2010年2月5日金曜日

2月5日(金)朝青龍と橋下知事







・ 昨日から今日にかけて「朝青龍引退」「小沢一郎起訴なし」「橋下知事就任2周年元気一杯」のニュースばかりであった。もう少しまともなニュースは無いのかと言いたい。正直言って「何で朝青龍は引退しなければならないの?」という思いで私は腹を立てている。
・ どうして小沢一郎は「政治資金で不動産を購入」し、秘書が3人も逮捕されて「平気な顔をしておれるの?」。鳩山総理は「お母さんから何十億円も貰っておいて相続税も払わず」に何年も来て平気なの?一国の総理がそうだから、今後誰もまともに相続税など支払わなくなる。
・ 朝青龍の引退記者会見では私は涙が出た。「横綱の品格、品格というけど自分はまず土俵で勝つことが大切とやって来た。・・・」、後は言葉になっていない。たった一人、少年で日本に来て高校を中退し、相撲部屋に入り「練習に次ぐ練習で横綱」になった。
・ 25回も優勝し1年6場所全てを勝ち散り、「従来の相撲のイメージを変えた」。まずあの「スピード」、勝つためには「張り手」を頻発し、「勝ちたい一心」だから勝ったら自ずと「ガッツポーズ」が出るのである。「その何処が悪いの?」負けてすごすご土俵を降りる方が余程品格がない。
・ 大体評論家とかコメンテーターとかマスコミの連中だ。その道を極めたわけでもなく、たまたまそういうポジションに居た、その辺の「普通の人間」が朝青龍のことを「好き勝手」言っている感じだ。まだ29歳の青年だぞ。まだ日本語もおぼつかないモンゴルの人だ。朝青龍がこの間日本の相撲界に貢献したことを忘れてはならない。「惻隠の情」はないのか。
・ たまたま友人か誰か知らないが「飲んでいていさかいになることは若者には良くあることだ。」それを天下を取ったように何回も何回も責め立てて「何が楽しいのか」。「お前らはそんなに偉いのか」と私は言いたいのだ。「完全無欠の人間」を朝青龍に求めてどういう意味がある。
・ 「小沢や鳩山を責め立てろ」。そちらのほうが「質(たち)が悪い」。小沢や鳩山は良い加減で済ませて朝青龍ばかりに言及するこの国のマスコミは少しおかしい。私は朝青龍引退の報に接した同じ横綱「白鳳の涙」に複雑な感情を感じた。
・ 朝青龍との比較で「品格ある立派な横綱」を強制され、同じモンゴル人の先輩朝青龍の対比の中で「殊更良い子ぶった自分」へのさいなみと苦しい胸のうちを表した涙であったのではないか。あの涙は。
・ 朝青龍は横綱であって「リーダーではない」。「一番強い人間」であって彼が日本相撲界のリーダーではない。その辺をもう少し考えねばならない。単なるアスリートであって我々は朝青龍に相撲界のリーダーを期待してはいない。
・ 相撲界のリーダーは武蔵川理事長であり、各理事であり、部屋の親方だろう。朝青龍みたいないささか常識が身についていない若者の監督指導は一体何処に行ったのか。「朝青龍の首は切ったが自分たちの首はまだ胴体についているではないか。」
・ 「ラインのトップの横綱」が辞めたのだから「経営のトップの理事長も辞めろ」と言いたい。「守旧的体質を温存して自分たちは土俵の外で上手い汁を吸って29歳の若者に傷を負わせ60超えのおっさんが跋扈している相撲界」など「くそ食らえ」だ。

