2008年6月25日水曜日

6月25日(水)椋本先生に哀悼の意を奉げる

椋本彦之氏の死を悼む
・ グルメ杵屋の創業者で会長の椋本彦之氏が昨24日亡くなられたとの訃報が入ってきた。出先に副校長から電話が入ってきたのだが、「驚いた」。「何ともいえない気持ちになった」。悲しい出来事である。
・ 「椋本先生は浪速中学校の卒業生」である。現在の私の職位からすれば母校の校長と同窓生という関係になるが、実は私が浪速に来る前からご厚誼を戴いており、私が浪速に行くことが決まった時には「不思議なご縁」を感じたものだ。
・ 先生とは数回食事をともにしたりしており、親しいと言うか若輩者を温かく見守ってくれる優しい「人生の達人」であった。着任の挨拶に杵屋の本社に出向いた時に「浪速、頼むよ」と言われた。今でもはっきりとそのお声を覚えている。
・ 加賀屋の本社から学校のある山之内まで、会長は自ら高級車センチュリーを運転して学校まで送り届けてくれた。道すがら「学校経営」について色々とご指導を賜ったのである。
・ 「熱血先生が学校を変えてくれる」と言われ、理事長を務めておられた初芝学園の現状を楽しそうに話して頂いたのは平成19年2月頃だ。丁度1年半前のことだから古い話しではない。
・ 平成14年に大阪府初の民間出身校長として府内の伝統ある進学校に着任し、「学校改革」に着手した。その年の夏から秋にかけて改革に反対する組合分会が教育委員会に「異議申し立て」をし、それが大きな騒動になった。
・ マスコミからすれば改革派の民間人校長と守旧派の教職員組合との対立の構図は格好のニュースで某大手新聞などは全国版の特集を組んだりして「進学の数値目標は是か非か」などと騒ぎは当分続いたときに椋本さんは一冊の本を贈ってくださり。その上お電話で「頑張りなはれや」と激励していただいたことは忘れられない一件である。
・ 戦いの最中にたとえそれが声援でも送っていただくと「嬉しいものだ」。この恩義は一生忘れてはならないとその時に思った。爾来私も友人知人が「へこんでいる時や落ち込んでいる時に一言贈る」ことを心がけている。
・ 直近でお会いしたのは昨年11月の同窓会80周年パーティの席であった。丁度初芝学園問題が大きく報道され始めていた時で、ご予定では出席出来ないと伺っていたが、突然お顔をお出しになり、あの人懐こい笑顔で「木村さんに会いに来たよ」と私に言って頂いた。先生はお笑いになる時に背を丸くされる癖がある。
・ 同窓会の幹事もそれから急遽席を作らねばならず、走りまわって私や藤本義一先生や同窓会長のおられるメインテーブルに席を作ったのも記憶に新しい。その時は事件の渦中で「まあな、外部の人間がなー」と嘆息されていたが、この時私とどのような会話があったのかについてはここでは書くまい。私は「先生、気力を失わないで頑張ってください。」と申し上げたら「わかっとる、わかっとる」と微笑んでおられたがお元気はなかった。
・ 椋本先生は「気配りの人」である。相手の心を読み、それに応えようと鋭く反応される。椋本先生は「柔軟な人」である。恐れ多いが私も似たようなところがあって、「何でも吸収、何にでも変化」できる。右90度から左90度の大旋回など平気でとにかく「大きいお人」であった。
・ 良い表現がみつからないのだが「お知恵の人」でもある。今日的に言えば「アイデアマン」の方がわかり易いがこの表現は安っぽくって嫌な感じがする。「進取の人」がぴったりかもしれない。ひらめきも凄いし何しろ「実行力」がある。
・ 1957年と言うから今から半世紀も前、「米穀商い」から出発し、1960年大きな転機が訪れる。米国使節団としてアメリカで「チェーン展開するハンバーガーショップ」を見て閃いたという。
