・ ある書物で読んだのだが近頃高等学校や大学卒業時に「同窓会への入会希望」を取るようなケースがあると言う。私が卒業した頃は「卒業したら同窓会への入会は当然」でったし、今でも殆どの学校はそうではないか。「本校でも全員入会」としている。卒業時に生徒からの「預かり金」の中から「入会金」を学校が同窓会会計に振り込んでいるのである。
・ 調べてみるとこの傾向は大学でも現れてきているみたいで、ある大学では卒業時に「校友会終身会費」を納めて貰う制度を作ったら「異論」が出てきたと言う。つまり「校友会任意入会論」である。入っても入らなくとも良いと言うのだ。これでは「同窓会の求心力」は早晩なくなるだろう。
・ この書物の著者は色々と書いてはいるが、私の考えは、一言で言えば「高校なり、大学への帰属意識の低下」ではないかと私は思っている。「たまたま入学して、卒業しただけのことで特段のことはないという意識」が「今日的」だとしたら「学校を預かっている身」からすれば考え込まざるをえない。
・ 分かり易くいえば言えば「母校意識の衰退」とでも言えば納得出来るのかもしれないが事はそれほど簡単な話ではない。そこには多くの要因が絡んでいるのだと思う。私流に言えば「学校そのものの実力の過去からの積分面積が同窓会の集積したパワー」であると考えている。
・ 「歴代の学校の当事者が歴代の在校生に与えてきたすべてのもの」が卒業後に跳ね返ってくるという誠に厳しい現実がそこにはある。それは単に在籍中のことに限らず、たとえ自分が卒業した後でも母校の動静は霧のように降りかかってくると言う「学校と卒業生間の関係論」として独特のものがそこには存在する。
・ 例えば母校が野球で「甲子園に出れば」一挙に「寄付金が集まる」などはその典型的な例だし、その場合、「浪速は俺の母校なんだよ。甲子園に出るので寄付を要求されたよ」なんて、まんざらでもなくしゃべったりするものだ。勿論「逆のケース」もある。母校のことなど「口にも出したくない」と思っている卒業生もいるだろう。
・ しかし現実は厳しい。同窓会運営に視点を向けて観察していると問題は「会計的運営の難しさ」であり、全員が強制入会させられても「その後の会費の納入」がまったく順調ではない場合は年度の会計にも困るような事態の出現があるみたいだ。
・ 一体「同窓会とは何者?」という根本的な論考に立ち返ってみないと現状は見えてこないと私は考えている。とにかく「同窓会とはややこしい存在」だと言い切れば「心は楽」であるが、一概に言えないところが難しいのである。
・ 現在学校を経営・運営している者からすれば簡単な話で「学校と同窓会とはまったく何の関係も無い」と言い切ることが出来る。「金銭的支援をしてくれるなら有難い存在」であるが、そうでなければ「何の意味もない存在」と言い切っては実も蓋もないか。
・ 同窓会の拠って立つ根源は「母校への懐かしさ」「一体感」であろう。そして「その絆は何から生まれるか」であるが、それは「感動の共有」かも知れない。よくよく見ていると「同窓会総会」よりは「○○期生の同窓会」とか「XX運動部の同窓会」のほうがより活性化している。これなど一体感そのものである。「何々学校卒業ではなくて何々学校XX運動部卒業」と言ったところだろう。
・ 書きにくいがある本校の40歳代の卒業生に聞いたことがあるが「母校への感謝の気持ちなどまったくない」「それよりも余り良い思い出はない」という衝撃的な話にはショックを受けたものだった。
・ 恐らく卒業後の必ずしも順風ではなかった自分の人生を25年前にタイムスリップさせてみた時に「愛憎相半ば」する気持ちなのだろうと思うが私はこの話は大変正直で良いと思ったものだった。
・ 大体同窓会運営に当たっている「世代は現役を引退した人」が多くて、「社会との関わりの最後に同窓会がある」という類で、子育て中なり、厳しい社会で出世競争に血と汗を流し、リストラの不安におびえている世代が「同窓会活動」でもあるまいことは容易にわかる話だ。
・ それでも「大体3000円程度の年会費は払おう」と思ってくれるならそのOBは有難い存在であるが「問題はその数であり、」それが少ないと運営に破綻を帰すのは当たり前の話である。「年会費を払ってくれる卒業生が何名いるかが同総会の現時点での実力」である。
