2008年6月28日土曜日

6月28日(土)大久保利通

・ 文部科学省国立教育研修所が全国の「小学6年生の社会科の学力調査結果」を27日に発表した。各紙が報じている。興味あるのは学習指導要領で例示した「歴史上の人物42人について名前と業績が一致するかどうか」の調査結果だ。
・ 読売などは「大久保利通、76%わからず」が見出しである。木戸孝允、大隈重信も30%未満、大久保と並ぶ西郷隆盛は50%、伊藤博文40%と幕末から明治にかけて活躍した人物は軒並み「知られていない」と言う結果だ。何故か福沢諭吉だけは群を抜いて89%だから、福沢先生はさぞかし草葉の陰で喜んでいるだろう。
・ 「今日の日本の官僚制度の形」を明治時代に創設した大久保利通はこの結果をどのように思っているのか興味あるところだ。「残念」などと思っていないかもしれない。「分からぬ人間にはそれでもよか」と言っているかも知れない。
・ 明治維新の立役者は多くいると思うが前半戦は坂本竜馬と西郷隆盛、後半の舞台は間違いなく大久保利通と伊藤博文だ。中でも私はこの「大久保利通と言う人物を好む」。
・ 今NHKの「篤姫」に頻繁に出てくるあの「大久保正助」だ。明治3傑の一人と言われ、徴兵制度や富国強兵制度等を矢継ぎ早に定めていき、内務官僚の元祖中の元祖だ。おしゃれで頭には「ポマード」を付け、故郷である「指宿産の煙草」を愛し、かなりのヘビースモーカーだったという。指宿はこの前中学校の修学旅行で行ったところだ。
・ 竹馬の友、「西郷隆盛」を死に追いやり、西郷没の翌年「紀尾井坂の変」として知られるように6人の維新浪人の手にかかって「暗殺」された人物だ。大西郷の人気は高いが鹿児島県では西郷を責め、薩摩を攻めたとすこぶる人気は悪く、墓は故郷にはなく東京だという。しかし「利権」とは全く関係なく、死後膨大な借金があることに驚いた明治政府は遺族のために特段の配慮をしたとあるから「清廉潔白、本物の政治家」だったと思う。
・ 「堅忍不抜」の言葉を好んだという。私にとっても自戒の言葉だ。「どんな苦労や困難にも耐え忍び、心を変節せず意思を貫き通す」という意味だと思うが、維新後の政治の構築に命をかけて突き進み、凶刃に倒れた大久保らしさを表現する格好の四字熟語だと思う。
・ それにしてもNHKテレビの「篤姫」は面白い。ドラマを見るのは大体NHKの大河ドラマだけなのだが、これには理由があって夜8時からというのが私には丁度良い。9時からの2時間ドラマは「体が持たない」、大体寝てしまう。
・ 先週6月23日のものは特に「見ごたえ」があった。あの大久保正助を演じているのは「原田泰造というお笑い芸人」と言うが「素晴らしい演技」だ。親友西郷が江戸で活躍し、自分は時代の変革期に活躍する場所がなく「悶々」としていたところに吉之助は盟友のために声をかける。
・ 父母は喜ぶ正助のために新しい着物を用意して送り出すのだが、訪問した熊本藩の重職の家で、挨拶の後、大事な場面で「席を外すよう」いわれた時のあの演技だ。それでも、気持ちを抑え屈辱に耐え、家に帰った大久保はこぶしを口にくわえ目を見開き、ある決意を母に搾り出す。「おいは今日から鬼になりもうす」。
・ その母の言葉が又良い。真野響子演ずる母は、(薩摩言葉は間違っているかも知れないが)、「ほいなら、私も鬼の母になりもんそ」。良い場面だったな。世の母はああでなくてはならない。
・ 大体、西郷がけしからん。「こいはおいの友で、同席ば許してやってもんせ」と言うのが真の友だ。友人として声をかけ、連れてきたまでは大出来だが、最後の最後で友を悲しませた。あのシーンでは西郷は一瞬勝ち誇ったような顔をしていた。あの俳優も悪くはない。
・ 原田泰三、大体あの役者の顔は現存している「大久保利通の写真と瓜二つ」だ。だからキャスティングされたのかも知れないが、これから大久保正助は変わっていくのだろう。テレビはそれを暗示していた。
・ 島津斉彬に重用された西郷はその後失脚し、後の藩主島津久光に謹慎を命じられる。今度は「大久保が重用され始める」のだ。話しによれば「囲碁」を通じて久光に近づいたというがそのようなことでは世には出れまい。ドラマは幕末に向けてますます佳境に入っていくことになる。「絶対、このテレビは見過ごすまい」。
・ それにしても喜劇俳優やお笑い芸人は良い演技をする。何時も感じてしまう。何故だろうと考えてしまう。その答えがまだみつからないが、「下積み時代の苦労」が「人間の幅を拡げている」のではないか。私はそのように思ってしまうのだ。「苦労した人間が、そして我慢した人間が、加えて志を持った人間」が「何時かはチャンスをものにする」ものだ。
・ 秋葉原の連続殺人事件の犯人は両親も揃い、県内トップの進学校を卒業し、短大まで出て一応派遣会社とは言え職はあり、食べていけるだけの環境はあったわけで、能力は十分にこの世の中を生きていける環境にはあった筈だ。「彼女いない、これだけで人間失格」などとうそぶいて、自分の弱点弱みをさらけ出し、社会に憤懣をぶつけて何が解決するのかと言いたい。
・ 社会的弱者を訴え、遂には「切れて」考えられないような行動に走る人間が多くなった。大久保利通ではないが「堅忍不抜」だろうと言いたい。余りにも「我慢する」「耐える」ことに今日の一部の人々は気持ちがいっていない。学校の生徒にも若い教員にも最近は特にそのような面がある。
・ 何かあった時に「我慢が出来ない」のだ。1分、1日我慢すれば憤懣や嫉妬、反撃、の気持ちなど揮発蒸発低落すると思うのだが、それを我慢出来なくて強制的に「すぐに発散させる」ような気がする。今私は「心身を強くする」ために何をどのようにするのか深く考えをめぐらせている。
・ 間違いなく「スポーツをやる生徒」は相対的に「我慢、耐えることを訓練」で日常生活のなかで身につけている。例えば本校の野球部で言えば120名を超える部員数だが、もうすぐ夏の甲子園予選が始まるがベンチにはいれるのは15名程度だ。それでも多くの部員は声を出して団体の中で声を出して練習に励んでいる。
・ あの中には遂にレギュラーになれず、ベンチに入れず、悔しい思いをしている大久保正助みたいなこぶしを口にくわえ「耐えて」いるのもいるだろうと思えば、私は生徒がいとおしくなってくるのだ。真の意味の教育と人間の成長とは「耐える、我慢する、努力する、志を持つ」、こういうことかと最近つくづくと感じる。明日のテレビが楽しみだ。