・ 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受けて滅せぬ者はあるべきか」は幸若舞の謡曲「敦盛」の一節ですが、この謡はご承知のように「織田信長」が愛唱したことで余りにも有名です。私も大好きな一節です。
・ 「信長公記」によればこの敦盛を舞った後、“法螺を吹け、具足を寄こせと仰せられ、立ちながら御食を参り、御甲めし候ひてご出陣なさる”と書いています。そう一大決心をして篭城作戦から撃って出る「桶狭間の戦い」に向かう直前のことですね。
・ 今日は「芸術の秋」ということで上町にある「大槻能楽堂」に出かけました。大槻能楽堂は大変立派な劇場で504席もあり「難波の宮」の南部にある日本を代表する能狂言などの劇場です。私はここに来るのは今日で3回目になります。
・ 今日は「本校理事長職務代理である道明寺天満宮宮司の南坊城充興先生」が「シテ」で能「経正」を演じられるので参った訳です。学校からは私以外に管理職やPTA会長も来てくれました。地元や同窓会、ライオンズクラブなど多くの南坊城先生の友人やファンが来ておられていました。
・ 「経正」というのは前述した「敦盛」の兄で幼少より京都の仁和寺や御所に出入りする和歌や「琵琶」を良くする大変な文化人でしたが「平家都落ち」のときに「名器青山」という琵琶を返上して、落ちていきます。
・ そして「一の谷の合戦」にて戦死しますがご門跡の守覚法親王は「経正の追善の法要」を執り行わせます。経正はその席に現れて琵琶「青山」を弾じて共に楽しみますが「修羅道」の姿を人々に見られるのを恥じて灯火を消して「暗闇のうちに姿を消していく」という物語です。
・ 「弔い」の有難さと「管弦」の音楽に誘われて現れ出てきても修羅道の苦しみの姿を人に見られるのを恥じると言う経正の「優雅な人柄」が美しく表現されている大変有名な能楽なのです。
・ とにかく能楽などの鑑賞には「事前に勉強」して行くように私はしています。そうでもしなければ良く理解出来ないからです。一期一会、今度何時行けるか分かりませんからその時々の機会を大切にするようにしています。
・ 「琵琶」が重要な役回りをしているだけにこの能の管弦の優雅さと「謡の文句」が素晴らしいのです。「索索として秋の風、松を弔って疎韻落つ」「冷冷として夜の鶴の、子を憶う籠の中に鳴く」「律呂の聲々に情(こころ)聲に発す、聲文を(あやを)をなす事も」などととにかく言葉が素晴らしい。しかしこの「律呂の聲」というのは一体どのようなものでしょうか。まだ理解していません。余りにも「深奥幽玄」です。
・ 私は南坊城先生がこの能楽を選ばれた理由が分かったのです。実はご案内には「南坊城伸子様追善秋の会」とあり、弔いの舞台であるこのお能を掛けられたのであると思いました。「本年3月急逝した妻伸子に捧げる」と書いてあります。
・ 亡くなられた奥様には私も大変良くしていただき、表千家の相当なお茶を研鑽されていた奥様からどのくらい「お薄」を頂いたでしょうか。ちょうどあの「大きなご葬儀」から半年も経っているのかと私は「人間の無常さ」を思うのです。
・ ことさらこの「お能」が弔いの舞台だけに余計に亡くなられた奥様をしのびながら、お面を付けて演じられている南坊城先生のお気持ちを察して目頭が熱くなるのを禁じえませんでした。
・ 今日初めて知ったのですがちょうど1年前の10月19日に「謡」を良くされた奥様は、ここ大槻能楽堂で謡曲「安達原」の「シテ」を謡われ、今日が10月18日ですから正に因縁みたいなものを感じます。恐らく南坊城先生はこの日に意識して持って来られたのだと思います。
・ 今日演じられた「経正」は理事長職務代理にとっては「初能」で「シテ」を演じるのは初めてだと言うことです。言ってみれば大変お目出度いことなのです。シテというのは「主役」であり、「面(おもて)」という能面をつけて「正式衣装」に「扇」を持って舞います。この発表会のために新しく「お面」を作られたと聞きました。
