・ 最近街を歩いていて良く目にする光景が若者の「刺青」である。どうも増えてきた感じがする。これは一体どういうことか。「極めて複雑な気持ち」になるのだ。「入れ墨」と書いたり「彫り物」とも言ったりする。
・ 私などの「全共闘の世代」は「高倉健扮するところのやくざの一匹狼」が背中に「唐獅子牡丹の刺青」をして敵方に殴りこみをする姿に「体制に逆らう自分を投影」させた若い自分を思い出すのだが、刺青を自分がしようとは露ほども思わなかった。
・ 自分の中に「限界線」があって「ここまでは行ける」「ここから先はしてはいけない」と判断していたのだと思う。それが「判断力」というものだろう。私は刺青をしてそれを見せて歩いている若者の「心理現象」に大変興味がある。
・ 別に「教育者ぶって」言うのではないが「刺青をしてその先はどうなるの?」と聞いてみたい。別に「粋がって」歩いている様子でもないが、生半可ではなくて右腕の「手首まで」している「青と赤の混じった刺青」を半そでシャツで見せるようにして歩いている「心理」を知りたいのだ。
・ 昨日の日曜日も「御堂筋」を歩いていたら目にした。先々週はカップルの若者で連れの若い女性も特段それを気にしているようには見えなかった。そのカップルと信号待ちで並んだから少し聞いてみた。僕はこういうのを「直ぐ聞く悪い癖」がある。
・ 「綺麗だね、でも描いているんだろう?」「いや、本当の刺青です。」「へー、それなら高いだろうねー!」「ええ、60万円かかりました」と。受け答えも普通であり、連れの女性も聞きながら笑っているのだ。また別の機会には若い女性がしていた。それを堂々と見せているのだ。
・ 「身体髪膚これすべて父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と言っても今の若者には分からないだろう。若い先生では知らないかも。「古臭い」と自分でも思うが私はこの言葉を親から教えられて育った。折角「親から貰った健康な体を大切にしなさい」という教えだ。
・ 谷崎潤一郎は処女作で「刺青(しせい)」という短編を発表した。「耽美的な谷崎ワールド」であり、皮膚とか肌へのフェティシズムとそれに溺れる男などは典型的なモチーフであるがその中に「世の中に今のように激しく軋みあわない時分には刺青は流行る」と書いている。
・ 谷崎の小説は明治の終わりであり、平成21年の現代社会は「激しく軋みあわない時代」なのであろうか。「格差社会」と言われ、「ワーキングプア」という言葉が生まれ、食や住の「偽装」が明るみになり、「政治も経済もがたがた」している今日(こんにち)社会は「全体がガタガタ軋みあっている」のではないか。谷崎の描く社会とは全く逆の時代だと思うがなー。
・ 刺青の歴史は古い。10000年以上も前から世界で見られる現象であるからそこには「文明的」な論考もあるのだろうが日本では「島送り」「やくざ者」というマイナスイメージであり、したがって各都道府県は「条例」で青少年への刺青は固く禁じている。
・ しかし20才を超えて本人が望めばどこにでも「タトゥー屋」はあって簡単に入れられるという。若者が入れたがる「動機」は一体何なんだろうかと考え込むが答えはない。恐らく動機などないのではないか。
・ 「差別化」などという高尚な言葉は使いたくない。単なる「目立ちたがり屋」「粋がって入れている」と言うことが正解に近いのかもしれない。刺青若者に対して「アホなことを」「一生後悔しながら生きていくことになる」「結婚や子どもが生まれたらそうする」「レーザー除去には保険は利かない」などと言っても無駄であろう。
・ 彼らは「覚悟の上」と返答するのであろうか。「ご意見無用」というのであろうか。そのように答えればまだ救われる部分はあるが、返答はどうなのであろうか。「特別な自分」「自分の生き方」と格好つけて言うのであろうか。
