・ 昨日の校長日記において明治の立役者岩倉具視と現民主党幹事長の小沢一郎氏の「悪相」について記した。とにかく顔と言うものは男でも女でも「難しい」ものである。「悪相」などという言葉があること自体「けしからん」話である。
・ もっと酷いのは「醜男」「ブス」とかでこれらは今や差別言葉である。しかし実態として、とにかく生まれながら「美形」と言われるような「顔の造作」が整っていると、その後の人生は如何ばかり「安穏」であろうか。
・ 特に「男の顔は履歴書」と言われて久しい。この言葉は巷間伝えられているように、ジャーナリストの故大宅壮一氏の造語である。男性は一定の年齢を超えたら生き方や心のうちが顔に表れると言う意味であろうが、それならば女性は表れないのかという事に成る。
・ これに対して直木賞作家で本校OBの藤本義一先生は「女性の顔は請求書」と言われたと言うが真偽のほどはともかく、若し本当なら幾分女性蔑視に近い表現ではないか。確かに占い師の細木数子先生などは「見事に当て嵌まる」感じがしないでもないが、一般の女性はそうではあるまい。元来、女性という人種は請求書は嫌いな筈である。
・ そこで私は考えたのである。私なら「女性の顔は領収書」と言う。これは私の造語であり今まで誰も使っては居ないだろう。何故そういうかは単純な理論で女性はとにかく物を貰うのが一般的には大好きだし、領収書を大切に取っておく習性があるように見えるからだけの理由である。男は「ぽいッ」とすぐ捨ててしまう。とにかく女性は物を捨てようとしない。
・ 一方アメリカの随分前の大統領であったリンカーンは「男は40歳になれば自分の顔に責任を持たねばならない」と言ったいう。それだったら40歳前だったら責任はなくて良いのかということになる。
・ しかしだ。世の中の男は40歳を超えようが超えまいが、「アホはアホ」の顔をしていると思わないか?顔を見るだけで「リコウかアホか」は見分けがすぐついてしまうよね。決して顔の造作の問題ではなくて美形でもアホはアホの顔をしています。
・ この前テレビを見ていたら例の覚醒剤事件の酒井法子というタレントのご主人でプロのサーフライダーの職業らしいのだが、高相なんとかという人が警察から仮釈放されて出てきた時にたまたま、この人の顔を観る機会がありました。
・ まず彼は帽子を被って出て来ました。何とその帽子には英語で「PUNK」と書いてあり私は飛び上がって驚いたのです。パンクとは「非行少年、不良少年、くだらない人、下等の人」などの意味で、この人は自ら自分をこのように認めているのです。
・ そして顔には下唇の少し凹んだ部分に「ひげ」を生やしており、まだ暑いというのに両手に手袋をしていました。見るからに「判断力のない」「だらしない」「物事の分かっていない」感じを顔からスタイルから私は受けました。決して「賢そう」ではなかったですね。
・ 特にあの「ひげ」でした。話が少しそれますがどうして男の一部に「ひげ信奉者」がいるのかとその時も考えたのです。まさか「男の顔は履歴書」というからそれから逃げるために生やしているわけでもないでしょうに。それだったら履歴書に「墨を塗る」ことになって、そのような「履歴書は無効」となります。
・ 私は顔の器官でもっとも大切な部分は「目」だと思っています。「大きなクルツとした目」「小さな目」「下がり目」「吊り上り目」などと形を言っているのではなくて「目の力」「目の輝き」「目から出るパワー」と言っても良いでしょう。
・ 結局「顔の力と言うのは目の力」ではないでしょうか。鼻が高いか低いか、口がでかいかおちょぼ口か、などは整形手術でもしない限り、後からでは「どうしようもない」現実ですが「目だけは生き方が出てくる」と私は思うのです。
・ 「目は口ほどにものを言う」ですね。毎日を「ボーッ」と過ごし楽なほうに逃げていると「緩んだ顔」になるのは目に力がないからです。「お金」のことばかり考えている人間の顔は「下卑た感じ」がするものです。幾ら口で上手を言っても目に下品な光が漂っています。
