・ 「 新型インフルエンザで学校行事を中止」して、予定がこのように「ぽっこり」と空いてしまうと、いまさら自宅にも帰れず、どこにも行けず、家で「ボーッ」と本を読んだり、テレビを見たり、映画のビデオを観たりでありますが、それでも「時間を持て余し」てしまいます。
・ こう言う時にはついつい「昔のことを思い出す」のです。忙しいときは走り回っていて昔を思い出すことは多くはないのですが、このように時間が出てくると「厭な辛い思い出」が出てくるのです。それは4年前に私が府立高校勤務時代に起きた事件についてです。
・ 私は昔の映画のビデオを取り出して観ました。「君よ憤怒の河を渉れ」です。1976年に公開された西村寿行原作の映画で主演は高倉健さんです。助演には原田芳雄、中野良子、大滝秀治、池部良、倍賞美津子、西村晃など実力派が揃っている素晴らしい映画です。
・ あらすじは現職検事であった高倉健が「無実の罪」を着せられ逃亡します。健さんの上司の池部良は無実を信じず「検察・警察の対面」だけを考え刑事の原田芳雄を逮捕に差し向けます。「追うものと追われるものとの執念」がぶつかる息も付かせない映画で骨太の健さんと原田が超カッコ良いのです。
・ 私はこの映画を観るのは4年前、私が民間人校長として府立高校時代にあった「裏切り」にあったことを思い出し、「私の決意を再確認」するためです。私は「君よ憤怒の河を渉れ」ではなくて、「すでに河を渉っている」のであります。
・ ところで9月7日のブログ「怒りについて」は結構反響があり「当たり前」だ、「怒って当然」という多くのご意見を多くのモニターから頂きました。しかしここに書いている様な怒りなどは橋下知事ではないですが「屁みたいな怒り」で何てことはありません。もう何だったか忘れているくらいですから。
・ 「憤怒」は「忿怒」とも書き、「ふんぬ」「ふんど」とも読み、「ひどく怒ること」です。「怒りを通り越している」と言った方が良いかも知れません。事件のことについては今は何も言う積もりはありません。
・ しかし「当時の教育長と教育監の二人は絶対に許さない」と思い続けているのです。この二人から受けた「裏切り」は生涯忘れることはないでしょう。一人は竹内脩といって現在枚方市の市長であり、もう一人成山と言って確か某大学の理事か何かをしているはずです。
・ とにかくこの二人に対しては「怒りを超えて憤怒」の気持ちでそれも日に日に募ってくると言った方が良いでしょうか。私は将来この二人を追いつめて「決着を付け」自分自身に納得を付けたいのです。そうでもしなければ「武士の一分」が立ちません。
・ 要請を受けて企業を退職し、大阪府最初の民間人校長として「難しい学校」に赴任し「学校改革」で戦っていた私に「後ろから鉄砲を撃ってきたのがこの二人」です。この二人に裏切られた「無念さ」は私の心の奥底をえぐり取るように今でもうずいています。
・ 「私憤」だと言われるのは不本意ですが、今となってはそのようなことはどうでも良くて、私は一生かけて「許さない覚悟」を決めているのです。今は私立学校の経営をしており、公職にある身ですから当然控えていますが、一時もこの二人に対する憤怒は忘れたことはありません。
・ ところで9月8日のブログには「平松市長」のタイトルで兼ねてから知り合いの府議会議長就任パーティに出席した模様を書いています。その席には府教委の中西教育長が来られており、私のテーブルにわざわざご挨拶に来ていただいて恐縮しました。
・ その時に私は言わなくとも良いのに教育長に「アホ」なことを言いました。「あの二人は許しませんから、会う機会でもあれば言っておいてください」と。当時の経緯は当時の教育次長で現在の教育長である中西さんとその日の主役であった府議会議長の朝倉秀実先生が最もよくご存知です。
・ 皆さんにとって「憤怒の対象」はありますか?居なければそれほど幸せなことはありません。しかし「私には決して許すことに出来ない憤怒の対象がこの世の中に二人」居るのです。
・ 当時の某大手新聞社の記者がこの事件の報道で私に何回も取材に来て、「竹内教育長はこの事件を結果として自ら仕組んで起こしせしめたという事実が明らかになっていくにつれて、目が泳ぎ、茫然自失で見てられませんよ」と言った言葉を今でも思いだすのです。
・ この二人は某私学の理事長から「高級料亭で接待」を受けたり、「教育委員会の裏金作り」が次か次と出てきたりして当時大騒ぎになりましたが、このような「品のない卑怯な男」であるだけに私は尚更許せないのです。
・ 男は「裏切り」にあうことは「面目」あることではありません。「向こう傷は勲章」ですが背中から切られるのはこの上ない不名誉なことなのです。「小早川秀秋」ではないですが天下分け目の学校改革に先頭で戦っていた私に、味方だと思っていたこの二人が後ろから鉄砲玉を撃ってくるとはまさか思いもよりませんでした。
・ 「君よ憤怒の河を渉れ」ではなくて「私は憤怒の河をすでに渉って」おり、歳を取るとともに憤怒が蓄積されてくるのです。追われる高倉健さん、追う原田芳雄さんみたいにカッコ良くないですが、一人の男として私が死ぬ前までにはこの二人に「けじめ」はつけようと決意しているのです。明日はこれまた有名な映画「復讐するは我にあり」のビデオを見るつもりです。