・ しかし刺青体が特別な自分とは言わない。刺青することが特別な生き方ではなかろう。単なる「判断力のない」人間の証明ではないのか。少なくとも彼らには「長い人生のスパン」で物事を考えるということが出来ないのだと思う。
・ 刺青をして帰ってきた子ども見てその親は一体全体何と言う言葉で出迎えるのであろうか。「お帰り、マー綺麗だねー」というのであろうか。無視なのだろうか。色々考えながら刺青青年を私は眺めているのだ。
・ 刺青姿を見て少し「気分が悪くなった」が暑い中を元気良く歩いて、自宅に帰る途中の「なんばパークス」で突然後ろから「校長先生!」と声をかけられた。振り向くと本校の高校2年生3人組であった。ニコニコ笑いながら私の姿を見かけて追いかけて来たというのだ。
・ 生徒は必ず私のことを「校長先生」という。「先生」とは呼ばないのである。彼らなりに先生と区分しているのである。前から見知っている生徒たちであり私も「なんやねん、なにしとんねん」と、こういう時は私も「大阪弁」になる。
・ 「映画を見に来ました」と答える。「ほー、どんな映画や」と聞くと「ごくせん」ですと言う。「なんやそれは?」「校長先生はヤンクミ知らないんですか?」「知るか」と。家に帰ってネットで調べると「仲間由紀恵主演の映画」らしい。11日が封切りだから生徒の癖に「贅沢」だよ。
・ ヤンクミという熱血教師を仲間さんが熱演するコミック漫画の映画化したものらしい。「ごくせん」の意味は「極めつけの先生」と言う意味か、「極道みたいな先生」なのか、「極道みたいな生徒の居る学校の先生」と言う意味か私には分からない。
・ 「そうか、そうか」と言って別れたのであるが、3人の生徒は勿論日曜日なので自由服であったが「ちゃんとした身なりと物腰」で大変良かった。この子達は絶対に「刺青」など入れないと確信したのである。目を見たら分かる。
・ 今朝のタクシーの運転手にそのことを話すと「今高校生で評判の映画で仲間由紀恵は大人気の女優」という。私は「フーン」とうなずいたのである。本校には荒れた生徒もいないし「ごくせん」も居ない。だから生徒は映画に行くのかなと「ふと思ったりした」のである。
・ 私などの「全共闘の世代」は「高倉健扮するところのやくざの一匹狼」が背中に「唐獅子牡丹の刺青」をして敵方に殴りこみをする姿に「体制に逆らう自分を投影」させた若い自分を思い出すのだが、刺青を自分がしようとは露ほども思わなかった。
・ 自分の中に「限界線」があって「ここまでは行ける」「ここから先はしてはいけない」と判断していたのだと思う。それが「判断力」というものだろう。私は刺青をしてそれを見せて歩いている若者の「心理現象」に大変興味がある。
・ 別に「教育者ぶって」言うのではないが「刺青をしてその先はどうなるの?」と聞いてみたい。別に「粋がって」歩いている様子でもないが、生半可ではなくて右腕の「手首まで」している「青と赤の混じった刺青」を半そでシャツで見せるようにして歩いている「心理」を知りたいのだ。
・ 昨日の日曜日も「御堂筋」を歩いていたら目にした。先々週はカップルの若者で連れの若い女性も特段それを気にしているようには見えなかった。そのカップルと信号待ちで並んだから少し聞いてみた。僕はこういうのを「直ぐ聞く悪い癖」がある。
・ 「綺麗だね、でも描いているんだろう?」「いや、本当の刺青です。」「へー、それなら高いだろうねー!」「ええ、60万円かかりました」と。受け答えも普通であり、連れの女性も聞きながら笑っているのだ。また別の機会には若い女性がしていた。それを堂々と見せているのだ。
・ 「身体髪膚これすべて父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と言っても今の若者には分からないだろう。若い先生では知らないかも。「古臭い」と自分でも思うが私はこの言葉を親から教えられて育った。折角「親から貰った健康な体を大切にしなさい」という教えだ。