・ 力がないと同窓会は「母校へのパラサイト」と言われかねない。学校は公的資金が入っており、全く民間の私的な同窓会へ1円たりとも金銭支出をすることは許されない。せいぜい「総会に校内の施設を貸与するくらいが関の山」なのである。中にはこの理屈さえ分からないような人間がいたりするとそれは大きなトラブルのもとになる。
・ 結局同窓会も積み重ねであり、長い間「同窓会が何をしてきたか」が問われてくるのであろう。それが「求心力」につながっている。毎年毎年同窓会総会に来るのは現役を引退した人たちばかりで、同じ顔ぶれ、若い世代が一向に関心を払わない根本的な部分にメスを入れないと冒頭の「同窓会復権」は有り得ないと私は思っている。
・ 良く引き合いに出されるのが府立高校のいわゆるトップ校といわれる名門校である。例えば橋下知事の母校である府立北野高校であるがこれは旧制大阪府立一中であり、「同窓会の求心力の強さ」はつとに良く知られている。
・ 私も数回訪問したことがあるがあの学校の「同窓会館」は大変立派な建物であるし、財政も大変「潤沢」で、嘘か誠か知らないが卒業生には毎月「振込用紙」が送られてくるという。あの大阪城公園の梅林の木はあそこの同窓会が寄贈したものだ。森繁久弥以来「母校を誇り」にしている卒業生が多いと言うことだろう。
・ 私の前任校であった府立高津高校も伝統名門校で私が着任した年に「3年生の教室にクーラー」をつけて欲しいと当時の同窓会長であった近鉄百貨店の田中社長に頼みに行ったら「二つ返事」でオーケーを頂いたことがある。
・ その後同窓会長は阪大の宮原総長に代わり、私は総長室に行って「90周年には1億円近い金が必要」と要望したら「分かった」といって確か実現したように聞いている。「同窓会の力」とはこういうものだろう。
・ 本校も大阪私学の御三家の一つといわれ大正12年以来3万人を軽く超える卒業生を輩出し、著名人も多く出している名門私学である。府立のナンバースクールに負ける訳がない。
・ 調べてみるとこの傾向は大学でも現れてきているみたいで、ある大学では卒業時に「校友会終身会費」を納めて貰う制度を作ったら「異論」が出てきたと言う。つまり「校友会任意入会論」である。入っても入らなくとも良いと言うのだ。これでは「同窓会の求心力」は早晩なくなるだろう。
・ この書物の著者は色々と書いてはいるが、私の考えは、一言で言えば「高校なり、大学への帰属意識の低下」ではないかと私は思っている。「たまたま入学して、卒業しただけのことで特段のことはないという意識」が「今日的」だとしたら「学校を預かっている身」からすれば考え込まざるをえない。
・ 分かり易くいえば言えば「母校意識の衰退」とでも言えば納得出来るのかもしれないが事はそれほど簡単な話ではない。そこには多くの要因が絡んでいるのだと思う。私流に言えば「学校そのものの実力の過去からの積分面積が同窓会の集積したパワー」であると考えている。
・ 「歴代の学校の当事者が歴代の在校生に与えてきたすべてのもの」が卒業後に跳ね返ってくるという誠に厳しい現実がそこにはある。それは単に在籍中のことに限らず、たとえ自分が卒業した後でも母校の動静は霧のように降りかかってくると言う「学校と卒業生間の関係論」として独特のものがそこには存在する。
・ 例えば母校が野球で「甲子園に出れば」一挙に「寄付金が集まる」などはその典型的な例だし、その場合、「浪速は俺の母校なんだよ。甲子園に出るので寄付を要求されたよ」なんて、まんざらでもなくしゃべったりするものだ。勿論「逆のケース」もある。母校のことなど「口にも出したくない」と思っている卒業生もいるだろう。
・ しかし現実は厳しい。同窓会運営に視点を向けて観察していると問題は「会計的運営の難しさ」であり、全員が強制入会させられても「その後の会費の納入」がまったく順調ではない場合は年度の会計にも困るような事態の出現があるみたいだ。
・ 一体「同窓会とは何者?」という根本的な論考に立ち返ってみないと現状は見えてこないと私は考えている。とにかく「同窓会とはややこしい存在」だと言い切れば「心は楽」であるが、一概に言えないところが難しいのである。
