2009年7月7日火曜日

7月7日(火)七夕”学力の低い学生はいらない”






・ 今日は「七夕」である。どう考えてもこの字が「たなばた」と読めるわけがないが「七夕」である。私はこれを何時から「たなばた」と読むように教えられたかまったく思いつかないが「たなばた」を漢字で書けと言われたら「七夕」と書ける。
・ このように最初は「記憶」から始まる。「考える力」とか何とかいうが最初は「覚える」のだ。覚えて初めてその知識を活用できる。記憶する、覚えることから「学力の基礎」は付いていく。一挙に難しい分野には入っていけない。
・ しかしテレビの「お馬鹿キャラ」で売っている若いタレントなどは「しちゆう」とか「ななゆう」とか言う人もいるかもしれない。「ななせき」と読んだらその学生は日本漢字能力検定の勉強が行き過ぎたのかも知れない。「」を「せき」と読めるなら相当力は相当ある。一度大学生にこの漢字を書かせて調べてみたら面白いかも知れない。
・ 高校2年生のY学級が「七夕飾り」をして「学院神社」にお参りしていた。明日からの「期末試験」の成績を祈願していたのかもしれない。この先生は本当に「生徒思い」で「優しい先生」だ。少し優し過ぎるかもしれない。
・ 私は今じっと様子を見ている。Y先生は「国語の先生」である。しっかりと漢字を教えて欲しい。昨年採用した先生で直ぐに1年生の「担任」になってもらった。持ち上がりで今2年生である。クラスは大変良い雰囲気である。写真で言えば私の右側でV字サインをしている人がY先生である。

・ ところで少し前の記事になるが大阪日日新聞の「にっぽん診断」という囲み記事に関西大学宮本勝浩教授の投稿記事があった。標題は「学力低い学生はいらない」といういささか衝撃的である。しかしこういうテーマ記事はこの種の表題でなければならない。
・ こういう囲みはどの新聞にもあるのだが、誰彼投稿を依頼されるというものではない。「その道に見識ある達人」でなければならないのだが、面白いことに内容については新聞社は口を出さないが標題だけは「新聞社側が決める」ようになっている。恐らく読者を引き付けるためだと思う。
・ 「宮本先生といえば大変有名な経済学者」で、ほら、例の「阪神が優勝したら経済効果はXXX億円」とか、必ずメディアから要望されて試算される先生である。大阪府立大から関大に移られている。連携先の大学の教授として身近な存在となられた先生だけに私は「ギョッ」としてこの記事を読んだのだ。
・ 書かれている内容は「至極ご尤も」で「どうして学力の低い大学生が増えたのか?」について論考をされている。まず先生は日本の大学教育の国際比較をされている。スイスの国際経営開発研究所の世界競争力年鑑のデータを引用されて「2008年度の日本の大学の順位は55カ国中の40位で先進国では最下位」と切り出されている。
・ そして05年のメディア教育センターが「中学生レベルの学力の大学生が急増」とした報告、これは私もブログで以前書いたことがあるが、このデータを出して「国立大学で0.3%から6%に、私立大学でも6.8%から20%に増えた中学生学力規模の大学生」について言及されている。
・ 大学生の学力低下には当人の努力不足はもとより、大学、企業、社会にも責任があるが最大の責任は大学にあり私たち大学人は猛省しなければならない」と断言されて「自己批判」されている。
・ 私は宮本教授の書かれたものなど初めて読む機会であったがなんとも「歯切れ」が良い先生で一挙に気に入ってしまったのである。先生は続けて「いくつかの私大では経営を優先させ、大学の講義を受講する学力がないにもかかわらず、AO入試や推薦入試枠を拡大させ、殆ど無試験に近い状況で入学させていると憤っておられる。
・ 教室が狭いので出席しなくとも点数が低くても「単位を簡単に与えて卒業」させている大学もある。企業は学生の採用時に学力よりもクラブ活動の経験や面接の応答を重視するので学生は学業をおろそかにしがちと議論が発展する。しかしこの部分は「?」というところもあると私は思うが・・・。
・ そして先生いわく日本社会は「大学生がアルバイトするという前」で成り立っているといわれ、学生がアルバイトせずに勉強すると「外食産業や塾業界」など多くの産業は従業員が不足して経営難に陥るかもしれないと進められている。
・ 先生は多くの中国人学生を指導されてきた経験から彼らが「異口同音」に「日本の学生は勉強しない」というと紹介されている。先生が以前南京の大学で客員教授で行った時に学生が大勢で夜遅くまで教室で勉強しているのを見て「ショック」を受けたと書いておられる。
・ 「日本の大学では見られない光景」で彼らは「寮では数人が同居なので静かな教室に残って勉強」しているという。そして先生は人材育成には競争の導入と教育の質が不可欠といわれる。
・ 「レベルの低い大学や教員は競争で淘汰」されても仕方がない。「教育には多くの税金が投入」されており、大学だけに任せるのではなくて「社会や企業も厳しい目を大学に向けよ」と決言されている。
・ 大学人からこのような率直な自己批判を聞くのはついぞ久しぶりで私は嬉しくなった。はっきり行って今最も改革が遅れているというか、発信が薄いのは大学ではないのか。「大学人がこのように社会に発信することは極めて大切」であり、関西大学にはこういうことが許される土壌があるのではないか。そこが「関西大学の素晴らしいところ」である。