2009年9月21日月曜日

9月21日(月)その1:石田三成の旗印











・ 昨夜のNHK大河ドラマは「関が原」でドラマ中盤の見所であった。とにかくこのドラマは言いようがないくらい面白い脚本になっている。「劇画タッチ」と言うものではなく、さりとて「漫画調」でもなく、何て表現したら良いのだろう。やはり前に書いたように「青春群像涙物語」だろう。
・ 昨日の見所は「小早川秀秋15000の裏切り」であった。名前は知らないが確か「お馬鹿キャラ」で売っているタレントで気が弱く、優柔不断な性格を上手く出していた。関が原の裏切りで後世名を残すことになったからあの世でも秀秋は満足だろう。家康のわき腹の秀秋と後ろの毛利が動けば歴史は変わっていたのにと思うが、それも「ればたら」の話だ。
・ それともう一つ「福島正則」演じる石原良純だ。余り賢そうにない福島の面をあの顔で上手く表現していた。本当に賢くないのかと思うくらいだった。石原知事は前に何かのテレビで実は子どもの石原3兄弟で最も「IQが良いのは良純」だと言っていたが、「なるほど」と思うような演技であった。しかし大体あの顔は三成や兼継を演ずる俳優と根本的に「顔の造作」が違う。
・ さて石田三成であるが「どうなんだろう」。結局小早川、毛利に裏切られた形で「敗残」するのだがこういうタイプは「味方と敵」がはっきりするのだろう。好かれる者には徹底低に好かれ、嫌われる者には徹底的に嫌われる。頭が良すぎるのも考えものだ。
・ 「戦国武将」振りを発揮していた三成の親友「大谷吉継と宇喜田秀家」が良かったなー。特に宇喜田秀家は今、堺屋太一氏の新聞小説「3人の2代目」の描かれつつあるが面白い人物です。
・ 昨日のテレビでも秀秋の裏切りに激怒し「叩き切ってやる」と息巻いていましたね。八丈島に流され83歳まで生きた秀家は関が原生き残りの最後の人物となりました。死んだ時には徳川は4代目の家綱の時代ですから「最後の勝者」かも知れません。死ぬまで八丈島を出ようとはしませんでした。こういうところも好きです。
・私は西軍のほうに圧倒的に「人間味」を感じますね。上杉景勝、直江兼継も西軍です。「敗れるものに心が動く」のです。源義経、楠木正成、平家物語、豊臣、滅亡するものに「情」が騒ぎます。三成の腹心「島左近」も良かった。
・ 関が原で両軍入り乱れて合戦シーンがあり、見ごたえがありました。このときに三成の「旗指物」に奇妙なマークと言うか文字がありました。あれは「読めません」でした。私は石田三成の家紋を知らなかったのですが、あれが有名な「旗印」だと言う。
・ 「大一大万大吉」と言って有名なものだと知りました。「大とは天下を意味するものなり、天下のもと一人が万民のために万民が一人のために命を注げばすべての人間の人生は吉となり太平の世が訪れる。故に人間が変われば世もまた変わる」というものです。いかにも三成らしい。テレビとあのイケメン俳優の影響もあるのでしょうが、この字が入った携帯ストラップやキーホルダーが今売れに売れているそうです。
・ 「本校の旗印もカッコ良い」と思います。まず中学校は大正12年(1923)旧制浪速中学校設立時に制定したものであり、「八咫鏡(やたのかがみ)」をかたちどった縁取の中に「」の字を置いたものです。
・ 「」の字にあしらわれた「横一点」は当時の書家が美的バランスで入れたものかあるいは古代中国の銘文から取ったものかつまびらかではないし今となっては探る気もありません。私はこの「中の字」を大変気に入っているのです。
・ 高校は昭和23年の学制改革により旧制浪速中学校が浪速高等学校に改称されたときに採用されたもので外形は中学と同じで中に「」の字を置いたものです。高の字はやはり古代中国の金文の書体を模して定められたと考えられ、特に高の字体が良い。ただこの高校の校章は「高島屋デパート」の店章(?)とよく似ているのが少し引っかかります。
・ 「八咫鏡」は皇室三種の神器の一つで「神鏡(しんきょう)」「賢所(かしこどころ)」とも言います。日本書紀や古事記には天照大神の岩戸隠れに際に作られたもので現在は「伊勢神宮の内宮の奥深いところに奉置」されているといわれています。
・ ところで石田三成の辞世の歌ですがこれが大変素晴らしい。「筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり」です。筑摩(ちくま)は「つくま」とも読み古来の琵琶湖東側の地名で近江出身の三成の故郷ですね。
・ 最後の領地「佐和山城」があり、秀吉との出会いの場所でもあったところです。ある読み人はこの“かがり火”を秀吉と置き換えて読むべしと書いています。「なるほど、なるほど」と思うわけです。自分は秀吉とともに消えるというのです。
・ 巧妙な卑怯なやり方で三成を葬った徳川家康は関が原のあと300年続くわけですが当然徳川を正当化するために「石田三成悪者論」を展開します。しかし今こそ「三成再評価」をすべきと私は考えます。
・ 徳川の時代でも「水戸の光圀」は「三成の評価」をしているし三成の「義を貫く精神」は立派ですよ。私はこの3月に三成の居城であった「佐和山城址」に行ってきましたが何もなくなっていました。私はすぐ行動します。
・ 徳川四天王の一人井伊直政は一旦は焼け落ちた佐和山城に入ったが三成居城であったことを嫌い近くの彦根に城を築くことになる。これが現在の「彦根城」で石垣の石、材木など一切合切を佐和山城から持ち去ったといいます。「敗者無残」です。
・ とにかく「裏切り」はいけません。どんなことがあっても「裏切り」だけはいけません。「人間の道を外している」からです。豊臣恩顧の子飼の大名、小早川秀秋、福島正則、浅野幸長などが結局主君の家をつぶしました。特に秀秋が行けません。
・ 家康が潰したというより豊臣恩顧の大名が「浅はか」でつぶしたのでしょう。それに立ち向かって行った石田三成は歴史的にもっと評価されて然るべきだと私は思います。「義に生きる」ということは巣晴らしことだと思います。しかし一方ではそうは言っても三成が豊臣家のを滅亡を早めたことも歴史の事実ですね。歴史は難しい。従って受け入れるしかないのですね。
・ 学校社会に小早川秀秋みたいな「裏切り」はあるかどうか。それがあるのです。本日のブログその2に軽く書いてみます。