・ 「笑顔」についても言えます。口では笑えません。これは「声に出して笑う」と言います。声の出ない口だけの笑いは「薄ら笑い」と言って歓迎されません。これに対して「目で笑う」のは「慈愛に満ちた優しい笑い」となりませんか。
・ しかしこの笑顔とうのがこれ又「難しい」と思います「笑顔の素敵な人は素晴らしい」。結局顔が履歴書だとしてもそれを「笑顔でオブラート」に包む人間的優しさとか余裕が重要となって来ます。
・ 本校の教職員のお顔を思い浮かべながら私は思うのです。教師ということを「誇り」にして苦労や悩みがあっても「生徒と向き合う」ことが大好きな先生の目は輝いています。余り美男とは言えない男性教師でも、余り美人とは言えない女性教師でも「美しく」見えます。それは「目に力」があるからです。
・ ところが「もう疲れた」「もうええわ、次の仕事でも考えるか」などと思っている人の目は幾ら隠しても分かるものです。背中から勢いが消えています。「眼光後背に達する」でしょう。
・ 「サボることだけ考えて学校からとにかくお金をせしめる」ことが思考の最初に来る人の目はもはや教育者ではありません。私は教育に従事する人間の顔は「不細工」でも良いと思っています。美人でもハンサムでもどうでも良いことです。
・ 大切なことは時に生徒に厳しく当たることは当然あって良いが「慈愛に満ちた目で生徒を包み込む」人間性に溢れた先生を育成して参りたい。「目に力」があって「笑顔の素敵な先生」になって欲しいと念願しているのです。
・ このように言うと「理事長は笑顔が好きらしい」と言って、私の前で「作り笑い」をしても私には通用しませんよ。目です、目です。目を見たら分かります。目が笑っていないのです。
・ ところが肝心の私が岩倉具視や小沢一郎先生みたいに「笑顔」が余り出ないと来ている。困ったものです。笑顔も訓練と思って今朝も家を出るときに鏡に向かって「笑顔の訓練」をしたところなのです。
・ もっと酷いのは「醜男」「ブス」とかでこれらは今や差別言葉である。しかし実態として、とにかく生まれながら「美形」と言われるような「顔の造作」が整っていると、その後の人生は如何ばかり「安穏」であろうか。
・ 特に「男の顔は履歴書」と言われて久しい。この言葉は巷間伝えられているように、ジャーナリストの故大宅壮一氏の造語である。男性は一定の年齢を超えたら生き方や心のうちが顔に表れると言う意味であろうが、それならば女性は表れないのかという事に成る。
・ これに対して直木賞作家で本校OBの藤本義一先生は「女性の顔は請求書」と言われたと言うが真偽のほどはともかく、若し本当なら幾分女性蔑視に近い表現ではないか。確かに占い師の細木数子先生などは「見事に当て嵌まる」感じがしないでもないが、一般の女性はそうではあるまい。元来、女性という人種は請求書は嫌いな筈である。
・ そこで私は考えたのである。私なら「女性の顔は領収書」と言う。これは私の造語であり今まで誰も使っては居ないだろう。何故そういうかは単純な理論で女性はとにかく物を貰うのが一般的には大好きだし、領収書を大切に取っておく習性があるように見えるからだけの理由である。男は「ぽいッ」とすぐ捨ててしまう。とにかく女性は物を捨てようとしない。
・ 一方アメリカの随分前の大統領であったリンカーンは「男は40歳になれば自分の顔に責任を持たねばならない」と言ったいう。それだったら40歳前だったら責任はなくて良いのかということになる。
・ しかしだ。世の中の男は40歳を超えようが超えまいが、「アホはアホ」の顔をしていると思わないか?顔を見るだけで「リコウかアホか」は見分けがすぐついてしまうよね。決して顔の造作の問題ではなくて美形でもアホはアホの顔をしています。
