2009年12月23日水曜日

12月23日(水)その2:あれから3年




・ 平成18年11月中旬くらいから具体的な話となってきた「浪速行き」は本格的に意を決しなければならない時期が来ていた。本当は19年4月からの着任でも良いと考えていたが、「周囲の事情」がそれを許さなくなっていた。話し合いの相手は「M理事長職務代理」だけであり、窓口は一本にしておかないと「外野の声」が入ったりしてややこしくなる。打ち合わせの場所は何時も「大阪天満宮の宮司応接室」であった。「極秘裏」に話は進んでいたのである。
・ そして3年前の12月22日、丁度3年前の昨12月22日の夕方17時過ぎ、私は心斎橋筋船場近くの喫茶店で一本の電話を待っていた。予定より遅れたがM理事長職代理から連絡があり、「先ほど理事会で先生の理事長招聘と来年4月からの校長就任が機関決定されましたが、お受け頂けますか?」という内容である。一旦電話は切られ、再度電話で「今から神社庁会館に来て頂きたい。」というもので、居並ぶ理事に初めて顔を見せご挨拶をした。喫茶店から神社庁までは歩いて10分、寒い日であったことを覚えている。
・ 理事会は11名の全理事のうち、実質的なオーナー的ポジションである大阪府神社庁庁長であるT理事を除いて「全員が退任」、総てを「木村新理事長に今後を委ねる」というもので、そこに今回の理事会の強い意志を感じられ、身の引き締まる思いがしたものだ。この時の「使命感と責任感」は今に続く。
・ 遡ること4日前12月18日、私は大阪府の有名な大手学校法人の、これまた日本政界で大臣を経験された有名な理事長の執務室にアポを取って据わっていた。「私みたいな浅学菲才の身にお声をかけていただいていた折角のお話ですが、他に義理あってお断りせざるを得なくなり、本日はお詫びに参りました。」言ってみれば「就職内定」を戴いていたにも関わらず、それを「内定辞退」に来たのである。
・ 理事長室を辞した後、その脚で直ぐタクシーを拾い大阪府庁に向かった。「友人関係、個人としての立場」から、間に立って「有力私学の校長職」を繋いでくれた恩人とも言える府庁幹部のお方である。私が到着する前に、先ほどの理事長から既に電話があったみたいで事情は察していただいており、「心苦しい面談」であったが、このお方も理事長も「気持ちよく申し出を受け止めてくれ、激励」をしていただいた。これで「退路を断った」「もはや先に進むしかない」と腹を決めたのである。
・ そして3年前の12月23日、すなわち3年前の今日当時の校長先生と初めて「顔合わせ」をしたのである。この日のことは今でも覚えている。この日、昨日の理事長就任を受けて、夕方17時大阪天満宮宮司室で初めて校長先生とお会いした。同席は他に理事長職務代理との3人であった。
・ 私と校長先生と二人で「そこらで一杯飲みましょうか」ということになり、二人は御堂筋線で天王寺に向かい一軒の居酒屋に入ることになる。話は弾み、看板で最後のオーダーを取りに来る22時過ぎまで飲んでいたことになる。でも校長先生の心中は察して余りあると思ったが、自分としてはどうしようもないことであった。「組織は非情が当たり前」で、「組織の意思で決定された」ことなのである。校長理事を含む全理事が「経営責任」を取ったと私は受け止めていた。
・ 校長先生のご対応はご立派であった。この席で二人の間で何が語られたかはもうどうでも良いことである。墓場まで持っていかねばならないことは「男の人生」には、ままあることである。
・ 「抵抗勢力は総てを蹴散らせて進まなければならない」ことは「浪速行きを決意したときから覚悟」していたが、この校長先生との会談で、その決意を新たにした。いずれにしても3月31日までは理事長と現校長との二人三脚で上手く進めなければならいが「学校第一、生徒第一」で進めると決心したのである。
・ 面白い話がある。飲みながら校長先生に「早速教職員に理事長就任挨拶」したいので、その場を作って欲しいと頼んでみたが「先生、もう終業式も終わって、部活動の先生以外、誰も学校に来ませんよ」と。
・ 「そんな、仕事納めは何時ですか?最後の職員会議は何時ですか、普通は28日頃までは仕事でしょう」と問うも、終業式の後は「基本的に教職員は休みで今度全員が揃うのは始業式です」と。「えー、そんな」と私。この話を聞いて、瞬間「噂とおり甘い、緩んだ学校だな。」と思ったのである。
・ しかし、まさか管理職に対して1月9日に一般の教職員と同時に「挨拶を交わす」ような「不恰好な真似」は出来ないので、管理職には1月6日学校に来るように「初めて理事長として指示」した。このときの管理職は現在誰一人残っていない。
・ 後日、聞いたことであるが当然「誰が理事長・校長兼務で来るのか」は全浪速教職員の最大の関心事で、校長交代もすでに噂として流れていたという。秘密を保持するというのはものすごく難しいことなのである。
・ でも「誰が来るか」は誰も予想できなかったみたいであり、12月22日の理事会のあと、校長は喫茶店で待ち構える管理職に電話しておそらく「あの木村だ。」と言われたのだろうと思う。そのようなことを言われていた。
・ これで一挙に私の名前が飛び回ることになる。しかし私は当然この事態を想定しており、事前に当時の事務長を呼び出し、「木村の理事長就任あいさつ文と論文」を封筒に入れて休み明け12月24日クリスマスイブにプレゼントとして全教職員の机の上に配布するよう頼んだのである。
・ 就任挨拶が年内に出来ないなら文書でするしか方法がなかったので、そのようにしたのであるが、その時配布した「あいさつ文」は以下のものである。今読み返してみても「当時の緊張感と使命感」が伝わってきて私は「感無量」になるのである。このようにして3年前の12月22日と23日は過ぎて行ったのである。「あれから3年」丁度3年経った。今日は平成21年12月23日である。

                             平成18年12月23日
教職員の皆様
就 任 ご 挨 拶
                              学校法人 大阪国学院
                               理事長 木村 智彦
拝啓

心せわしい年の暮れ、浪速中学校高等学校の教職員の皆様にはますます御健勝のこととお喜び申し上げます。

さて平成18年12月22日の(学)大阪国学院理事会において理事長に推挙され同日就任いたしました木村智彦と申します。また明年4月1日からは中学校高等学校長の兼務も併せて委嘱されています。どうか宜しくお願い致します。
大阪の別称「浪速」を冠に戴くこの伝統校に勤務できることを大変名誉と考えており、理事長として責任の重大さに身の引き締まる思いであります。私学を取り巻く厳しい環境の中、頑張っておられる先生方と一緒に仕事ができることを大変楽しみに致しております。浅学菲才の身ではありますが、全身全霊で本学院本校発展の為に努力する所存であり、どうかご協力をお願い申し上げます。

学校は年末を迎え公私ともにお忙しいと思い、まず本文にて就任のご挨拶をさせて頂きます。着任は明年1月6日ということになっており、教職員の皆様には1月9日に直接ご挨拶できるようお願い致しております。その席では資料を使いながら本法人の現状について理事長として少し述べさせて頂きます。何分にも急なお話であり、十分に理解できていないところがあるかも知れませんが、その部分はご容赦くださるようお願い申し上げます。
 
皆様方にとりまして来年もまた良いお年であることを祈念申し上げ、取り急ぎ就任のご挨拶とさせて頂きます。
敬具