隣さん」が立命館大学と組む報道に接し、「危機感」を有していたことが分かる。
・ 「心配性」の私には「今年は良かったが果たして来年はどうだろうか?」との思いもあり、元々「大学を有していない学校法人」として「いずれは何処かと」という考えは「ずーッ」と有していたので最終決断をするには時間は掛からなかった。初芝立命館が「トリガー引き金」になったことは間違いない。
・ そして私の手帳には二日後の「5月18日(日)に続いて関西大学を訪問」していることが記録にある。最初の訪問時に関大の理事長先生から18日に「関西大学教育後援会総会」があるから「参考に来られたらどうか」とお誘いを受けたので、PTA副会長と本校の教育後援会の副会長をお連れして訪問したのである。
・ ところがこの日のブログ校長日記にはこのことの記述は一切ない。まだ「隠密裏」であったのと世界を驚かす大事故が中国で起きたのである。この日のブログの冒頭の部分は以下の通りである。
・ 平成20年5月18日(日)校長日記、その冒頭の部分から:
“言葉がない。本当に痛ましい。今朝の朝刊の伝えるところによると死者は29000人を超えていると言う。まだ1万人以上が「生き埋め」という。生死の境目は72時間と言われているらしいが、すでに120時間以上が過ぎ、その時は過ぎた。私は「生き埋め」という言葉に戦慄を覚える。最も悲惨で冷酷な死に方ではないか。”
・ 関大訪問の記録が無い理由は中国の四川大地震について書いているからである。その後「3回目の関大訪問は月が替わって6月11日(水)」が記録にある。この時は中学副校長、入試広報室長、副室長の3人を連れて「実務の打ち合わせ」で訪問している。「教学ご担当の副学長先生」にお会いした。
・ この日のブログも隠密裏に「覚られないように書いている」のが分かるし、関大の関の字もない。しかし今明らかにすると実際は「木村が関大の教育後援会総会」に出席したことは既に「公知の事実」みたいに府内の塾関係者には知れ渡っていたと入試広報室は言う。とにかく日記には関大の名前を出さずに、「出張の手引き」みたいな教員指導の形を取っている。
・ 平成20年6月11日(水)ブログ校長日記、その一部から:
“この日の会談には斯界で超有名なトップ中のトップが突然部屋に入って来られ、15分程お話に入って頂いた。あれは先方の好意であり、当方に対する社交的儀礼の表れである。これも一つのスタイルである。途中で秘書が入ってきてメモを見せ、来客といって退室されていったがあれもスタイルである。私には良く分かる。木村が来ているから「お顔を出してくれた」ことに他ならない。
「会話録」をまとめるように指示した。何の為に来ているかといえばこれをまとめるのが仕事だから。本校の理事などに今日の雰囲気を伝えねばならない。しっかりとまとめるように指示した。
しかし会議室には「灰皿」など全くなかった。大学内敷地内全面禁煙とは思えないが、タバコの匂いは全くなかった。今日連れて行った3人は3人とも「ヘビースモーカー」で、途中でタバコを取り出さないか(これは冗談だが)心配したがそれは杞憂に終わった。
会談は10時始まりということで「コーヒー」が出された。終了後は「建物入り口まで見送って頂いた」。これも見習わなければならない。お昼の弁当を届けてくれる業者さんを見送る必要はないが、何事も何人にも外部の方には丁重に対応するのが「品格」だ。教職員はこのことを忘れてはならない。「偉そうにするな」ということだ。“
・ あれから1年が経って「今日の調印式」を迎えることになった。「感無量」なものがある。あれから一年で関西大学の理事長先生、学長先生が本校に来て下さり800名の生徒保護者教職員の前で「連携調印式」に臨んで頂いたのである。
・ 「 河田学長先生が直接本校生徒にお話をして頂いた」のである。我々は今日の日のことを忘れてはならない。俵万智流に「関大に思い焦がれてこの1年、6月9日は関大記念日」である。
・ 手帳にはただ「週間単位のスケジュール」とその横に「メモ欄」がある程度のものだが、後で振り返って見る時に大変便利なのである。まあ「日記風メモ帳」みたいなものだ。それでも昔は最後にある「住所録」などを良く見ていたが今はご存知のように「携帯電話が普及」しこの中に全ての人々の連絡先などが入っているものだから、この古いタイプの住所録も見ることはなくなった。
・ 今、08年度の手帳を取り出して見ている。「昨年の5月16日は金曜日で、この日私は生まれて初めて関西大学を訪問した」。実はこの前日に初芝高校さんが立命館大学グループ入りすることが大々的に報じられて、私は今日の関西大学さんとの連携を「最終決断」をしたのだ。この日のブログはまだオープンにすることも出来ず、末尾にさらりと以下のようなことが書かれている。
