・ 大学の「指定校推薦の提出資料締め切り日」を進路指導部が読み誤って「あわや一大事、大惨事」となるところだった。ぎりぎりで気づいたから「助かった」。本当に「危機一髪」であった。私は「激怒」に近い「叱り方」をした。それは昨年も同じようなことがあったからである。「生徒の人生」がかかっているのだ。「済みませんでした」では済まない話なのである。もし大変なことになったら「懲戒処分」に相当する。勿論責任は私にある。
・ 次は事務の職員に対しての「怒り」である。これも「かなり怒った」。新武道館からみで某建設会社から9月12日の私のブログに「中にはおごりや過信を感じるものもあった」と書いたことに対して「それはうちのことでしょうか?」とかの電話があったというのだ。今朝の法人朝会でその事実を知った。
・ この電話に対して詳細の受け答えは知らないが「そうかも知れません」とかいうようなニュアンスで言いましたと言ったから私は「開いた口が塞がらなかった」。日記に書いたのは「私の感想」であり何処の会社とかは一切書いてはいない。不特定の形にしているし複数の会社かも分からない。
・ それを管理職でもない一職員の分際で私の書いたものを論評して当事者に言うとは何事かと厳しく指導したのである。早速先方に電話して「謝罪と訂正」をするようにと厳命した。微妙な時期だけに本件の窓口は慎重が上にも慎重でなければならない。「社会人の常識」だろう。
・ 「それは知りません。理事長のブログですから私が書いたものではないし私に聞かれてもご返事のしようがありません」と答えるのが一般人の常識だ。それを「そうかも知れません」とは何事か。先方に申し分けないことをした。
・ 次も今朝の事件だ。今ある事がきっかけで「正門からの出入り管理を強化」している。そのために従来からの警備員に加えて別の警備会社に委託して「ガードマン」を1名増強している。「不審者の侵入防止」が目的である。
・ ところが10時35分頃にたまたま用事があって事務室に行くと門塀扉は開いたまま誰もいないのである。なんと二人は部屋で「お茶」にしていたのである。「お茶の時間」は構わない。しかしどうして門を開けっぱなしにして二人が同時にお茶にするのか。
・ 「門管理の厳重さ」など「何処吹く風」である。これでは高いお金を支払って防止している意味は無いではないか。当然私は「怒った」のである。「怒りに震える」とまでは行かないが怒ったのである。
・ ここで私が「怒るという行為」をすることを論考してみよう。怒るのは当然ではないのか。「怒る」と言う行為をしなければならないのではないのか。「怒ることは私の責任」ではないのか。このように私は思うのだ。
・ これが水戸黄門みたいに「これ、助さん、格さんや、教えてやりなさい」などと温厚に言うことも出来るのだろうが、相手は子どもや関係ない一般の民衆ではない。「本校の教職員」であり「契約」を結んだビジネスの相手である。言ってみれば「プロ」なのである。
・ まして今回は警備会社の幹部を校長室に呼び、趣旨を徹底してお話して、教職員には職員会議で説明した極めて重要な事案である。それが「いい加減」に成されている現実には「温厚」を通り越して「怒りに震える」ことはそれでもいけないことなのでろうか。笛吹けど踊らずである。進路の失敗は3回目である。
・ 怒った後では当然私も「気持ちの良い」ものではない。しかし私は「怒ることが仕事」だと思っている。良く言う言葉に「叱るのは良いが怒ってはいけない」などというが結局は同じことだろう。
・ 叱るのは教え諭す意味があるが「怒るは感情の発露」でありそれは良くないと知ってはいるが分かっていても「人間は怒る」ものではないのか。今まで怒ったことなどないという人もいるらしいが、それこそ「人それぞれ」ではないのか。
・ 9月15日の産経に次のような記事があった。小学生の息子が怪我をして病院につれて行ったが3歳年下の息子が待合室で騒ぐので、その都度騒ぐので注意はしていたが初対面の男性に「口先だけの注意でよいのか」と「怒鳴られた」という。
・ 強い衝撃を受けると共に言葉に出来ない寂しさに襲われたという。帰宅後その子は「お母さん、おじさんに叱られちゃってごめんなさい」と泣いていたという。結果的には「反省する良い機会」になったといっているのだが後は怒られたことへのやるせなさの言葉が並んでいるだけである。
・ そして今日の同じ産経にこの記事に対してある投書者は以下のように言っている。「怒られるのも成長の糧では」というものだ。「良くぞ怒ってくれた」と拍手を送りたい。母親が何度注意してもきかなかったが「他人が怒るとピタッと悪さを止める」。「今の子どもはそのような体験が少な過ぎ、大人を尊ぶ気持ちに欠けている」と思うとまで書かれている。
・ 冒頭私が書いた「怒り」とこの病院待合室の話は幾分異なるが「怒る」という行為は「事態の迅速な是正」に大きく効果はある。しかしこの怒りというのは「腹を立てる」「立腹」「かっとなる」「頭にくる」と一般的には良いものとはされていない。