・ こう言う時にはついつい「昔のことを思い出す」のです。忙しいときは走り回っていて昔を思い出すことは多くはないのですが、このように時間が出てくると「厭な辛い思い出」が出てくるのです。それは4年前に私が府立高校勤務時代に起きた事件についてです。
・ 私は昔の映画のビデオを取り出して観ました。「君よ憤怒の河を渉れ」です。1976年に公開された西村寿行原作の映画で主演は高倉健さんです。助演には原田芳雄、中野良子、大滝秀治、池部良、倍賞美津子、西村晃など実力派が揃っている素晴らしい映画です。
・ あらすじは現職検事であった高倉健が「無実の罪」を着せられ逃亡します。健さんの上司の池部良は無実を信じず「検察・警察の対面」だけを考え刑事の原田芳雄を逮捕に差し向けます。「追うものと追われるものとの執念」がぶつかる息も付かせない映画で骨太の健さんと原田が超カッコ良いのです。
・ 私はこの映画を観るのは4年前、私が民間人校長として府立高校時代にあった「裏切り」にあったことを思い出し、「私の決意を再確認」するためです。私は「君よ憤怒の河を渉れ」ではなくて、「すでに河を渉っている」のであります。
・ ところで9月7日のブログ「怒りについて」は結構反響があり「当たり前」だ、「怒って当然」という多くのご意見を多くのモニターから頂きました。しかしここに書いている様な怒りなどは橋下知事ではないですが「屁みたいな怒り」で何てことはありません。もう何だったか忘れているくらいですから。
・ 「憤怒」は「忿怒」とも書き、「ふんぬ」「ふんど」とも読み、「ひどく怒ること」です。「怒りを通り越している」と言った方が良いかも知れません。事件のことについては今は何も言う積もりはありません。
・ しかし「当時の教育長と教育監の二人は絶対に許さない」と思い続けているのです。この二人から受けた「裏切り」は生涯忘れることはないでしょう。一人は竹内脩といって現在枚方市の市長であり、もう一人成山と言って確か某大学の理事か何かをしているはずです。
・ とにかくこの二人に対しては「怒りを超えて憤怒」の気持ちでそれも日に日に募ってくると言った方が良いでしょうか。私は将来この二人を追いつめて「決着を付け」自分自身に納得を付けたいのです。そうでもしなければ「武士の一分」が立ちません。
・ 要請を受けて企業を退職し、大阪府最初の民間人校長として「難しい学校」に赴任し「学校改革」で戦っていた私に「後ろから鉄砲を撃ってきたのがこの二人」です。この二人に裏切られた「無念さ」は私の心の奥底をえぐり取るように今でもうずいています。
・ 「私憤」だと言われるのは不本意ですが、今となってはそのようなことはどうでも良くて、私は一生かけて「許さない覚悟」を決めているのです。今は私立学校の経営をしており、公職にある身ですから当然控えていますが、一時もこの二人に対する憤怒は忘れたことはありません。
・ ところで9月8日のブログには「平松市長」のタイトルで兼ねてから知り合いの府議会議長就任パーティに出席した模様を書いています。その席には府教委の中西教育長が来られており、私のテーブルにわざわざご挨拶に来ていただいて恐縮しました。
・ その時に私は言わなくとも良いのに教育長に「アホ」なことを言いました。「あの二人は許しませんから、会う機会でもあれば言っておいてください」と。当時の経緯は当時の教育次長で現在の教育長である中西さんとその日の主役であった府議会議長の朝倉秀実先生が最もよくご存知です。
・ 皆さんにとって「憤怒の対象」はありますか?居なければそれほど幸せなことはありません。しかし「私には決して許すことに出来ない憤怒の対象がこの世の中に二人」居るのです。
・ 当時の某大手新聞社の記者がこの事件の報道で私に何回も取材に来て、「竹内教育長はこの事件を結果として自ら仕組んで起こしせしめたという事実が明らかになっていくにつれて、目が泳ぎ、茫然自失で見てられませんよ」と言った言葉を今でも思いだすのです。
・ この二人は某私学の理事長から「高級料亭で接待」を受けたり、「教育委員会の裏金作り」が次か次と出てきたりして当時大騒ぎになりましたが、このような「品のない卑怯な男」であるだけに私は尚更許せないのです。
・ 男は「裏切り」にあうことは「面目」あることではありません。「向こう傷は勲章」ですが背中から切られるのはこの上ない不名誉なことなのです。「小早川秀秋」ではないですが天下分け目の学校改革に先頭で戦っていた私に、味方だと思っていたこの二人が後ろから鉄砲玉を撃ってくるとはまさか思いもよりませんでした。
・ 「君よ憤怒の河を渉れ」ではなくて「私は憤怒の河をすでに渉って」おり、歳を取るとともに憤怒が蓄積されてくるのです。追われる高倉健さん、追う原田芳雄さんみたいにカッコ良くないですが、一人の男として私が死ぬ前までにはこの二人に「けじめ」はつけようと決意しているのです。明日はこれまた有名な映画「復讐するは我にあり」のビデオを見るつもりです。