・ ところで「くそ教育委員会」と言った橋下知事だが、この3日間、橋下知事関連のブログばかりだが、「好きで書いているのではない。」書いている理由は簡単で「大阪の私立高校の生殺与奪の権限」を彼が握っているからである。彼の言動を見逃せないのである。
・ 囲碁や将棋を問わずスポーツでもそうだろう。「相手の次の手」を読み、次なる準備をすることが勝つというか少なくと「敗退しない要諦」である。「ボーッ」としていて、全てが表に出てきてから慌てて対応した時には既に遅れている。これでは激しく変化しつつある府の教育施策に付いていけない。まず「実力」を付けなければどうにもならない。
・ まあしかし朝青龍と同じで新聞には次から次と人物が登場し、「橋下論」を展開している。「何かを言わなきゃ損だ」「何かを批判することが自分を際だたせる」といわんばかりに橋下論評だ。
・ 素直に「よくやっている」と言ったらどうだ。前の太田房江とか横山ノックとかに比べれば何十倍も良いではないか。橋下さんはまだ40歳前だぞ。貴方がその歳の時には「どうだったの」と聞いてみたい。「自分が知事だったら橋下知事以上に貴方はやれるの?」

・ 昨日のブログで「橋下人気の理由の最大のものはリーダーシップ」とあったが特別に彼が知事権限を強化したのではない。ここがポイントである。権限を強化してなら誰でも出来る。既定の権限を行使できるかどうかが「リーダーシップ」である。
・ 橋下知事の素晴らしいところはこの点である。「縦横無尽に今ある権限を行使」しているのである。過去の人、やらなかった人、守旧派の人々からすれば「無茶苦茶」やっているように見えるが、とんでもない話で「普通に知事の権限を行使」しているだけである。
・ 私も3年前、荒れ果てた本校にたった一人で落下傘みたいに降り立った。「唯一の武器は理事長・校長という職位」を与えられただけであった。私は「理事長としての経営権と校長としての校務運営権を法律の定めるところに従って行使」しただけである。
・ ところが実はこの権限を行使することが難しい。それは物言わぬ抵抗、白々しいそぶり、面従腹背、陰口などが降りかかってくるからである。人間誰だって「人に好かれたい」「良い様に思われたい」と思うのは当たり前の感情だろう。
・ しかし「一歩踏み出す勇気が事態を変える」のである。「好かれる前にやることはやらねばならない。」リーダーのポジションにあるが結局何もやらない人の言い訳は「皆の意見を聞いて」という。決まり文句である。皆の意見を聞いて一つに纏まるはずなどない。
・ そして次に来るのが「じっくり、ゆっくりと」であるが最初からこういうことをいう人は「結局何もしない」ということである。最後が「まあ最初はこの辺で」となる。「妥協」なのである。見た目だけ変わったようにはなっているが「本質は全く昔のまま」で上着を変えただけで、さも変わったように見せるのである。
・ しかし橋下知事は「抵抗を恐れない」。一歩前に踏み出す。そして「返り血」を厭わないのである。厭わない「ふり」だとしても、こういうところが「大衆の拍手喝采」を浴びているのである。
・ しかしリーダーというのは得てして「既存の組織」からは生まれにくいものだと思う。橋下知事は行政経験素人の弁護士から転進した。確かに「しがらみのない」外部からの落下傘人材は「好きなように言えて、やり易い反面、議員諸侯などの古手からごちゃごちゃ」言われて神経を消耗するが「ここが勝負どころ」でこの壁を突き破れば後は何とかなるものである。
・ 人間社会の悲しさで「内部からの改革エネルギーを待つ」などといって成功した験しなどはない。歴史が証明している。日本航空が潰れ、あのトヨタがおかしくなっている。未来永劫栄耀栄華を誇る組織などないのである。
・ 私も全く外部の人間である。たった一人浪速に舞い降りた。誰一人知らなかった。誰も連れて行かなかった。それでも「やれた」のである。その理由は「返り血を恐れなかった」からである。今でも恐れてはいない。
・ 私の持てる権限を十二分に行使して理不尽なら「抵抗勢力を一掃する」。「それは私の為ではない。生徒と若い将来ある先生方の為」であるからだ。学校を守る為に何でもする。そういう同じような思いを橋下知事から感じるから私は彼を少なくとも「こき下ろしたりはしない」。少なくとも二人に共通した感情は「切歯扼腕」なのである。もっと出来るという思いだ。