2009年9月19日土曜日

9月19日(土)石原慎太郎「日本よ」


・ 産経新聞の朝刊一面に毎月一回だけ「石原慎太郎氏の評論」が載る。タイトルは「日本よ」という。中々「骨太」のまさに政治家と作家の両方の天分をあわせ有した「一時代の寵児」とも言うべき人物の評論だけに中身が濃い。私はこの記事を読むのを楽しみにしている。理事長職務代理も大好きと聞く。
・ こういう「人物の切り口」すなわち、「物事の見方や考え方」は大変参考になるのだが今月は9月7日であったが、論調は従来と少し違って「恨み節」「嘆き節」みたいな感じがした。
・ 都議会選挙では自民党が惨敗し、続いて国政衆議院選挙でも東京の自民党は惨敗である。自民党の破れを「軽薄無残」と称していた。この軽薄と言う単語を付け加えるところが「文学者」である。
・ 石原慎太郎らしくないといったらそれまでだが、全編「愚痴っぽく」聞こえたのである。いままでこのようなことはなかった。最後の方は「小選挙区制度の弊害」にもの申しているのだが、「何をかいわんや」である。遂4年前は「郵政選挙」で同じ現象が起きて自民党は300議席取ったではないか。
・ この風を得て石原知事は3選され、大きな勢いに乗っていたが「新生東京銀行で大失敗」した。「おごり」だと言われても仕方があるまい。そして知事は「起死回生の一手」として「オリンピック東京誘致」を持ち出してきた。
・ しかし今回の民主党政権の掲げる「生活第一」でオリンピックなどの話は何処かに吹っ飛ぶのではないか。大体国民が今オリンピックを望んでいるとは思えない。皆さんは今オリンピックを誘致したいですか?
・ あんなものは今はどうでも良いというのが私の思いである。すこし知事は感覚がづれている感じだ。石原知事自身、もはや次の選挙は「もうない」ことはご自身が一番ご存知であるはずだ。「石原時代の終焉」が見えてきた感じがする。
・ このブログは石原氏を批判するものではない。今でも「好きな人物」であるから。「好き嫌いの感情」だけはどうしようもない。「裕ちゃん」世代の私などにはこの兄弟は「まばゆく見える存在」であった。「プレ団塊世代の特徴」である。
・ 好き嫌いといえば、今月の9月7日の寄稿で文中石原氏は小選挙区には与党内にあって守旧派の名に甘んじながら最後まで反対を唱えてきた。他の問題についてはかなり「意見を異にする野中広務氏と親しくなった」のもそれがきっかけだったと書いている。
・ それ以外にも文中野中広務氏に言及するところがもう一回あり石原氏としては極めて珍しいことである。同じ保守系にスタンスを取っている政治家ではあるが「右と左の両局にある二人」が「親しい」というのが私の興味をそそる。
・ 9月7日のブログ「書物:差別と日本人」にこの野中広務氏のことを書いているが実はこの中に今度は野中氏が石原氏のことを書いているのを私は思い出したのである。再度本を取り出してみたのである。
・ 辛珠玉氏は「石原慎太郎」の欄をわざわざ作って徹底的に「こき下ろしている」。知事の発した「三国人発言」「障害のある子ども見てああいう子に人格があるのかね」とか出して「石原差別語録」を本当に作っているらしい。
・ これを野中氏に指し示しながら石原追求の手を緩めないのだが野中氏はのらりくらりと「昨晩も石原と飯を食った」と答える。辛氏は「エッ、何で石原さんとご飯食べられるんですか?」と憤慨するのだ。更にこうまで述べている。「私、石原さんみたいな言い方をする人は今までの人生の中でも想像が付かないんですよ」と。
・ これらに対して野中氏の答えが面白い。「いやー、あれは又いい男だから」「何処がいい男なんですか。私にはもう分からない」と述べ、追い込まれた野中氏は最後に「彼にも僕のような忠告できる人間がおらんといかんでしょう」でこの欄は終わっていた。
・ そうなのである。意見の違いは人間性の好き嫌いに関係ないこともあるのだ。普通は「意見の違いが徹底的に憎みあう要因」になるのは人間社会の常である。これがまさに人間社会の「妙味」であろう。昼間激しく憎みあった者同士が夜には席を囲んで楽しく飯を食うということなのであろうが未熟な者には簡単には出来ない相談である。
・ 結局政治の世界は「権謀術数」がうごめく世界で「昨日の敵は今日の友」みたいなことがまかり通る「魑魅魍魎の世界」なのである。民主党実質的オーナーの小沢一郎氏を「悪魔」と呼ぶこの二人石原氏と野中氏は「死んでも飯など一緒に食わない」ことは容易に分かる。
・ ところで「橋下知事」はどうなのであろうか。東の東京都知事と西の大阪府知事が「パワーダウン」となるとこれは又大きな意味合いとなる。過日政令指定都市の堺市の市長選が告示された。自・公・民推薦の現職に前府の職員が出馬した。あれは橋下知事の「刺客」だろうと言う人がいる。面白い見方だ。
・ 知事は過日叫んでいる。「自公民 相乗りくそ食らえ」とまで言ったそうだ。戦国時代から「環濠都市」「自由都市」を標榜してきた「堺衆」が「大阪城の橋下信長」とどう戦うか大変に興味がある。
・ 政令市の大阪市とのごたごたというか調整で「ほとほと」手を焼いている知事は堺と組んで大阪を挟み込もうと言う魂胆ではないかという見方もある。堺市は本校の隣で生徒の多くが通っている因縁浅からぬ土地であるだけに今度の「堺市長選を私は注目」しているのだ。
・ まだ衰えぬ知事の人気とパワーで刺客が勝つか、民主党の勢いに乗って現職が勝つか大変興味深い。しかし自公民相乗りと言ってもまったく機能していないのではないか。最後は「中央に反骨する自由都市 堺衆」の判断だろう。
・ 「私学助成の一方的な削減」を受けた本校の保護者多くが堺市におられる。この方たちはどのように判断されるだろうか。若し知事側が敗れるようなことになれば知事の勢いは「ハイ、これまでよ」となって府庁の移転など吹っ飛ぶかもしれない。知事側が勝利すれば府庁の移転は進むかもしれない。
・ 昨日の新聞には「若し敗れたら謝らないといけなし」し「失うものは大きい」とコメントされたらしい。知事は分かっておられるのだ。宮崎県のあの東国原知事はあれ以来「しゅんたろう」に戻った。もう芽はないだろう。「総理になりたい」と言ったあの増長が自民敗戦への影響が大きかったとも言える。彼はあの一件で終わった。
・ 「栄耀栄華」は短い。石原王国も「日の出の勢い」の橋下さんも正念場を迎えている。本校はまだ栄耀栄華を誇るところまではとても行っていない。私は思うのだ。「発展途上」が良い。「未完成品」が良い。
・ 「一挙に頂点を得る」と時に人間を落とし込む。「おごりと過信」である。「油断大敵」とは本当に上手く言った言葉だ。「ポタリポタリ」と油を少しずつ落としながら「火の消えない」ように「浪速改革」を進めることが重要である。最近そのように思うのである。少し「ギヤチェンジ」を落として新政権の行方と橋下改革の次の手を注視しようと思うのである。