・ 谷崎潤一郎は処女作で「刺青(しせい)」という短編を発表した。「耽美的な谷崎ワールド」であり、皮膚とか肌へのフェティシズムとそれに溺れる男などは典型的なモチーフであるがその中に「世の中に今のように激しく軋みあわない時分には刺青は流行る」と書いている。
・ 谷崎の小説は明治の終わりであり、平成21年の現代社会は「激しく軋みあわない時代」なのであろうか。「格差社会」と言われ、「ワーキングプア」という言葉が生まれ、食や住の「偽装」が明るみになり、「政治も経済もがたがた」している今日(こんにち)社会は「全体がガタガタ軋みあっている」のではないか。谷崎の描く社会とは全く逆の時代だと思うがなー。
・ 刺青の歴史は古い。10000年以上も前から世界で見られる現象であるからそこには「文明的」な論考もあるのだろうが日本では「島送り」「やくざ者」というマイナスイメージであり、したがって各都道府県は「条例」で青少年への刺青は固く禁じている。
・ しかし20才を超えて本人が望めばどこにでも「タトゥー屋」はあって簡単に入れられるという。若者が入れたがる「動機」は一体何なんだろうかと考え込むが答えはない。恐らく動機などないのではないか。
・ 「差別化」などという高尚な言葉は使いたくない。単なる「目立ちたがり屋」「粋がって入れている」と言うことが正解に近いのかもしれない。刺青若者に対して「アホなことを」「一生後悔しながら生きていくことになる」「結婚や子どもが生まれたらそうする」「レーザー除去には保険は利かない」などと言っても無駄であろう。
・ 彼らは「覚悟の上」と返答するのであろうか。「ご意見無用」というのであろうか。そのように答えればまだ救われる部分はあるが、返答はどうなのであろうか。「特別な自分」「自分の生き方」と格好つけて言うのであろうか。
・ しかし刺青体が特別な自分とは言わない。刺青することが特別な生き方ではなかろう。単なる「判断力のない」人間の証明ではないのか。少なくとも彼らには「長い人生のスパン」で物事を考えるということが出来ないのだと思う。
・ 刺青をして帰ってきた子ども見てその親は一体全体何と言う言葉で出迎えるのであろうか。「お帰り、マー綺麗だねー」というのであろうか。無視なのだろうか。色々考えながら刺青青年を私は眺めているのだ。
・ 刺青姿を見て少し「気分が悪くなった」が暑い中を元気良く歩いて、自宅に帰る途中の「なんばパークス」で突然後ろから「校長先生!」と声をかけられた。振り向くと本校の高校2年生3人組であった。ニコニコ笑いながら私の姿を見かけて追いかけて来たというのだ。
・ 生徒は必ず私のことを「校長先生」という。「先生」とは呼ばないのである。彼らなりに先生と区分しているのである。前から見知っている生徒たちであり私も「なんやねん、なにしとんねん」と、こういう時は私も「大阪弁」になる。
・ 「映画を見に来ました」と答える。「ほー、どんな映画や」と聞くと「ごくせん」ですと言う。「なんやそれは?」「校長先生はヤンクミ知らないんですか?」「知るか」と。家に帰ってネットで調べると「仲間由紀恵主演の映画」らしい。11日が封切りだから生徒の癖に「贅沢」だよ。
・ ヤンクミという熱血教師を仲間さんが熱演するコミック漫画の映画化したものらしい。「ごくせん」の意味は「極めつけの先生」と言う意味か、「極道みたいな先生」なのか、「極道みたいな生徒の居る学校の先生」と言う意味か私には分からない。
・ 「そうか、そうか」と言って別れたのであるが、3人の生徒は勿論日曜日なので自由服であったが「ちゃんとした身なりと物腰」で大変良かった。この子達は絶対に「刺青」など入れないと確信したのである。目を見たら分かる。
・ 今朝のタクシーの運転手にそのことを話すと「今高校生で評判の映画で仲間由紀恵は大人気の女優」という。私は「フーン」とうなずいたのである。本校には荒れた生徒もいないし「ごくせん」も居ない。だから生徒は映画に行くのかなと「ふと思ったりした」のである。