・ 宗教では怒りを人間の最もネガティブの感情と捉え憤り、怒ることを「憤怒」という。キリスト教でも「七つの大罪」の一つとされている。一方「神は往々にして怒る存在」であり、「神の怒りに触れないで」という言葉の使い方があるくらいである。
・ 怒りとは感情の一つであり何らかの「不満・不平に対する感情的な反応」である。冒頭の私の怒りは「あれほど尽くして説明し、大事なお金を使ってまでいるのに」という不満である。
・ 後者の病院での出来事はこういう病院の待合室という公共的施設での子どもの振る舞いはすべて「親に責任がある」のであって、一向に親の言うことを聞かない子どものために親に向けた不満である。新聞記事には親に言ったとある。
・ 怒りは正常な判断力を麻痺させるとか生物的には「低次元の反応」とか色々言うが怒りが自分のエネルギーとなって「悔しいが頑張る」という「サクセスストーリー」にも成り得ることも皆が知っている。大体映画でも芝居でも「物語」は「怒って、次に行動する」というパターンが多い。
・ 怒りの社会における位置づけは自らの欲求に基づく怒りは「私憤」であるが、今朝の怒りは私憤ではない。病院での出来事もそうだと思う。「病人」の居る病院だ。「言わないことが楽」なのは分かっているが事態の変革のために私とそのおじさんは「言ったのである。」
・ 薬害肝炎や社会保険庁の消えた年金、後期高齢者医療問題などは私憤から「社会的怒り」になっていった典型的な例である。ストーブ事件もあった。食品偽装もあった。建物の耐震強度のごまかしもあった。JR西日本の脱線事故の被害者家族の怒りはものすごいものがある。
・ 個人の蓄積された怒りが「集団で社会不満」に繋がっていくと「暴動」になり、「革命」となる。今回の自民党の惨敗は国民の「怒りの発露」という識者は少なくない。「個人の怒りの集合体」が政権交代に繋がったと私も思う。
・ 哲学者の三木清は「怒りを肯定的」に捉えている。「人生論」や「怒りについて」という章まで設けて論じているのだがかれは怒りが否定的に捉えられている現状を認めつつ、「怒りと憎しみの混同」を問題視しているのだ。
・ 確かに似通ってはいるが「憎しみが極めて個人的な負の感情」であるのに対して怒りは突発的であり、それだけに「純粋なより深いもの」だというのである。私はこの「三木先生の言葉に救われる」。
・ 進路指導部や事務室や正門管理の警備の専門家がいい加減な仕事ぶりで私が「怒った」ことは「憎くて」言ったのではない。多分に「突発的であり瞬時の是正勧告」である。そしてこれをひきずらないということが重要である。「すべての責任は私が取る」。だから怒る。当たり前であろう。責任を放棄出来るなら怒ることはない。そのほうが本当は楽なのである。
・ 次は事務の職員に対しての「怒り」である。これも「かなり怒った」。新武道館からみで某建設会社から9月12日の私のブログに「中にはおごりや過信を感じるものもあった」と書いたことに対して「それはうちのことでしょうか?」とかの電話があったというのだ。今朝の法人朝会でその事実を知った。
・ この電話に対して詳細の受け答えは知らないが「そうかも知れません」とかいうようなニュアンスで言いましたと言ったから私は「開いた口が塞がらなかった」。日記に書いたのは「私の感想」であり何処の会社とかは一切書いてはいない。不特定の形にしているし複数の会社かも分からない。
・ それを管理職でもない一職員の分際で私の書いたものを論評して当事者に言うとは何事かと厳しく指導したのである。早速先方に電話して「謝罪と訂正」をするようにと厳命した。微妙な時期だけに本件の窓口は慎重が上にも慎重でなければならない。「社会人の常識」だろう。
・ 「それは知りません。理事長のブログですから私が書いたものではないし私に聞かれてもご返事のしようがありません」と答えるのが一般人の常識だ。それを「そうかも知れません」とは何事か。先方に申し分けないことをした。
・ 次も今朝の事件だ。今ある事がきっかけで「正門からの出入り管理を強化」している。そのために従来からの警備員に加えて別の警備会社に委託して「ガードマン」を1名増強している。「不審者の侵入防止」が目的である。
・ ところが10時35分頃にたまたま用事があって事務室に行くと門塀扉は開いたまま誰もいないのである。なんと二人は部屋で「お茶」にしていたのである。「お茶の時間」は構わない。しかしどうして門を開けっぱなしにして二人が同時にお茶にするのか。
・ 「門管理の厳重さ」など「何処吹く風」である。これでは高いお金を支払って防止している意味は無いではないか。当然私は「怒った」のである。「怒りに震える」とまでは行かないが怒ったのである。
・ ここで私が「怒るという行為」をすることを論考してみよう。怒るのは当然ではないのか。「怒る」と言う行為をしなければならないのではないのか。「怒ることは私の責任」ではないのか。このように私は思うのだ。