・ 現在学校を経営・運営している者からすれば簡単な話で「学校と同窓会とはまったく何の関係も無い」と言い切ることが出来る。「金銭的支援をしてくれるなら有難い存在」であるが、そうでなければ「何の意味もない存在」と言い切っては実も蓋もないか。
・ 同窓会の拠って立つ根源は「母校への懐かしさ」「一体感」であろう。そして「その絆は何から生まれるか」であるが、それは「感動の共有」かも知れない。よくよく見ていると「同窓会総会」よりは「○○期生の同窓会」とか「XX運動部の同窓会」のほうがより活性化している。これなど一体感そのものである。「何々学校卒業ではなくて何々学校XX運動部卒業」と言ったところだろう。
・ 書きにくいがある本校の40歳代の卒業生に聞いたことがあるが「母校への感謝の気持ちなどまったくない」「それよりも余り良い思い出はない」という衝撃的な話にはショックを受けたものだった。
・ 恐らく卒業後の必ずしも順風ではなかった自分の人生を25年前にタイムスリップさせてみた時に「愛憎相半ば」する気持ちなのだろうと思うが私はこの話は大変正直で良いと思ったものだった。
・ 大体同窓会運営に当たっている「世代は現役を引退した人」が多くて、「社会との関わりの最後に同窓会がある」という類で、子育て中なり、厳しい社会で出世競争に血と汗を流し、リストラの不安におびえている世代が「同窓会活動」でもあるまいことは容易にわかる話だ。
・ それでも「大体3000円程度の年会費は払おう」と思ってくれるならそのOBは有難い存在であるが「問題はその数であり、」それが少ないと運営に破綻を帰すのは当たり前の話である。「年会費を払ってくれる卒業生が何名いるかが同総会の現時点での実力」である。
・ 力がないと同窓会は「母校へのパラサイト」と言われかねない。学校は公的資金が入っており、全く民間の私的な同窓会へ1円たりとも金銭支出をすることは許されない。せいぜい「総会に校内の施設を貸与するくらいが関の山」なのである。中にはこの理屈さえ分からないような人間がいたりするとそれは大きなトラブルのもとになる。
・ 結局同窓会も積み重ねであり、長い間「同窓会が何をしてきたか」が問われてくるのであろう。それが「求心力」につながっている。毎年毎年同窓会総会に来るのは現役を引退した人たちばかりで、同じ顔ぶれ、若い世代が一向に関心を払わない根本的な部分にメスを入れないと冒頭の「同窓会復権」は有り得ないと私は思っている。
・ 良く引き合いに出されるのが府立高校のいわゆるトップ校といわれる名門校である。例えば橋下知事の母校である府立北野高校であるがこれは旧制大阪府立一中であり、「同窓会の求心力の強さ」はつとに良く知られている。
・ 私も数回訪問したことがあるがあの学校の「同窓会館」は大変立派な建物であるし、財政も大変「潤沢」で、嘘か誠か知らないが卒業生には毎月「振込用紙」が送られてくるという。あの大阪城公園の梅林の木はあそこの同窓会が寄贈したものだ。森繁久弥以来「母校を誇り」にしている卒業生が多いと言うことだろう。
・ 私の前任校であった府立高津高校も伝統名門校で私が着任した年に「3年生の教室にクーラー」をつけて欲しいと当時の同窓会長であった近鉄百貨店の田中社長に頼みに行ったら「二つ返事」でオーケーを頂いたことがある。
・ その後同窓会長は阪大の宮原総長に代わり、私は総長室に行って「90周年には1億円近い金が必要」と要望したら「分かった」といって確か実現したように聞いている。「同窓会の力」とはこういうものだろう。
・ 本校も大阪私学の御三家の一つといわれ大正12年以来3万人を軽く超える卒業生を輩出し、著名人も多く出している名門私学である。府立のナンバースクールに負ける訳がない。
・ 「多聞尚学館」は自力で購入した。しかし来年は「新武道館を建設」するし、「平成25年の創立90周年には新校舎建設」だ。「資金調達に同窓会のお力」も欲しい。先月に行われた同窓会総会で私は「○○円の寄付」を正式にお願いしたのである。大いに期待しているのである。