2009年6月27日土曜日

6月27日(土)男の引き際


・ 一服の「清涼剤」であった。「すがすがしい」気がした。だからこういう記事に触れるとしばらくは気持ちが良くなる。日本経済新聞が26日の囲みの記事にしているのだが、その見出しは「武田薬品工業・武田國男氏が退任」「来年からは株主席で」とあった。
・ 昨日行われた「株主総会」で「武田薬品工業元社長で会長の武田國男氏が退任」された。ホテルニューオオタニに集まった1766人に静かに語りかけ「私も来年の総会から皆さんと同じ株主席に据わる事になる。その立場から武田薬品の成長を今後も見守って生きたい」と語りかけられたという。
・ 自身の仕事を振り返った感想では「社長として10年、会長として6年務めたが先輩が残してくれた4品目や従業員、株主のお陰でここまでやってこられた」とこれは形どおりの感謝の言葉であるが、お人柄からか「真摯な思い」を感じる。「謙虚」なのだ。
・ 今後「顧問とか相談役とか一切の肩書きを持たない」と言うことで武田薬品での役職は一切なくなることに対して株主から「何らかの形で会社に残って欲しい」との強い要望に対して武田氏の返答は以下のようなものだった。
・ 「長谷川閑史社長という素晴らしい後継者を得て、私の仕事は全て終わった。完全に身を引く」と明言されたという。「素晴らしい」。この退き様に私は「感動」する。男として格好が良い。だから一服の清涼剤と私は言ったのだ。
・ そして最後は「武田薬品が今後も世の中の役に立つ会社であるために全員が地道に努力することが必要だ」と社内へ向けたメッセージで締めくくったという。最近ではついぞない「男の引き際」である。69歳と言われるがまだお若いのになーという感じだ。
・ 日経新聞に「私の履歴書」という大変有名な記事欄があり、日本人あるいは我が国にゆかり深い外国の人々を含めて「立派な業績」「大きな影響」等を与えた政財界や学界などの著名人がその月の1日から月末まで「人生の生い立ちを履歴風に記述」するまさに私の履歴書そのものである。
・ そこに「書きたいと思っている著名人は山ほど」おられるらしい。だから簡単に「次は私の順番」というわけにはいかないとのことだ。とにかく有名なコラムであるのだが、そこに前述の武田國男氏が登場したことがある。私は今でもその内容を明瞭に記憶している。2004年の頃か?
・ 何故記憶に残っているかと言えば読んで「面白かった」からである。とにかく「抱腹絶倒」で、翌日が楽しみになるような記述であった。軽妙洒脱で「文才」もお持ちであった。「人間の香り」が高いのだ。要は人間が「下種(げす)」ではないのだ。
・ この私の履歴書はその後日経新聞社から「単行本」になって販売されるのが普通である。又著者が大量に購入して知人やお世話になった人々へ頒布するのであろう。中には「自慢話」がきつすぎたりするものもあったりするが、余程の人物でもない限り又読もうとは思わないのだがこの武田氏に関してはもう一度読みたい気がする。
・ 武田氏はご自身のことを「落ちこぼれ」といわれる。1940年神戸の住吉別邸に武田家の三男として生まれた。武田家の本宅は大阪市内の道修町にありそこには長男がいるのである。学校は「甲南ボーイ」で幼稚園から大学まで甲南一筋である。
・ 創業家だから武田薬品に入社するが傍流で社内の「鼻つまみ者」と厄介者扱いであったとご本人が言っている。ゴルフ三昧で「窓際族」であったらしい。ところが社長になるはずの超エリートの長男が突然ジョギング中に亡くなり、この辺から運命が変わって行く。
・ 「独裁者」「バカ殿」などと言われながらも社長になるや「大企業病」に陥っていた武田薬品の「大改革実行」を推進する。「徹底的な社内改革と人事制度の刷新」を進め経営資源の「選択と集中」で、社長就任9年目で売上高1兆円の世界ブランド武田薬品を見事に「再生」したのである。
・ 私が前に勤務した「府立旧制高津中学の初代の同窓会長が武田薬品創業者の武田長兵衛氏」であった関係で私は武田薬品には親近感を抱いていたこともあり、この「私の履歴書」を熱心に読んだのであるが、読みながら「すごい人」だと感じ入っていた。
・ ご本人も書いておられたが米国でまじかにみた大規模な欧米の巨大製薬会社と大阪道修町の薬種問屋的お店(おたな)の違いに圧倒された「危機感」がベースにあったとある。素晴らしい経営者はすべて「心配性的危機感が背景」にある。「脳天気」では務まらないのだ。
・ 傍流を歩みながらもひとたびそのポジションに付くや「冷徹なまでの合理化」を推し進め、「ばっさ、ばっさ」と切っていくのだ。恐らくアメリカでの4年半が大きな影響を与えたことは間違いない。
・ 「最後まで手を抜いてはいけない」のだと痛感する。経営のトップが「これで良い、しばらく休止」などと言ったらそれでお終いだと言われる。「私などは根は優しいしまだ甘い」。自分に置き換えて考えることが多くあった。
・ 私は思うのだ。傍流、窓際と言われながらもその間「じっと考え、思い、勉強していた」に違いない。甲南で遊び、ゴルフ三昧といえどもひとたび立てば「このような仕事」をするのだ。その「変貌が面白い」。この辺は「尾張のうつけ」といわれた信長に被ってくるものがある。
・ 武田薬品と言えば知らない者はいないくらい有名な大阪発祥の世界規模の企業で、その創業家一族で初代武田長兵衛以来の名経営者「武田中興の祖」とまで言われた人がこのように「さらッ」と引退するのだ。今後会社とは一切かかわりを持たないという。信じられないような話だ。
・ 我が国には古くから「引き際の美学」があって、120%武田國男氏は当てはまる。「長谷川閑史社長という素晴らしい後継者を得て、私の仕事は全て終わった。完全に身を引く」と明言されたというが「ちょっと格好良すぎる」くらいだ。
・ 世の中には「引き際を失敗」して「晩節を汚す」ということがどちらかといえば多い。日本の美学は「責任を感じた者が反省して出直す」よりもさっぱりと「辞任」「辞職」「切腹」で身を処することが美しいとされてきた。「私もそのように生きてきた」。
・ 今回は勿論大いなる業績を上げた本人で、創業者の一族がさらっと退任するのだから普通にできることではない。「美しい」。同じ新聞にどこかの田舎の市で引退した元市会議員が公共の公園に「自分の銅像」を立てようとして大きな問題になっていた。「あの公園は自分が議員の時に作ったものだから」と言ったとあるが「醜い」。大きな違いだ。
・ 私も「立派な後継者を得て引き際を大切」にしたい。そのように思ったのである。特に私の場合、根城は関東だから、引いたら大阪にはいない。立派な引き際をしたいものだ。「教職員は早く引いてと思っている」だろうが、まだやることはある。武田國男氏は社長会長で16年だ。それに比べれば私などまだ3年で後13年ある。申し分けないがまだ引かない。