・ とにかく理事長職務代理に電話して当時の関西大学理事長とかねてからのご面識があるとのことで大学側に繋いで頂いたのである。そして私は関西大学秘書課に電話してアポを頂いた。「早速、明日訪問したい」と約束を取り付けたのである。その日が昨年の5月16日だったのである。
・ 平成20年5月16日(金)校長日記、その一部から:
“早速今日は某有力私立大学の理事長と面談だ。行動は素早いのが唯一の取柄か欠点である。「電光石火」であるといいが「拙速」という言葉もある。しかし「動かなければ次が見えて来ない」のも事実だ。私の場合、じっとしていると体がしんどいが、このように動くとリンリンと体が熱くなり元気になってくるから不思議だ。“
・ 以上の文章には何か「焦り」みたいなものと「当たって砕けろ」みたいな悲壮感的なものも感じられる。確かにこの年4月には600名を超える生徒が入学してくれて「学校は上り調子」であったのだが競合する「お隣さん」が立命館大学と組む報道に接し、「危機感」を有していたことが分かる。
・ 「心配性」の私には「今年は良かったが果たして来年はどうだろうか?」との思いもあり、元々「大学を有していない学校法人」として「いずれは何処かと」という考えは「ずーッ」と有していたので最終決断をするには時間は掛からなかった。初芝立命館が「トリガー引き金」になったことは間違いない。
・ そして私の手帳には二日後の「5月18日(日)に続いて関西大学を訪問」していることが記録にある。最初の訪問時に関大の理事長先生から18日に「関西大学教育後援会総会」があるから「参考に来られたらどうか」とお誘いを受けたので、PTA副会長と本校の教育後援会の副会長をお連れして訪問したのである。
・ ところがこの日のブログ校長日記にはこのことの記述は一切ない。まだ「隠密裏」であったのと世界を驚かす大事故が中国で起きたのである。この日のブログの冒頭の部分は以下の通りである。
・ 平成20年5月18日(日)校長日記、その冒頭の部分から:
“言葉がない。本当に痛ましい。今朝の朝刊の伝えるところによると死者は29000人を超えていると言う。まだ1万人以上が「生き埋め」という。生死の境目は72時間と言われているらしいが、すでに120時間以上が過ぎ、その時は過ぎた。私は「生き埋め」という言葉に戦慄を覚える。最も悲惨で冷酷な死に方ではないか。”
・ 関大訪問の記録が無い理由は中国の四川大地震について書いているからである。その後「3回目の関大訪問は月が替わって6月11日(水)」が記録にある。この時は中学副校長、入試広報室長、副室長の3人を連れて「実務の打ち合わせ」で訪問している。「教学ご担当の副学長先生」にお会いした。
・ この日のブログも隠密裏に「覚られないように書いている」のが分かるし、関大の関の字もない。しかし今明らかにすると実際は「木村が関大の教育後援会総会」に出席したことは既に「公知の事実」みたいに府内の塾関係者には知れ渡っていたと入試広報室は言う。とにかく日記には関大の名前を出さずに、「出張の手引き」みたいな教員指導の形を取っている。
・ 平成20年6月11日(水)ブログ校長日記、その一部から:
“この日の会談には斯界で超有名なトップ中のトップが突然部屋に入って来られ、15分程お話に入って頂いた。あれは先方の好意であり、当方に対する社交的儀礼の表れである。これも一つのスタイルである。途中で秘書が入ってきてメモを見せ、来客といって退室されていったがあれもスタイルである。私には良く分かる。木村が来ているから「お顔を出してくれた」ことに他ならない。
「会話録」をまとめるように指示した。何の為に来ているかといえばこれをまとめるのが仕事だから。本校の理事などに今日の雰囲気を伝えねばならない。しっかりとまとめるように指示した。
しかし会議室には「灰皿」など全くなかった。大学内敷地内全面禁煙とは思えないが、タバコの匂いは全くなかった。今日連れて行った3人は3人とも「ヘビースモーカー」で、途中でタバコを取り出さないか(これは冗談だが)心配したがそれは杞憂に終わった。
会談は10時始まりということで「コーヒー」が出された。終了後は「建物入り口まで見送って頂いた」。これも見習わなければならない。お昼の弁当を届けてくれる業者さんを見送る必要はないが、何事も何人にも外部の方には丁重に対応するのが「品格」だ。教職員はこのことを忘れてはならない。「偉そうにするな」ということだ。“
・ あれから1年が経って「今日の調印式」を迎えることになった。「感無量」なものがある。あれから一年で関西大学の理事長先生、学長先生が本校に来て下さり800名の生徒保護者教職員の前で「連携調印式」に臨んで頂いたのである。
・ 「 河田学長先生が直接本校生徒にお話をして頂いた」のである。我々は今日の日のことを忘れてはならない。俵万智流に「関大に思い焦がれてこの1年、6月9日は関大記念日」である。