2008年6月5日木曜日

6月5日(木)職員会議の挙手

職員会議の挙手禁止
・ 昨日の読売に面白い記事がある。東京都教育委員会が定めた「職員会議における教職員の挙手による採決禁止」の通達に現職の校長一人が「撤回を」と異議を申し立てたというのだ。記事の扱いは巨大な都教委に歯向かう些か変わった孤軍の校長というという感じだ。「言論の自由がなくなる」と言っているらしい。
・ 2006年東京都は例えば卒業式に国家を斉唱し国旗を壇上に掲げるという行為に対して「子どもを戦場に送るな」と短絡したイデオロギーを振りかざし、反対する教員に懲り、とにかく校長の学校運営にことごとく反対する一部の教職員グループの不適切さを排除するため「学校の意思決定を校長に取り戻す」として「職員会議の教員による挙手による決定を廃止する」と明確に定めたものだ。
・ これに対してこの校長は「教員に何を言っても仕方がないという空気が広がり、職員会議で殆ど意見が出なくなった。教員の声が直接反映されないと活性化につながらない」と撤回を求めてきたものらしい。
・ 「何を言っているのか!」。そんなことで職場が活性化するとか、活性化しないとか関係ない。活性化しないのは「君の腕が悪いからだろう」と言ってやりたい。「何も考えず」「自分にとって損か得か」「しんどいことはしたくない、今のままで良いではないか」「子どもを戦争に送るな」「教育基本法反対」「何でも反対」と言った連中の意見を聞くことが活性化につながるのか。
・ 偏った考えを有しているグループや都合の良いときは組合教員の動きを支持し、影に隠れて、ときに管理職に擦り寄る「日和見主義の教職員」に見識ある意見があるとも思えない。まだ新卒で学校に来て2ヶ月くらいしか経っていない常勤講師の先生に深い洞察力が備わっているとも思えない。
・ 大体「挙手で方向を定めて、一体誰が結果責任を取るのか」、賛成、反対どちらでも良いが意思決定に手を上げた教員全てが責任を取るのか。「責任はすべて校長」にある。従って「最後は責任ある校長が全てを決める」。当たり前の話だ。
・ 大体この校長、その昔「平等や平和主義を生徒と考えるために」教師になったという。社会の政治経済の教師から2002年に校長になっており、もう6年も校長をやっていてこの発想だから、「些か変わってる」と言われても仕方があるまい。
・ 議論はすれば良い。私などは何時も議論している。今日も職員会議の後で関係の教員で集まり「大学との連繋」について議論をした。学校の教職員は会議といったら職員会議とか分掌会議とかしか頭にないが、「会議や議論は形や場所や時間の長さではない」。
・ 議論とはある程度のその問題に対して基礎知識があり、勉強しており、あるいはデータを有しており、経験があり、そこそこレベルのあった人間間でないと議論にはならない。「思いつき」や「感じ」で意見を言っても場を混乱させるだけだ。
・ 5分で終わる会議もあれば廊下を歩きながら決める議論もある。2時間議論しても結論の出せない議論もある。この校長の言う「言論の自由がなくなる」というまさにこの言い方に「偏向」を感じるのだ。本校では何時でも何処でも議論をしている。議論はすれば良い。しなければならない。浪速は本当に職員室でも結構議論は多いらしい。時に喧嘩みたいになるらしいが。
・ 都教委も「議論は禁じていない」と言っており、議論はしたら良いのだ。ただ議論の最後に「議長とか申す人」が「それでは賛否をとります」と言って議論の集約に教員の挙手で決めるのは「校長権限の侵害」だから「それは駄目」と言っているのである。「議論の行方を校長は見ながら自分の頭で最終判断」することになる。
・ 職員会議は学校教育法施行規則の改正で2000年に「校長が主宰」とし「校長の校務運営の補佐機関」と明確に規定されたのだ。「校長の職務の円滑な執行に資する」と大阪府も管理規則に規定を盛り込んだ。本校は4月から議長制を廃止し、教頭が職員会議の進行をしている。
・ 都の他の校長の一人が「教職員組合に決定権を握られるのも困る。都教委につくか、組合かと問われれば多くの校長は教育委員会につくしかない」とコメントしているが、これも「だらしないいい様」だ。
・ 東京都みたいに「強い教育委員会」であれば校長は楽であるが、そうでなくとも校長の見識と力で現状の体制でも可能であり、ここに「校長のリーダーシップ」が問われている。これを私は「胆識」と言っている。「腹だ、腹だ。腹を据えてやれば何でも出来る筈だ。」
・ 私はテーマによっては教職員の賛否を問うようにしている。この前も教職員代表を一人決めるのに指名などしなかった。全員の挙手で「教職員の意向を確認」した。しかし昨日のブログ「有給休暇の買い上げ方針」などは教職員の賛否で方針を決めることではない。これは「理事長の専管事項」だ。