・ これが水戸黄門みたいに「これ、助さん、格さんや、教えてやりなさい」などと温厚に言うことも出来るのだろうが、相手は子どもや関係ない一般の民衆ではない。「本校の教職員」であり「契約」を結んだビジネスの相手である。言ってみれば「プロ」なのである。
・ まして今回は警備会社の幹部を校長室に呼び、趣旨を徹底してお話して、教職員には職員会議で説明した極めて重要な事案である。それが「いい加減」に成されている現実には「温厚」を通り越して「怒りに震える」ことはそれでもいけないことなのでろうか。笛吹けど踊らずである。進路の失敗は3回目である。
・ 怒った後では当然私も「気持ちの良い」ものではない。しかし私は「怒ることが仕事」だと思っている。良く言う言葉に「叱るのは良いが怒ってはいけない」などというが結局は同じことだろう。
・ 叱るのは教え諭す意味があるが「怒るは感情の発露」でありそれは良くないと知ってはいるが分かっていても「人間は怒る」ものではないのか。今まで怒ったことなどないという人もいるらしいが、それこそ「人それぞれ」ではないのか。
・ 9月15日の産経に次のような記事があった。小学生の息子が怪我をして病院につれて行ったが3歳年下の息子が待合室で騒ぐので、その都度騒ぐので注意はしていたが初対面の男性に「口先だけの注意でよいのか」と「怒鳴られた」という。
・ 強い衝撃を受けると共に言葉に出来ない寂しさに襲われたという。帰宅後その子は「お母さん、おじさんに叱られちゃってごめんなさい」と泣いていたという。結果的には「反省する良い機会」になったといっているのだが後は怒られたことへのやるせなさの言葉が並んでいるだけである。
・ そして今日の同じ産経にこの記事に対してある投書者は以下のように言っている。「怒られるのも成長の糧では」というものだ。「良くぞ怒ってくれた」と拍手を送りたい。母親が何度注意してもきかなかったが「他人が怒るとピタッと悪さを止める」。「今の子どもはそのような体験が少な過ぎ、大人を尊ぶ気持ちに欠けている」と思うとまで書かれている。
・ 冒頭私が書いた「怒り」とこの病院待合室の話は幾分異なるが「怒る」という行為は「事態の迅速な是正」に大きく効果はある。しかしこの怒りというのは「腹を立てる」「立腹」「かっとなる」「頭にくる」と一般的には良いものとはされていない。
・ 宗教では怒りを人間の最もネガティブの感情と捉え憤り、怒ることを「憤怒」という。キリスト教でも「七つの大罪」の一つとされている。一方「神は往々にして怒る存在」であり、「神の怒りに触れないで」という言葉の使い方があるくらいである。
・ 怒りとは感情の一つであり何らかの「不満・不平に対する感情的な反応」である。冒頭の私の怒りは「あれほど尽くして説明し、大事なお金を使ってまでいるのに」という不満である。
・ 後者の病院での出来事はこういう病院の待合室という公共的施設での子どもの振る舞いはすべて「親に責任がある」のであって、一向に親の言うことを聞かない子どものために親に向けた不満である。新聞記事には親に言ったとある。
・ 怒りは正常な判断力を麻痺させるとか生物的には「低次元の反応」とか色々言うが怒りが自分のエネルギーとなって「悔しいが頑張る」という「サクセスストーリー」にも成り得ることも皆が知っている。大体映画でも芝居でも「物語」は「怒って、次に行動する」というパターンが多い。
・ 怒りの社会における位置づけは自らの欲求に基づく怒りは「私憤」であるが、今朝の怒りは私憤ではない。病院での出来事もそうだと思う。「病人」の居る病院だ。「言わないことが楽」なのは分かっているが事態の変革のために私とそのおじさんは「言ったのである。」
・ 薬害肝炎や社会保険庁の消えた年金、後期高齢者医療問題などは私憤から「社会的怒り」になっていった典型的な例である。ストーブ事件もあった。食品偽装もあった。建物の耐震強度のごまかしもあった。JR西日本の脱線事故の被害者家族の怒りはものすごいものがある。
・ 個人の蓄積された怒りが「集団で社会不満」に繋がっていくと「暴動」になり、「革命」となる。今回の自民党の惨敗は国民の「怒りの発露」という識者は少なくない。「個人の怒りの集合体」が政権交代に繋がったと私も思う。
・ 哲学者の三木清は「怒りを肯定的」に捉えている。「人生論」や「怒りについて」という章まで設けて論じているのだがかれは怒りが否定的に捉えられている現状を認めつつ、「怒りと憎しみの混同」を問題視しているのだ。
・ 確かに似通ってはいるが「憎しみが極めて個人的な負の感情」であるのに対して怒りは突発的であり、それだけに「純粋なより深いもの」だというのである。私はこの「三木先生の言葉に救われる」。
・ 進路指導部や事務室や正門管理の警備の専門家がいい加減な仕事ぶりで私が「怒った」ことは「憎くて」言ったのではない。多分に「突発的であり瞬時の是正勧告」である。そしてこれをひきずらないということが重要である。「すべての責任は私が取る」。だから怒る。当たり前であろう。責任を放棄出来るなら怒ることはない。そのほうが本当は楽なのである。