・ この前テレビを見ていたら例の覚醒剤事件の酒井法子というタレントのご主人でプロのサーフライダーの職業らしいのだが、高相なんとかという人が警察から仮釈放されて出てきた時にたまたま、この人の顔を観る機会がありました。
・ まず彼は帽子を被って出て来ました。何とその帽子には英語で「PUNK」と書いてあり私は飛び上がって驚いたのです。パンクとは「非行少年、不良少年、くだらない人、下等の人」などの意味で、この人は自ら自分をこのように認めているのです。
・ そして顔には下唇の少し凹んだ部分に「ひげ」を生やしており、まだ暑いというのに両手に手袋をしていました。見るからに「判断力のない」「だらしない」「物事の分かっていない」感じを顔からスタイルから私は受けました。決して「賢そう」ではなかったですね。
・ 特にあの「ひげ」でした。話が少しそれますがどうして男の一部に「ひげ信奉者」がいるのかとその時も考えたのです。まさか「男の顔は履歴書」というからそれから逃げるために生やしているわけでもないでしょうに。それだったら履歴書に「墨を塗る」ことになって、そのような「履歴書は無効」となります。
・ 私は顔の器官でもっとも大切な部分は「目」だと思っています。「大きなクルツとした目」「小さな目」「下がり目」「吊り上り目」などと形を言っているのではなくて「目の力」「目の輝き」「目から出るパワー」と言っても良いでしょう。
・ 結局「顔の力と言うのは目の力」ではないでしょうか。鼻が高いか低いか、口がでかいかおちょぼ口か、などは整形手術でもしない限り、後からでは「どうしようもない」現実ですが「目だけは生き方が出てくる」と私は思うのです。
・ 「目は口ほどにものを言う」ですね。毎日を「ボーッ」と過ごし楽なほうに逃げていると「緩んだ顔」になるのは目に力がないからです。「お金」のことばかり考えている人間の顔は「下卑た感じ」がするものです。幾ら口で上手を言っても目に下品な光が漂っています。
・ 「笑顔」についても言えます。口では笑えません。これは「声に出して笑う」と言います。声の出ない口だけの笑いは「薄ら笑い」と言って歓迎されません。これに対して「目で笑う」のは「慈愛に満ちた優しい笑い」となりませんか。
・ しかしこの笑顔とうのがこれ又「難しい」と思います「笑顔の素敵な人は素晴らしい」。結局顔が履歴書だとしてもそれを「笑顔でオブラート」に包む人間的優しさとか余裕が重要となって来ます。
・ 本校の教職員のお顔を思い浮かべながら私は思うのです。教師ということを「誇り」にして苦労や悩みがあっても「生徒と向き合う」ことが大好きな先生の目は輝いています。余り美男とは言えない男性教師でも、余り美人とは言えない女性教師でも「美しく」見えます。それは「目に力」があるからです。
・ ところが「もう疲れた」「もうええわ、次の仕事でも考えるか」などと思っている人の目は幾ら隠しても分かるものです。背中から勢いが消えています。「眼光後背に達する」でしょう。
・ 「サボることだけ考えて学校からとにかくお金をせしめる」ことが思考の最初に来る人の目はもはや教育者ではありません。私は教育に従事する人間の顔は「不細工」でも良いと思っています。美人でもハンサムでもどうでも良いことです。
・ 大切なことは時に生徒に厳しく当たることは当然あって良いが「慈愛に満ちた目で生徒を包み込む」人間性に溢れた先生を育成して参りたい。「目に力」があって「笑顔の素敵な先生」になって欲しいと念願しているのです。
・ このように言うと「理事長は笑顔が好きらしい」と言って、私の前で「作り笑い」をしても私には通用しませんよ。目です、目です。目を見たら分かります。目が笑っていないのです。
・ ところが肝心の私が岩倉具視や小沢一郎先生みたいに「笑顔」が余り出ないと来ている。困ったものです。笑顔も訓練と思って今朝も家を出るときに鏡に向かって「笑顔の訓練」をしたところなのです。