・ 昨日の「第3回高校入試説明会」が無事に終わって「ほっと」した日曜日である。来週は「神社庁の年末直会(なおらい)」や今年最後の「理事会」などがあって大変忙しい週になるだろう。
・ 加えて今追いかけている「プロジェクトX」も「山場」を迎えることになる。「プロジェクトXって何?」と言われてもここでは書けない。そのうちに明らかにする日が来るだろう。私もその日が来るのが楽しみである。まず理事会を経なければならない。
・ こういう日曜日は「ゆっくりと静養」とするのが一番良いのだろうが私の性格は「寸暇を惜しんで」日頃行けないところに「心置きなくゆっくりと行く」のが好きである。これが「木村流癒しの方法」かも知れない。
・ 今住んでいるところから3分のところにレンタカー会社がある。大変便利で「自分の車庫」みたいな場所である。メンバーになれば大変安く一日車を借りられるのである。全ての車に「ナビゲーション」装置が付いており何処に行こうとも全く問題はない。
・ そういうわけで今日はこの秋口に日本を、中でも「近畿地方を歓喜」させ、九州地方の人々のお顔を曇らせた「奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡」を訪ねたのである。「浪速高校の校長、女王卑弥呼の国を探る!」とでも言おうか。
・ 本年9月21日(土)の各紙は1面を使って「纏向遺跡における大発見」の記事を幾分興奮気味に載せていた。例えば産経は「卑弥呼宮殿の一角?」であり、他面には「勢いづく畿内説」とまで書いている。他紙も大体同じような論調である。
・ 実は今回の発見は今年1月に溯るのであるが纏向遺跡の一角に3世紀前半の宮殿跡が発見されて、「すわッ一大事、卑弥呼の宮殿跡?」と本格的調査に入った、いわば「物語の続編」の結果発表であったのである。
・ そして「東西に並んだ3棟の宮殿跡」の発見に「やっぱり、巨大な宮殿跡だった。これは卑弥呼の即位した宮殿である」との色濃い発表だったのである。更にこの近辺を掘り進めばここが女王卑弥呼の祭祀の場所だったということが明確になると・・。もうメチャ「思考も視線も熱い」のである。
・ 当然これを受けて「考古学者の論争」が又始まった。何か新しい発見があれば又論争が勃発するのである。そして決して相手方はそれを「認めようとしない」ところも全く変わらないのである。
・ 私はこういう人々の論争するのを「傍で観察するのが大変好き」である。「畿内説」の学者や研究者と「九州説」に立つ人々のもはや論争というより「喧嘩に近い」発言の応酬は本当に面白い。最後はもう「郷土自慢」に見えたりする。
・ 私は考古学者でもないし、郷土史家でもない。ただ「大和朝廷」と「卑弥呼」に大変な関心があって「邪馬台国」論争の書物は既に何冊も読んできた。畿内に住んでいるし、奈良県側に軍配を上げたいが畿内説も最後の「物言わぬ証明」がなされていないから幾分苦しいのである。
・ 「九州派」はそこを突いてくる。それは「鉄」である。「魏志倭人伝」によれば「倭人は鉄の鏃(やじり)を使うとされているが、これが圧倒的に絶対的に九州地方の遺跡に多く、畿内とは100倍以上の差異だというのである。
・ 九州説の学者は「鉄はさびるが奈良県の鉄だけが錆びて無くなるとは考えられない」とまで皮肉を言い放って「邪馬台国はすでに九州で決着している」と発言している。ある評論家は「又近畿圏の郷土史家が騒いでいる。もうバカ馬鹿しくて相手にする気もない。3世紀の木片が出た、土器が出たといってはすぐ邪馬台国と騒ぐが実に嘆かわしい。頭が論理的とは言えない。邪馬台国は九州に決まっておる」とまで堂々と書いている。
・ しかし「古代ロマン」であり「古代ミステリー」である。ボツボツ決着と思わないでもないが、「まあ無理してまで決着しなくても」と思ったほうが良いのか。しかし奈良県桜井市の纏向地方の遺跡群はすごい。まあ「奈良県は何処を掘っても何かが出てくる」のではないか。