・ 能楽はご承知のように1300年代に出来た世界最古の舞台演劇といいますが、分かりやすく言えば「ミュージカル」ですよね。歌いながら踊るのです。とにかく演劇の一つですが歴史が古いだけに決まりごとが多いそうです。「能楽」の前には「猿楽」と言っていました。
・ 職業人としての「能楽師」と言う集団があって各流派に分かれています。それもシテ方、ワキ方、笛方、狂言方、小鼓方、太鼓方などに分かれています。シテ方は観世流、室生流、金剛流、金春流、喜多流の5流のみで圧倒的に観世流が大きな勢力となっていますね。今日の能楽も「観世流」でした。
・ 「素晴らしい舞台」でした。舞いも謡いも男っぽく迫力がありました。最初は「幽霊」として出てきます。先生はこのときは静かに夢幻の様相のように演じられましたが最後「翔(かげり)」という場面からは音曲も舞いも一転変調します。
・ 経正は殿中に伺候する教養人、文化人といっても、そこは元々「平家の武士」ですから消えていく最後の場面は「荒々しく舞台狭しと舞ながら、刀を抜いて踊ります」。それが南坊城先生のイメージに合致して「お人そのもの」と言う感じを醸し出されていましたね。
・ そして最後のシテの文句は「あの灯火を消したまえ」と言うのです。そして舞台最後は「地方」の「魄霊(はくれい)は失せにけり、魄霊の影は失せにけり」で終わりました。満場一杯の拍手で本当に迫力がありました。
・ 私は大いに感激して「良い秋の午後の一日」を過ごすことが出来たと思いました。大変に勉強になりました。終わった後は能楽堂の前で南坊城先生を多くの方が待っておられました。私もお待ちしてご挨拶をしました。
・ 「これで能もやるだけやったので一区切りにして、これからは学校にもう少し時間を割いて手伝うよ」と言って頂きました。恐らく61歳という若さで突然亡くなられた奥様への感謝と詫び、無念さなど一切合財が今日の「経正」にぶつけて来られたのですね。そのように私は思いました。
・ この半年、この日の為に集中されていましたから、私には先生のお気持ちが分かるのです。「多くの人に感動と感激」を与えていただいて有難う御座いました。しかしさすがですね。ここまで能楽を極められるなど私など足元にも及びません。「すごいお方」です。
・ 「信長公記」によればこの敦盛を舞った後、“法螺を吹け、具足を寄こせと仰せられ、立ちながら御食を参り、御甲めし候ひてご出陣なさる”と書いています。そう一大決心をして篭城作戦から撃って出る「桶狭間の戦い」に向かう直前のことですね。
・ 今日は「芸術の秋」ということで上町にある「大槻能楽堂」に出かけました。大槻能楽堂は大変立派な劇場で504席もあり「難波の宮」の南部にある日本を代表する能狂言などの劇場です。私はここに来るのは今日で3回目になります。
・ 今日は「本校理事長職務代理である道明寺天満宮宮司の南坊城充興先生」が「シテ」で能「経正」を演じられるので参った訳です。学校からは私以外に管理職やPTA会長も来てくれました。地元や同窓会、ライオンズクラブなど多くの南坊城先生の友人やファンが来ておられていました。
・ 「経正」というのは前述した「敦盛」の兄で幼少より京都の仁和寺や御所に出入りする和歌や「琵琶」を良くする大変な文化人でしたが「平家都落ち」のときに「名器青山」という琵琶を返上して、落ちていきます。
・ そして「一の谷の合戦」にて戦死しますがご門跡の守覚法親王は「経正の追善の法要」を執り行わせます。経正はその席に現れて琵琶「青山」を弾じて共に楽しみますが「修羅道」の姿を人々に見られるのを恥じて灯火を消して「暗闇のうちに姿を消していく」という物語です。
・ 「弔い」の有難さと「管弦」の音楽に誘われて現れ出てきても修羅道の苦しみの姿を人に見られるのを恥じると言う経正の「優雅な人柄」が美しく表現されている大変有名な能楽なのです。
・ とにかく能楽などの鑑賞には「事前に勉強」して行くように私はしています。そうでもしなければ良く理解出来ないからです。一期一会、今度何時行けるか分かりませんからその時々の機会を大切にするようにしています。
