・ 昨日午後は「ボーイスカウト阪南地区総会」があり、初めてこのような外部の会合に出席した。一つには「まあご関係の皆様が来られるからご挨拶しておかねば」という当然の公務とは別に「個人的な心情」もあったからである。
・ それは総会の行われた会場とそのオーナーにある。例年同じ場所らしいのだが総会の会場は北加賀屋にある「グルメ杵屋本社」で、実のところこの本社ビルには過去2回来たことがあったのである。訪ねたお人は故椋本彦之氏であった。
・ 今から8年前になるが私は府立高校に大阪府初の民間人校長として赴任した。4月に着任して既に5月6月には組合教員ともめ始め、新聞にも「民間人校長、教員と対立」とかセンセーショナルに取り上げられるなど日本全国に発信されるほどの事態となった。
・ 理由は土曜日に外部の民間教育機関とタイアップして土曜講座を始めたことが公立教員の気に入らなかったことが要因であったが、これは府教委の支援を得て結果としてNHKや民放テレビにも取り上げられ、軌道に乗りその他の改革を推し進め、進学実績も急上昇した。「ゆとり教育」問題の走りの時期であった。
・ 今ではこのようなことは「当たり前」になってきており「時代の移り変わり」を痛感するが、この騒ぎの真っ最中に椋本さんはお電話を下さり「負けるなよー。頑張れ!」と激励して頂いたことがあった。その後も「著作」を送って頂いたりしてご厚誼を頂いたのである。
・ 時には市内中心部の高級レストランに招待され夕食をご馳走になったりした。当時椋本さんは本校と近い「H学園」の理事長の職に懇願され就任されていた。前経営者の失敗からほぼ倒産状態の学校法人の財務内容の改善に精力的に取り組んでおられた時だった。
・ お会いするたびに「教員社会の不条理と甘えの構造」に静かな語り口であったが「憤慨の言葉」を述べておられた。そういう状況から教員と戦っていた(自分ではそういう意識はないが)私に対して「親近感」みたいなものを感じて頂いていたのだろう。
・ 「立志伝中の人物」で大阪経済界でも活躍されていた注目される経営者が人生の晩年近くになって「学校の理事長」という職位に「大きな誇りと責任感」を有しておられたのだろう。それが同じ民間企業出身の私への「シンパシー」に繋がったのではないかと思う。
・ その後もご厚誼は頂き、私が府立高校の校長を辞職した時には「H学園の専務理事で来ないか」とまで温かいお誘いの言葉をかけて頂いた。私は「どうしてももう一回校長職をやりたい」と言って結局この話しは実を結ばなかったのである。
・ ところが「縁と言うものは奇なり」で私が現在の浪速高校に勤めるとなったことである。「何を隠そう」、椋本氏は「浪速中学のご出身」で、私も椋本さんも「縁の不思議さ」を感じられたのではないだろうか。私はこの本社ビルにご挨拶に来たのである。
・ 訪問した日、椋本さんは「俺の母校を頼むよ」と言って北加賀屋の本社から愛用の「ブルーのセンチュリー」を自ら運転して学校まで車で送って頂いたことを今でも私は忘れることは出来ない。
・ とにかく「経営者魂」に満ち溢れたお方でこの道すがらでも「今度なー、頼まれてなー、私鉄の経営再建をやるねん」と当時破産した水間鉄道の話しばかり私にされていた。
・ とにかく「仕事、仕事、仕事」のお話ばかりであったが事、学校経営に関しては「先生方のお気持ちを一つにしなければなー」と私なのかご自身に向かってなのか、恐らく両方であったと思うが「つぶやいておられたのも忘れられない」。
・ その後ほどなくしてH学園の経理処理の問題が教育界を揺るがす大問題となり結局椋本さんはH学園を退任された。それから1年前後だったと思うが病を得られてお亡くなりになったのである。
・ 大変立派な大きなご葬儀であった。ご子息が最後のご挨拶で口を詰まらせながら「父は無念の死であった」と言われた時には私も思わず熱いものがこみ上げてきた。あれほどH学園を愛し教職員のことを思っておられたのにも関らず「何と言うことか」と思ったのである。葬儀には誰一人教職員は参列を許されなかったと後で聞いた。
・ 椋本さんは「大阪府のボーイスカウト活動でも功績者」で企業の社会貢献を超えて支援をされてきたお方である。中々普通は出来ないことである。従って阪南地区の総会の会場などは使わせて頂いているのである。それ以外に「友情の家」とか「グルメ杵屋社会貢献の家」とかある。