・ 神が籠もる山「三輪山」の麓に広がる平地は、これまた「卑弥呼の墓」といわれている前方後円墳の「箸墓古墳」があって何か「神秘的な感じ」がする一体であった。箸墓古墳は纏向宮殿跡から車で2ないし3分のところにあり「宮内庁管理」の看板ががっしりと古墳を守っている。ここにも私は足を伸ばしたのである。
・ 近くには「崇神天応の墳墓」もあり宮内庁の発表では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹のお墓であるとされるがすべては「日本書紀と古事記の描く世界の話」である。しかしおの箸墓古墳は最近の年輪年代方や炭素年代測定法から卑弥呼の生きた時代のものとされており「卑弥呼の墓だという蓋然性が高くなっている」と言われている。
・ 私などは「不敬」なものだから「箸墓古墳を徹底調査」したら「簡単に全てが明らかになる」と思うのだが宮内庁が「頑として」受け付けないという。この巨大な日本最古の前方後円墳が卑弥呼の墓だとしたら「邪馬台国畿内説の勝ち」で論争は終結だ。
・ 「いや」それでも「九州説派」の人々は抵抗するかもしれない。卑弥呼はそこへ死んでから祭られたのであってあくまで邪馬台国は「吉野ヶ里遺跡」にあったというかもしれない。
・ 宮内庁も「もう1800年も経っているのだから発掘調査をしても宜しい」と言えば「立派」だと思うがそうはさせてくれないみたいだ。鳩山総理は「日本史」のためだからと宮内庁にお願いしたらどうだろうか。
・ しかしそれにしても箸墓も纏向古墳群も「田舎」にあった。古代日本の中心都市がこの地にあったと急には考えられないほどの田舎にあった。遺跡跡にはビニールシートが被されており民家や県営住宅が近くまで迫っており、又さもローカルな桜井線「巻向」駅は宮殿跡のまん前にあり、それが又イメージを「はるかかなた」に追いやるのである。
・ 行きに2時間、現地に1時間、帰りに2時間、今朝6時に出発して家に帰ったのは12時30分であった。近いといえば近い。しかし今日は「充実した日」となったのである。邪馬台国の可能性のある纏向遺跡の宮殿跡に立っただけで「幸せ」であった。自分でも「好きだなー」と思う。本当にこういうのは好きである。
・ 加えて今追いかけている「プロジェクトX」も「山場」を迎えることになる。「プロジェクトXって何?」と言われてもここでは書けない。そのうちに明らかにする日が来るだろう。私もその日が来るのが楽しみである。まず理事会を経なければならない。
・ こういう日曜日は「ゆっくりと静養」とするのが一番良いのだろうが私の性格は「寸暇を惜しんで」日頃行けないところに「心置きなくゆっくりと行く」のが好きである。これが「木村流癒しの方法」かも知れない。
・ 今住んでいるところから3分のところにレンタカー会社がある。大変便利で「自分の車庫」みたいな場所である。メンバーになれば大変安く一日車を借りられるのである。全ての車に「ナビゲーション」装置が付いており何処に行こうとも全く問題はない。
・ そういうわけで今日はこの秋口に日本を、中でも「近畿地方を歓喜」させ、九州地方の人々のお顔を曇らせた「奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡」を訪ねたのである。「浪速高校の校長、女王卑弥呼の国を探る!」とでも言おうか。
・ 本年9月21日(土)の各紙は1面を使って「纏向遺跡における大発見」の記事を幾分興奮気味に載せていた。例えば産経は「卑弥呼宮殿の一角?」であり、他面には「勢いづく畿内説」とまで書いている。他紙も大体同じような論調である。
・ 実は今回の発見は今年1月に溯るのであるが纏向遺跡の一角に3世紀前半の宮殿跡が発見されて、「すわッ一大事、卑弥呼の宮殿跡?」と本格的調査に入った、いわば「物語の続編」の結果発表であったのである。
・ そして「東西に並んだ3棟の宮殿跡」の発見に「やっぱり、巨大な宮殿跡だった。これは卑弥呼の即位した宮殿である」との色濃い発表だったのである。更にこの近辺を掘り進めばここが女王卑弥呼の祭祀の場所だったということが明確になると・・。もうメチャ「思考も視線も熱い」のである。
