2010年4月26日月曜日

4月26日(月)壮士一度去って復還らず
















・ 「風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去って復(また)還らず」。こう詠って「刺客荊軻」は始皇帝の暗殺を狙い旅立つ。「史記」の中でも最も美しい場面の一つで私は「この文句」が大好きである。昔、公立高校の校長時代に訳のわからない教員との戦いに職員会議に出かける時に口ずさんだものである。
・ 遂に私の「盟友」が学校を去る。「同志」と言っても良いが、私は「壮士」という言葉を送りたいのである。勿論この先生は刺客ではない。この3年間共に「学校改革」を推し進めてきた筆頭副校長のS先生がご退職される。
・ 本日の管理職朝会で報じ、午後からの校務運営委員会で初めて公開した。並み居る運営委員会のメンバーは一様に驚いていた。それくらいこの極秘情報は伏せていたのである。連休明けの6日に職員会議があるから正式にはそこで述べるが、夕方には校務運営委員会のメンバーから「瞬く間」に全員に知れ渡っていた。
・ 実はこのことは今から半年前には決まっていたことであった。元々はこの3月末で引退したいという強いご要望であったが私の方から強くお願いして5月末と延ばさせて戴いたのである。遂にその日が近づいて来たのである。
・ 先生は昭和20年4月14日のお生まれだから満年齢は丁度65歳になられた。本校では定めによって年度中であるから元来は来年の3月まで勤務出来るのであるが、先生は「私事」があって10ヶ月を残して勇退したいと言われた。
・ 私としては当然、今年一杯は勿論、場合によっては定年後も延長して勤務して頂こうと思っていただけに当初は驚き、慰留に努めたのである。最後は道明寺天満宮の宮司で本校の理事長職務代理にもお出まし戴いて説得したのであるがご意思は固く叶わなかったのである。
・ そのようなわけで二人の妥協点は今年の5月末とすることで落ち着いたのである。5月末というのは先生が満65歳になっているということ、この3年間私と先生が主体となって進めてきた「教員の人材育成評価システム」の処遇反映の作業が完了するということを考えた結果である。
・ 先生が主担当として進めて来てくれたこの制度の「締め」を先生の手でやって欲しかったのである。そして「見事にやり遂げて頂いた。今は「心から感謝」すると同時に「ご苦労様でした」と申し上げたいのである。

・ S先生は府内の超名門校である三国ヶ丘高等学校を卒業され、難関の同志社大学工学部工業化学科に入られた。大学院はこれまた名門京都工芸繊維大学大学院に進まれた。昭和46年に民間企業にご就職されたが昭和50年に本校に奉職され翌年正職員として「教師の道」を歩まれたのである。
・ 「職歴は輝かしい」もので教務部育ちであるがとにかく学年主任を5年、教務主任を6年、入試事務室長を5年、理数科主任を4年と「本校の主要なポスト」をすべて歴任されている。これがこの「先生の質の高さを物語」るのである。これだけで先生の全てが分かる。
・ 言って見れば高校から大学、そして私立高校の教師として「超エリートコース」を歩まれ、期待にそぐわない仕事をして来られたのである。そして平成19年度に私の求めに応じて「副校長兼高校教頭兼学校法人評議員」に就任された。平成21年度は開館なった「多聞尚学館の初代館長」として今日の隆盛の礎を築かれたのである。