・ 「琵琶」が重要な役回りをしているだけにこの能の管弦の優雅さと「謡の文句」が素晴らしいのです。「索索として秋の風、松を弔って疎韻落つ」「冷冷として夜の鶴の、子を憶う籠の中に鳴く」「律呂の聲々に情(こころ)聲に発す、聲文を(あやを)をなす事も」などととにかく言葉が素晴らしい。しかしこの「律呂の聲」というのは一体どのようなものでしょうか。まだ理解していません。余りにも「深奥幽玄」です。
・ 私は南坊城先生がこの能楽を選ばれた理由が分かったのです。実はご案内には「南坊城伸子様追善秋の会」とあり、弔いの舞台であるこのお能を掛けられたのであると思いました。「本年3月急逝した妻伸子に捧げる」と書いてあります。
・ 亡くなられた奥様には私も大変良くしていただき、表千家の相当なお茶を研鑽されていた奥様からどのくらい「お薄」を頂いたでしょうか。ちょうどあの「大きなご葬儀」から半年も経っているのかと私は「人間の無常さ」を思うのです。
・ ことさらこの「お能」が弔いの舞台だけに余計に亡くなられた奥様をしのびながら、お面を付けて演じられている南坊城先生のお気持ちを察して目頭が熱くなるのを禁じえませんでした。
・ 今日初めて知ったのですがちょうど1年前の10月19日に「謡」を良くされた奥様は、ここ大槻能楽堂で謡曲「安達原」の「シテ」を謡われ、今日が10月18日ですから正に因縁みたいなものを感じます。恐らく南坊城先生はこの日に意識して持って来られたのだと思います。
・ 今日演じられた「経正」は理事長職務代理にとっては「初能」で「シテ」を演じるのは初めてだと言うことです。言ってみれば大変お目出度いことなのです。シテというのは「主役」であり、「面(おもて)」という能面をつけて「正式衣装」に「扇」を持って舞います。この発表会のために新しく「お面」を作られたと聞きました。
・ 能楽はご承知のように1300年代に出来た世界最古の舞台演劇といいますが、分かりやすく言えば「ミュージカル」ですよね。歌いながら踊るのです。とにかく演劇の一つですが歴史が古いだけに決まりごとが多いそうです。「能楽」の前には「猿楽」と言っていました。
・ 職業人としての「能楽師」と言う集団があって各流派に分かれています。それもシテ方、ワキ方、笛方、狂言方、小鼓方、太鼓方などに分かれています。シテ方は観世流、室生流、金剛流、金春流、喜多流の5流のみで圧倒的に観世流が大きな勢力となっていますね。今日の能楽も「観世流」でした。
・ 「素晴らしい舞台」でした。舞いも謡いも男っぽく迫力がありました。最初は「幽霊」として出てきます。先生はこのときは静かに夢幻の様相のように演じられましたが最後「翔(かげり)」という場面からは音曲も舞いも一転変調します。
・ 経正は殿中に伺候する教養人、文化人といっても、そこは元々「平家の武士」ですから消えていく最後の場面は「荒々しく舞台狭しと舞ながら、刀を抜いて踊ります」。それが南坊城先生のイメージに合致して「お人そのもの」と言う感じを醸し出されていましたね。
・ そして最後のシテの文句は「あの灯火を消したまえ」と言うのです。そして舞台最後は「地方」の「魄霊(はくれい)は失せにけり、魄霊の影は失せにけり」で終わりました。満場一杯の拍手で本当に迫力がありました。
・ 私は大いに感激して「良い秋の午後の一日」を過ごすことが出来たと思いました。大変に勉強になりました。終わった後は能楽堂の前で南坊城先生を多くの方が待っておられました。私もお待ちしてご挨拶をしました。
・ 「これで能もやるだけやったので一区切りにして、これからは学校にもう少し時間を割いて手伝うよ」と言って頂きました。恐らく61歳という若さで突然亡くなられた奥様への感謝と詫び、無念さなど一切合財が今日の「経正」にぶつけて来られたのですね。そのように私は思いました。
・ この半年、この日の為に集中されていましたから、私には先生のお気持ちが分かるのです。「多くの人に感動と感激」を与えていただいて有難う御座いました。しかしさすがですね。ここまで能楽を極められるなど私など足元にも及びません。「すごいお方」です。