・ 当然これを受けて「考古学者の論争」が又始まった。何か新しい発見があれば又論争が勃発するのである。そして決して相手方はそれを「認めようとしない」ところも全く変わらないのである。
・ 私はこういう人々の論争するのを「傍で観察するのが大変好き」である。「畿内説」の学者や研究者と「九州説」に立つ人々のもはや論争というより「喧嘩に近い」発言の応酬は本当に面白い。最後はもう「郷土自慢」に見えたりする。
・ 私は考古学者でもないし、郷土史家でもない。ただ「大和朝廷」と「卑弥呼」に大変な関心があって「邪馬台国」論争の書物は既に何冊も読んできた。畿内に住んでいるし、奈良県側に軍配を上げたいが畿内説も最後の「物言わぬ証明」がなされていないから幾分苦しいのである。
・ 「九州派」はそこを突いてくる。それは「鉄」である。「魏志倭人伝」によれば「倭人は鉄の鏃(やじり)を使うとされているが、これが圧倒的に絶対的に九州地方の遺跡に多く、畿内とは100倍以上の差異だというのである。
・ 九州説の学者は「鉄はさびるが奈良県の鉄だけが錆びて無くなるとは考えられない」とまで皮肉を言い放って「邪馬台国はすでに九州で決着している」と発言している。ある評論家は「又近畿圏の郷土史家が騒いでいる。もうバカ馬鹿しくて相手にする気もない。3世紀の木片が出た、土器が出たといってはすぐ邪馬台国と騒ぐが実に嘆かわしい。頭が論理的とは言えない。邪馬台国は九州に決まっておる」とまで堂々と書いている。
・ しかし「古代ロマン」であり「古代ミステリー」である。ボツボツ決着と思わないでもないが、「まあ無理してまで決着しなくても」と思ったほうが良いのか。しかし奈良県桜井市の纏向地方の遺跡群はすごい。まあ「奈良県は何処を掘っても何かが出てくる」のではないか。
・ 神が籠もる山「三輪山」の麓に広がる平地は、これまた「卑弥呼の墓」といわれている前方後円墳の「箸墓古墳」があって何か「神秘的な感じ」がする一体であった。箸墓古墳は纏向宮殿跡から車で2ないし3分のところにあり「宮内庁管理」の看板ががっしりと古墳を守っている。ここにも私は足を伸ばしたのである。
・ 近くには「崇神天応の墳墓」もあり宮内庁の発表では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹のお墓であるとされるがすべては「日本書紀と古事記の描く世界の話」である。しかしおの箸墓古墳は最近の年輪年代方や炭素年代測定法から卑弥呼の生きた時代のものとされており「卑弥呼の墓だという蓋然性が高くなっている」と言われている。
・ 私などは「不敬」なものだから「箸墓古墳を徹底調査」したら「簡単に全てが明らかになる」と思うのだが宮内庁が「頑として」受け付けないという。この巨大な日本最古の前方後円墳が卑弥呼の墓だとしたら「邪馬台国畿内説の勝ち」で論争は終結だ。
・ 「いや」それでも「九州説派」の人々は抵抗するかもしれない。卑弥呼はそこへ死んでから祭られたのであってあくまで邪馬台国は「吉野ヶ里遺跡」にあったというかもしれない。
・ 宮内庁も「もう1800年も経っているのだから発掘調査をしても宜しい」と言えば「立派」だと思うがそうはさせてくれないみたいだ。鳩山総理は「日本史」のためだからと宮内庁にお願いしたらどうだろうか。
・ しかしそれにしても箸墓も纏向古墳群も「田舎」にあった。古代日本の中心都市がこの地にあったと急には考えられないほどの田舎にあった。遺跡跡にはビニールシートが被されており民家や県営住宅が近くまで迫っており、又さもローカルな桜井線「巻向」駅は宮殿跡のまん前にあり、それが又イメージを「はるかかなた」に追いやるのである。
・ 行きに2時間、現地に1時間、帰りに2時間、今朝6時に出発して家に帰ったのは12時30分であった。近いといえば近い。しかし今日は「充実した日」となったのである。邪馬台国の可能性のある纏向遺跡の宮殿跡に立っただけで「幸せ」であった。自分でも「好きだなー」と思う。本当にこういうのは好きである。