・ 「パンよりうどん」だと言い、遂に奈良に杵屋1号店がオープンする。89年11月株式を上場、翌年の株主総会は今に語り継がれる「異例尽くめの総会」だった。総会の模様全てを公開し、終了後は株主に自社の「うどんを振舞って懇親会」を開いたという。
・ 今でこそ当たり前になってきた株主への配慮だが当時は影で総会屋などが暗躍する「シャンシャン大会」であった。「けしからん、株主軽視だ」と従来の風習に風穴を開けたのだ。「株主は外部モニターと言う名言」を残される。
・ 平成17年頃、まだ私が公立高校に勤務していた時に夕食をご馳走になったことがあった。場所は法善寺横町の高級割烹でこのときはお元気で、新しい名詞を差し出され貝塚の「水間鉄道管財人」というものであったが、「頼まれたから、またやるねん」と気力が溢れていたのを思い出す。その他関空のケイタリング会社の経営など事業欲の衰えることはなくメラメラと輝いて見えたものだ。
・ 本校にとってOB椋本彦之氏のご功績は「浪速中学校の再開」にある。新制浪速中学校を「昭和26年第4回生」として卒業された椋本さんは様々な理由から募集停止になっていた中学校を「わしの母校がなくなって寂しい、再開したらどうか」と応援してくれ、平成60年日本中がバブル景気に湧き始めるちょっと前に中学校は再開された。15年振りの再開だ。
・ 昭和60年6月の同窓会報には椋本先生の寄稿記事があり、先生の喜びが伺える。この年は体育館の完成もあり理数科の設置や創立60周年事業など時々私が書いているように「浪速のピーク」の時であり、以後皮肉にも浪速は日本経済と同じで下り坂道にさしかかる。
・ 平成19年1月浪速に着任した私が考えた「最初の経営合理化案は中学校の閉鎖」であった。一旦は決意したものの、熟慮に熟慮を重ね「もう一度やってみるか」と継続を決め、そのためにも「徹底的に怒涛の如く学校を改革」していった。
・ 「最初からトップスピード」にして走らなければ間に合わなかったからである。今は「中学校を残しておいて良かった」と嘆息して思っている。あの時止めておれば「後世に残る大失敗」として私の疵になったと思う。
・ 昨年理事長職務代理から聞いたことであるが、私の浪速招聘話がある前に椋本会長を大阪天満宮にお越し頂いて当時の浪速のH理事長と四人が「浪速の将来」について話しあわれたと聞いた。椋本氏は「じっと聞いていたが、何も言われなかった」と職務代理は私にはいわれた。
・ 言外に「ファイナンス的支援要請」や「初芝学園グループ入り」などを打診されたと思われたのではないかと職務代理は言われる。この時に何を思われ、何を感じられたか何時かはお聞きしても良いかなと思っていたが、遂にその機会も失われた。中学校を再開させたご本人が当時の中学校の悲惨な状況の報告を受けて「辛い、悲しい思い」をされたから何も言われなかったと私は勝手に想像している。
・ 多くの役職、公職をこなし、ボーイスカウトの支援に大きな足跡を残し、「つぶれかかった私立学校を復活蘇生させ」、グルメ杵屋の店舗数528店、水間鉄道、を含め多くの人々とその家族の生活を守り抜いてきた一代の英雄、椋本彦之氏のご逝去を悼み、こころから哀悼の意を学校法人大阪国学院浪速中学校高等学校を代表して捧げる。そして一人の人生の後輩としてご生前賜ったご厚誼とご指導に心から感謝申し上げたい。
・ 前の学校を突然辞めた時に「専務理事で来ないか、校長はもういるから4人の校長の面倒をみてくれないか」とお話があったのもつい2年前であり、今このようにして先生の母校をお預かりしていることなど想像も出来なかった。「人生」である。
・ あれほど「学校が大好き、生徒が可愛い、教職員を大切に」と心底言っておられた偉大なカリスマ巨人、椋本先生は遂に「初芝」のことは何も語らず、早すぎる死を受け入れ「是非に及ばず」と旅たたれたのであろうか。もって瞑目、合掌。