・ 平成18年12月23日私は学校法人大阪国学院理事会で理事長に推挙され就任した。同時に明年4月からは学校長兼務も決まったのである。従って約4ヶ月弱は理事長のみの職権であり、既にいた校長との両輪であったのである。
・ 理事長職務代理は当時の校長から「薦した高校教頭を早く正式決定して欲しい」とせかされていたらしく、お会いするたびに「どうしますか」と聞かれたものだった。4月からは私が校長になるわけで「右腕は私が選ぶ」「急ぐことはない」と一向に進めなかった。
・ 年が明けて1月9日に学校に初めて着任し、翌日から私は全教職員と面談を開始した。この面談を通じ「自分の目で教頭候補としての人材を確認する」としたのである。当時本校には校長と副校長が一人、高校教頭、中学教頭と管理職が4名いたが、まず私は校長に「特別顧問の職位」を提供した。
・ 当時の高校教頭は既に前年からその年限りで勇退することは決まっていたのと中学教頭は3年間が過ぎてどうしても平教員に戻って英語が教えたいと申し出てきた。あまつさえ当時の副校長は恐らく「このままいることを潔しとしなかったのだろう」と思うが、立派な態度で勇退辞職を決意された。
・ 即ち新年度の管理職体制は新しく校長に就任する私だけ決まっており留任する管理職が一人もいないという状態であった。翌日からでも「学校改革を押し進める」積りであったから管理職を早急にセレクトしなければならなかったのである。
・ この時の面談を通じ、私はこのS先生を知り、面談が全て終わった段階で「この人でなければ」と思い、先生に「副校長兼高校教頭」を打診したのである。当然先生は「固辞」されたが私は諦めずに「口説いた」のである。その時に先生が言われた言葉が今でも耳に残っている。
・ 「理事長がそこまで言われるなら分かりました。お受けします」と言って貰ったのである。この時の感じが前述した「壮士の風情」だったのである。そして我々二入で中学教頭、他の人事を進めたのである。
・ 管理職が決まらねば「自分ひとり」でもやる覚悟をしていただけに先生から受けて頂いた時は「嬉しかった」。私と言えども「浪速改革の先行き」を考えたら「一人で立ち向かう心細さ」を持っていたのだと思う。
・ そしてばたばたと人事を固めて平成19年2月1日に校内で4月以降の管理職人事を発表した。ギリギリのタイミングであったと思う。その後は分掌長の当て嵌めなどは先生にすべてお任せした。見事な人員配置だったと思う。この体制で3年間が過ぎたのである。
・ あれ以来まさしく丸々3年、「私は先生と共に戦ってきた」のである。目に見えぬ「学校改革」という対象に対して二人で戦ってきたのである。そして「今日の浪速の隆盛がある」のである。

・ 先生は由緒ある家系のご出身で、堺市の住人である。人格高潔にしてそれでいて「骨太」のところがある。「壮士たる由縁」である。温厚であり、激しい感情を表には出さない。そして「礼節」というものをわきまえておられる。
・ 従って先生を慕う教員は多く、だからこそ私と教員の間で「クッション」になって戴いたと思っている。先生がもしいなかったら浪速改革は成し遂げられなかったということは全くない。
・ 先生が副校長でいようが居まいが私はやっと思う。しかし「出来上がり」は今ほど「スマート」に「無血革命」とはならなかったかも知れない。「血みどろの戦いを覚悟」していただけにこの3年間の教職員の理解と協力についてはS先生の存在の大きさもあったことは間違いない。
・ これらはすべて「先生の力量とお人柄」が私を応援してくれたものである。そして先生は「自分が育成した後輩の人材を残してくれた」。これは極めて重要なことで前の校長が一人も人材を残していなかったことを考えれば特筆ものである。
・ 4月から管理職に登用した高校教頭や教務部長、生徒生活指導部長、理数科教諭や女性のコース長などすべて副校長が指導し目をかけて育てた人材である。多くの先生はS副校長のことを「教え子」だと思っているのではないか。
・ 又先生は「人事担当」としてこの3年間延べ40人を超える常勤講師を採用し、その先生方からどんどん専任教諭が誕生している。これも素晴しい業績の一つである。「イヤー、今まで35年間、色々なことがありました」「浪速のおかげで人生を飾ることが出来ました」とさわやかに言われる。
・ 「特にこの3年間は全てが驚きでした」。「勉強しました」とこの年になっても「知らないこと、出来ないことを謙虚に振り返る人間としての品格の高さを示し、香気を感じさせる」のである。
・ 私は先生に心から御礼を申し上げたい。そして先生の第二の人生が「幸多い」ものを祈念申し上げる。名実共に新生浪速は「創業期」を終えて先生のいない「発展期」を迎えることとなった。残ったメンバーで又頑張っていく。
・ 人材は育ってきている。心配はない。S先生という壮士は「引き際」も綺麗だ。こうありたいと思う。このようにして人は入れ替わっていく。「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」である。何時かは私もまた去っていくことになる。S先生、35年間の浪速へのご奉職とこの3年間の私への忠誠と誠心誠意のご理解とご協力、有難うございました。ご自愛されて豊かに第二の人生を歩んでください。