・ このような故椋本氏と個人的な関係がある中でまたまたボーイスカウト活動に私が関与するなど今まで考えたことなどなかった。「まさかこの私がボーイスカウトのベレー帽をかぶってユニフォームを着る」などは想像さえしなかったが現実にそのようになっているのである。
・ 私は何か「椋本さんに呼ばれている」感じがしてならないのである。私は椋本さんほど大きな力を有していないが今度開始した「学校ボーイスカウト活動の実験的試み」に力を入れてみようと思っているのである。「ボーイスカウトはクラブ活動」として捉えている。
・ 少子化の中で如何に「スカウト活動を活性化させるか」が大きなテーマであるが、昨日の総会でも私は申し上げたのである。少子化でも「学校には多くの生徒が居る」ということである。地域から学校に拠点を移しその活動を地域に戻していくと言う「逆転の発想」が私の捉え方である。
・ 「 国や郷土を愛し、そのためには公共心と奉仕の精神を醸成させ得る生徒の育成」を図る。同時に国際的なコミュニケーションを忘れてはならない。そのように考えたら「ボーイスカウト活動の精神」に行き着いたのである。
・ 私はスカウトは「水先案内人」で良いと思う。学校全ての生徒がスカウトにならなくても良い。彼らが先頭に立てば良いと思っているのである。従来の概念とは少し違った「スクールスカウトの立ち上げ」が私の狙いなのである。
・ まず本校の165団の発足を祝うためと学校を知って頂くために「学校説明会」を行う積りである。大阪の関係者の多くの方々にお越しいただいて距離を縮めておきたい。この7月には東京の連盟本部からの依頼で「マカオから50人のスカウトの来日計画」があり、学校訪問として本校に受け入れの依頼があった。
・ 私は全面的に協力する旨お伝えし、場合によっては「多聞尚学館」を宿泊場所として提供することも考えている。とにかくこのような活動は「走りながら考え、考えをまとめて行けば良い」のであって最初からゴチゴチに規定する必要はない。
・ しかしそれにしても、まさかこの私がボーイスカウトのベレー帽を被って「カーキ色」のスカウト服を着るとは思わなかった。自分で言うのもおかしいが「似合うとは思えない」のである。鏡を見て笑ってしまった。でも仕方がない。
・ それは総会の行われた会場とそのオーナーにある。例年同じ場所らしいのだが総会の会場は北加賀屋にある「グルメ杵屋本社」で、実のところこの本社ビルには過去2回来たことがあったのである。訪ねたお人は故椋本彦之氏であった。
・ 今から8年前になるが私は府立高校に大阪府初の民間人校長として赴任した。4月に着任して既に5月6月には組合教員ともめ始め、新聞にも「民間人校長、教員と対立」とかセンセーショナルに取り上げられるなど日本全国に発信されるほどの事態となった。
・ 理由は土曜日に外部の民間教育機関とタイアップして土曜講座を始めたことが公立教員の気に入らなかったことが要因であったが、これは府教委の支援を得て結果としてNHKや民放テレビにも取り上げられ、軌道に乗りその他の改革を推し進め、進学実績も急上昇した。「ゆとり教育」問題の走りの時期であった。
・ 今ではこのようなことは「当たり前」になってきており「時代の移り変わり」を痛感するが、この騒ぎの真っ最中に椋本さんはお電話を下さり「負けるなよー。頑張れ!」と激励して頂いたことがあった。その後も「著作」を送って頂いたりしてご厚誼を頂いたのである。
・ 時には市内中心部の高級レストランに招待され夕食をご馳走になったりした。当時椋本さんは本校と近い「H学園」の理事長の職に懇願され就任されていた。前経営者の失敗からほぼ倒産状態の学校法人の財務内容の改善に精力的に取り組んでおられた時だった。
・ お会いするたびに「教員社会の不条理と甘えの構造」に静かな語り口であったが「憤慨の言葉」を述べておられた。そういう状況から教員と戦っていた(自分ではそういう意識はないが)私に対して「親近感」みたいなものを感じて頂いていたのだろう。
・ 「立志伝中の人物」で大阪経済界でも活躍されていた注目される経営者が人生の晩年近くになって「学校の理事長」という職位に「大きな誇りと責任感」を有しておられたのだろう。それが同じ民間企業出身の私への「シンパシー」に繋がったのではないかと思う。
