2009年6月26日金曜日

6月26日(金)学校行事前半戦終了


・ 「1月以来の行事」がすべて一段落した。私学は本当に大変だ。特に今年は忙しかった。1月以来、「半年間の学校行事」を主だったもので書いて見ると以下のようになる。いずれも少しづつ昨年と内容を変えているので、その聞余分に「神経を使う」のだ。
・ まず入試準備、入試と合格者発表、3年生のセンター試験、大学受験、卒業式、本年度の入学者数の決定、入学式、多聞尚学館開館式、新型インフルエンザによる臨時休校、関西大学との連携調印式、塾長様来年度入試説明会とPTA社会見学会、保護者懇談、進路週間、同窓会総会等「目白押し」であったのである。
・ 休むまもなく行事が進む。随分前に「学校は行事消化型社会」とある教育論文に書いたことがあるが、これだけは本当に間違いない。その行事もPTAなど学校外の人々を巻き込んで行われる行事と生徒と教職員だけの内部行事と色々あるが、どれもこれも大切で間違いなく「行事をトラブル無く遂行して行っている限り学校は見た目安泰である」と言える。
・ 私は行事単位に「バイオリズム」カーブは微妙に異なるものを持つが、終われば「ホッ」とし、又気持ちを切り替えて次の行事に向かうという感じだ。ところが教員は「定例的な行事」については「見事に」やりきって行く。
・ 観察していると「生徒の反応」なども予測できているみたいだ。「次に何が起きるか、起きそうか」頭の中に回路が完成されているように見える。だから定例行事となると決して慌てない。どういう手を次に打てば良いのか分かっているのだろう。
・ ところがだ。「全く新しい物、出来事、人物などには容易に順応できない」ように見える。「入学した生徒と新たに仲間になった教員の生態」については前述したように分かっているから極めて精神状態も落ち着いて対応できるが、今まで経験したことの無いような出来事や人物には「立ち往生」するような場面もあるみたいだ。
・ 例えば前回の「新型インフルエンザ」で修学旅行が延期になったりすると、慌てふためきはしないが途端に「らくらく処理」とは行かず、「慎重」になる。そして「消化不良のものが胃袋に残った感じ」でその後もついて回ることになる。
・ そもそも教師の仕事とは元々「低緊張状態がだらだらと定年まで続く」仕事である。「ヒートアップ」し「クールダウン」する「快感を楽しんでいる」ようには見えないのだが果たしてどうだろう。山があって谷があるというリズムのある世界ではない。
・ 民間企業みたいに売上高や利益目標、生産数値などは全く関係ない世界なのである。しかし本当はそれではいけないのであるが、とにかく「数値化が苦手」であるし、特に特定の集団に属する教員には数値化は差別に繋がるという考えがベースにある。「多面的な見方が不得意」である。
・ その理由は生徒が3年たったら卒業して行くというサイクルに関係していると私は見ている。3年でまた元に戻るのだ。「3年一回り」でくるくる生徒は変わっていく。そして毎年毎年同じ年の生徒が入学してくる。やることは大体同じである。自分は年をとっていくが「教育の対象はいつも同じ年」である。
・  余程の努力でもしない限り「革新の心は無くなる」。同じことの繰り返しでもう「手馴れたものになるのである」。それは極めて自分にとって「」である。「安住」なのである。だから新しいことに挑戦しよう、行事を変えてみようとはならなくなる。
・ この月はこれがあり来月はこれがあると誰もがわかっているのである。新しい生徒や新人の講師などには決して驚いたりしないが、「新しい校長の誕生」などがあったりすると途端に身構えることになる。この校長は自分と自分たちにとって「良いか悪いか」「損か得か」の回路が回り始めるのだろう。よく言えば教員は「人見知りする人種」なのである。
・ 賢い教員は「じっくりと観察」して、「新校長を見定め」ようとするが、賢くない教員は「ここで一発かましたれ」などの態度を取ることに成る。新しい校長が例えば「内部昇格」で就任したりすると、もうこれは大変で意見は完全に二つに分かれる。
・ 「何であいつが校長やねん」というのと「まあ順当だわね」というものだ。そして私のように外部から「落下傘にのって着陸」したりすると「天下の一大事」で、順応する教員はまあ少ない。
・ 今私のスタッフである管理職4名は2年半前「大人の対応」をした人間ばかりであった。賢い人間だったのである。このように人間と言う者は全く想像もしない、経験も無い、人物や出来事が起きた時に「真価が現れる」。
・ 最近NHKでやっていたが入社試験も今日では様変わりで単なる知識の多さなどよりも「いざと言うときの対応の仕方」を見ていると言う。ベストセラーの本もあった。「地頭力」と言うらしい。総じて学校の教員は新しいことに「臆病」である。それは前述したような学校と言う本質的な環境もあるからだ。私の論点は臆病までは結構だ。しかし臆病を「隠れ蓑」にして何もやろうとしない、変えようとしないことを責めている。これは「サボタージュ」である。
・ 臆病を理由に「新しいことや今ある行事の見直し」をしないと「誰が得をするか」というと「教員が得をする」からである。「去年と同じ」であれば誰も責任は問われないし、仕事のやり方も分かっている。「新しいことをしようと思えばそれを企画し役割分担を決め、結果についても責任を負う」からだ。
・ 特に仕事量が増えることが大嫌いなベテラン教員が、若い新進気鋭のやる気満々の先生に「それ、誰がやるのか?」と言った途端に「案はポシャる」のである。だから学校行事は「去年と同じ」で変わらない。
・ 「やる仕事が変わらないから意識も変わらない」。それで1年が過ぎて行くのである。そして1年経ったらまた去年と同じ行事が始っていくのである。本当に人が変わるというのは難しいものだ。「良い年をしたおっさん教員が校長に一言二言、言われて変るようなら苦労はしない」。
・ 物事を変えるのは簡単な話である。お金を出して買うか、作り直せば良い。しかし「人の意識は簡単には変わらない」。「あの人は変わった」というのは私は「ウソ」だと思っている。そんなに簡単に変わるわけがない。
・ 「変わった振り」をしているだけだ。私はそのように考えている。しかし「変わった振りをするのも立派なこと」である。だから「振り」だけでも良いから変わって欲しいのだ。振りをしてもらうために「評価処遇システム」を導入したという面も正直ある。
・ 私立学校で最も大切なことは「生徒」だ。教職員が大切でないのではない。「生徒が大切だから教職員が大切なのである。」この順番を間違ってもらっては困るのだ。中には誤解をして「自分が最も大切」などと思っているような教員がいるがとんでもない話」だ。
・ 授業料を払ってくれている生徒が大切で給料を受けとっている教員は2番目である。その給料は生徒からの授業料で支払われているのだ。誰が考えても分かる理屈である。「生徒にため」に自分がまず変わった振りをしてでも頑張って欲しい。そのために「私は次々と新しい仕事を投げ掛けている」のだ。そしてようやく本当に変わりつつある本物も出てきた。「本物と偽者の違い」は直ぐ分かる。