2009年7月19日日曜日

7月19日(日)その1:浪速と高津が対戦


・ 昨日のブログで今行われている全国高校野球選手権(甲子園)の大阪府大会のところで「ちょっとした話」があるので今日のブログに書こうと日記にとどめた。「ちょっとした話とは何か」ということであるが他人にとってはまったく関係ない話であるが、私にとっては本当に「ちょっとした話」なのである。ちょっと以上かも知れない。
・ 実は来週21日に「本校と大阪府立高津高校が3回戦で対」するのである。私は大阪府最初の民間人校長として「府立高津高校の校長を4年間」務めた。色々あって1年を残して59歳で高津の校長を自ら辞め、浪速に奉職した。しかし高津丸々4年と言うのは「短い期間」ではない。
・ 大体府立高校の校長は普通3年間というのが通り相場であった。今は少し長くなっているみたいだが、現実に私の後の高津の校長はすでに3人目の校長だから平均1年で代わっている計算になる。色々理由はあるのだがとにかく計算では平均1年で交替だ。
・ ところで浪速と高津の対戦は「実は想定」していたのである。「組み合わせ」が決まったときに3回戦では高津と三国丘の勝者が本校と対戦するようになっていることは本校の野球部長に告げられて私は知っていた。その部長はわざわざ「先生、高津との対戦になりますよ」と神妙な顔をして言っていた。その顔がさも「真剣な感」で有ったので私は「へー」と苦笑いをしてしまった。
・ 本校が昨日市立工芸高校と試合をする前の試合が高津、三国丘の対戦であり、最後の方を少し観戦できたのである。高津は3塁側であったがその次の本校の試合は1塁側であったからそちらで「息詰まる投手戦」を堪能した。
・ 大変良い試合だった。今朝の新聞にも大きく取り上げられていた。9回の表に高津が2点を入れて結局2対0で高津の勝ちなった瞬間「ああ、これで浪速と高津の試合になる」と思った。正直「なんとも複雑というか様々な思い」がしたものだ。
・ 私は「高津との因縁」「高津との縁(えにし)」を感じたのである。高津、三国との対戦で「どちらを応援したか」って。当たり前で「高津」である。高津はもともと野球は強くて案外知られていないのだが「甲子園出場組」である。もう何十年も前であるが大阪代表で倉敷工業と対戦して破れている。
・ 勿論三国も同じ学区という関係だし、現在の三国丘の校長も私の親しい友人である。私が高津のときに同じ5学区の八尾北高校の校長だった関係で最もよく飲んだ仲間であった。結局進学校同士の決戦は高津が少ないチャンスをものにして勝利したのである。「ピッチャーが大変良」。
・ 本校は「野球部員が120名以上もいる甲子園出場組」でそれも2回も出ている。昨年「野球特待生制度」が社会問題となったときに「本校は私学でも特待生制度をしていない野球の強い学校」として大きく取り上げられたのである。
・ 「文武両道」の学校であり、その点では特待生制度のない公立高校並みで一応野球の強豪と言われているのは生徒の努力と指導者に恵まれてきたからである。プロの選手も出している。「オリックスの大引選手は浪高から法政のキャプテン」をしてドラフトで入った選手で実家は住吉区にある由緒ある神社の息子さんである。
・ 高津、三国丘戦が終わったとき三国丘の教員が私を見つけ、「先生、高津とですね」と言ってきた。私を知っている教員は必ずそのように思うのであろう。他人から見ても「木村の高津と木村の浪速の試合」の構図は興味を引くのであろう。
・ 本校の方はもう強くてこの日の試合はもう一方的、11対0の7回コールド勝ちとなったがこの日は「エース」を投入していない。1回戦も7回8対0でコールド勝ちとしたが、私の思いは今一つ昨年に比べ「長打」が出ないのが気になる。全般に今年は投手が良いのか。
・ 観戦していた本校の保健体育部長も「先生、次は高津ですよ」とわざわざ耳打ちにきた。しかし今の高津の選手はもはや「私が入学を許可」した生徒ではない。従って保護者もお顔を知らない人ばっかりである。高津のPTAには大変お世話になったが、これも「時間経過の必然性」と言うものだろう。もう「過去の話」となった。
・ 浪速と高津とどちらを応援するか、そんな「愚問」をする人も居ないだろうが「高津を徹底的に押さえこんで勝って欲しい」。そして高津にも「良い試合」をして欲しいと念願するばかりだ。
・ 本当にこのような例はあまり何ではないかと思うが別の珍しいことではないのだろう。一人の校長の前任校と現任校が対戦するなんて大阪には多いのかも知れないが私にしては「ちょっとした話」なのである。「浪速も高津も大阪を意味する”「古名”」である。「極めて誇り高い名前」である。私はその両方の校長をもう通算7年も継続している。
・ 残念だが21日、私は本校最重要な学校行事である「伊勢修養学舎」が伊勢にて行われているので、そちらをスキップするわけにはいかない。高校1年生500人への「校長講和」と「」が待っているからだ。。
・ 球場を後にして駐車場に戻る途中で一人の若者が後ろから追いかけてきた。「木村校長先生でしょ1?私、高津野球部のキャプテンをしてたGです。今青山学院4年で住友商事の関連会社に内定を貰いました。確か先生は住友金属でしたよね・・・」と懐かしそうに話しかけて来たのだ。
・ 私は見覚えのあるその顔に高津時代の素晴らしい生徒を強烈に思い出したのである。自由な校風の中でもしっかりとした生徒ばかりだった。生徒が優秀だっただけにそれに甘えて何もしない高津の教員は当時よく知られた話で「高津改革」のために私は派遣されたのである。
・ 「血みどろの戦いの日々」であった。「あれからもう8年」となる。縁が切れてからも4年だ。それでも生徒は私のことをこのようにして覚えてくれているのだ。「そうか住商か、頑張れよ」と声を掛けて私は野球場を後にして「多聞尚学館」に向かったのである。