・ その後もご厚誼は頂き、私が府立高校の校長を辞職した時には「H学園の専務理事で来ないか」とまで温かいお誘いの言葉をかけて頂いた。私は「どうしてももう一回校長職をやりたい」と言って結局この話しは実を結ばなかったのである。
・ ところが「縁と言うものは奇なり」で私が現在の浪速高校に勤めるとなったことである。「何を隠そう」、椋本氏は「浪速中学のご出身」で、私も椋本さんも「縁の不思議さ」を感じられたのではないだろうか。私はこの本社ビルにご挨拶に来たのである。
・ 訪問した日、椋本さんは「俺の母校を頼むよ」と言って北加賀屋の本社から愛用の「ブルーのセンチュリー」を自ら運転して学校まで車で送って頂いたことを今でも私は忘れることは出来ない。
・ とにかく「経営者魂」に満ち溢れたお方でこの道すがらでも「今度なー、頼まれてなー、私鉄の経営再建をやるねん」と当時破産した水間鉄道の話しばかり私にされていた。
・ とにかく「仕事、仕事、仕事」のお話ばかりであったが事、学校経営に関しては「先生方のお気持ちを一つにしなければなー」と私なのかご自身に向かってなのか、恐らく両方であったと思うが「つぶやいておられたのも忘れられない」。
・ その後ほどなくしてH学園の経理処理の問題が教育界を揺るがす大問題となり結局椋本さんはH学園を退任された。それから1年前後だったと思うが病を得られてお亡くなりになったのである。
・ 大変立派な大きなご葬儀であった。ご子息が最後のご挨拶で口を詰まらせながら「父は無念の死であった」と言われた時には私も思わず熱いものがこみ上げてきた。あれほどH学園を愛し教職員のことを思っておられたのにも関らず「何と言うことか」と思ったのである。葬儀には誰一人教職員は参列を許されなかったと後で聞いた。
・ 椋本さんは「大阪府のボーイスカウト活動でも功績者」で企業の社会貢献を超えて支援をされてきたお方である。中々普通は出来ないことである。従って阪南地区の総会の会場などは使わせて頂いているのである。それ以外に「友情の家」とか「グルメ杵屋社会貢献の家」とかある。
・ このような故椋本氏と個人的な関係がある中でまたまたボーイスカウト活動に私が関与するなど今まで考えたことなどなかった。「まさかこの私がボーイスカウトのベレー帽をかぶってユニフォームを着る」などは想像さえしなかったが現実にそのようになっているのである。
・ 私は何か「椋本さんに呼ばれている」感じがしてならないのである。私は椋本さんほど大きな力を有していないが今度開始した「学校ボーイスカウト活動の実験的試み」に力を入れてみようと思っているのである。「ボーイスカウトはクラブ活動」として捉えている。
・ 少子化の中で如何に「スカウト活動を活性化させるか」が大きなテーマであるが、昨日の総会でも私は申し上げたのである。少子化でも「学校には多くの生徒が居る」ということである。地域から学校に拠点を移しその活動を地域に戻していくと言う「逆転の発想」が私の捉え方である。
・ 「 国や郷土を愛し、そのためには公共心と奉仕の精神を醸成させ得る生徒の育成」を図る。同時に国際的なコミュニケーションを忘れてはならない。そのように考えたら「ボーイスカウト活動の精神」に行き着いたのである。
・ 私はスカウトは「水先案内人」で良いと思う。学校全ての生徒がスカウトにならなくても良い。彼らが先頭に立てば良いと思っているのである。従来の概念とは少し違った「スクールスカウトの立ち上げ」が私の狙いなのである。
・ まず本校の165団の発足を祝うためと学校を知って頂くために「学校説明会」を行う積りである。大阪の関係者の多くの方々にお越しいただいて距離を縮めておきたい。この7月には東京の連盟本部からの依頼で「マカオから50人のスカウトの来日計画」があり、学校訪問として本校に受け入れの依頼があった。
・ 私は全面的に協力する旨お伝えし、場合によっては「多聞尚学館」を宿泊場所として提供することも考えている。とにかくこのような活動は「走りながら考え、考えをまとめて行けば良い」のであって最初からゴチゴチに規定する必要はない。
・ しかしそれにしても、まさかこの私がボーイスカウトのベレー帽を被って「カーキ色」のスカウト服を着るとは思わなかった。自分で言うのもおかしいが「似合うとは思えない」のである。鏡を見て笑ってしまった。でも仕方がない。