2009年8月18日火曜日

8月18日(火)「米百俵」


・ 遂に第45回衆院選が「告示」された。先月21日の解散以来事実上の選挙戦に突入しており、与党の自民・公明と「政権奪取を狙う民主党」の攻防はいよいよ「最終局面」である。しかし「選挙ほど面白いものは無い」。「胸が躍る」感じだ。小さい頃から政治家になりたかったから尚更である。何か「うらやましい」のだ。
・ 昨日17日には東京の内幸町の記者クラブで「主要6党の党首討論会」があり経済、安全保障など論戦が交わされたが、何か民主党の鳩山総理を前提にした討論会の様相だったとして各紙が報道している。
・ しかしだ。まったく「教育問題」の議論はなかった。今朝の新聞すべてを見たがどこにも無いのだ。これが「社会の現実の姿」「政治家の姿」なのである。私は憤って言っているのではない。結局「教育は後回し」なのである。
・ 「大衆迎合の政治」では目先の「ばら撒き」にどうしてもなり、効果の出るのに時間のかかる教育問題は「票にはならない」のだろう。しかしこれは間違っている。余程の腕力のある政治家なり圧倒的に強い政党で無ければ「無限の教育問題」に税金は使えないのである。
・ もう一つの大きな問題はどの党首も民主党の危うい「教育改革の方向性」を質そうとする人はいなかったのである。しかしこれは後々大きな問題となろう。世界が「社会民主主義的」な流れの中で民主党の教育改革の方向性は大いに議論があってしかるべきであった。
・ 私は今回の「政権選択」の選挙の最大の論点は「教育問題」にあると思う。大体経済も安全保障も生活保護も自民党と民主党で大きな違いはない。80%程度同じではないか。ただ本質的に両党が抱える「教育問題への姿勢が根本的に水と油」で異なると見ている。
・ 自治労、日教組など組合を支援団体に持つ民主党はここ数年進めてきた「教育改革路線」を踏襲するとはとても思えないからである。小泉内閣から安部内閣と進めてきた教育改革の反動として民主党政権でゆり戻されないかとても心配なのである。
・ 「教育こそ国家百年の大計」であり、政治家が最も重要視すべきテーマである。英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権以来「教育立国」で両国は立ち直った。しかし日本はいまだに先進各国の中で公的助成も少なく最も教育改革に遅れをとっている。
・ 先のブログで越後長岡のことを書いたが長岡と言えばもう一つ「米百俵」のことに触れないわけにはいかない。この米百俵を一躍有名にしたのは元総理大臣であった小泉さんであった。首相就任演説で「改革の痛みを我慢する」と言う例で引用したものだったと思う。
・ 「戊辰戦争」で敗れた長岡藩に三根山藩(新潟県巻町)から「百俵の米」が贈られた。激しい窮乏の中で百俵の米は数日でなくなるのでは意味はないと若い藩士「小林虎三郎」はこの百俵を将来の千俵、万俵として「生かすために「学校設立資金」に使ったと言う。
・ 設立された「国漢学校」は後に幾多の人材を育て上げることになった。今の痛みに耐えて明日を良くしようと言う「米百俵の精神」こそ改革に立ち向かう者にとって重要なことである。 小林虎三郎は1928年長岡藩士の三男として生まれ河井継之助より1歳年下。佐久間象山に学び吉田寅次郎(松蔭)と「二トラ」と言われた秀才であったが生来の病弱で明治10年に50歳で生涯を閉じている。
・ しかしこの一事だけで今日に至るまで日本の歴史にその名を刻まれている。どちらかと言うと海外での評価が高い人物と言う。確かに欧米人にはこの種の話は好まれる。上杉鷹山も然りだ。
・ 特に「路傍の石」や「真実一路」で有名な小説家「山本雄三」が尊敬する長岡市の「山本五十六」を調べている時に「河井継之助」を知り小林寅三郎という人物にたどり着いたという。これで「米百俵という戯曲」を書いたことから、この話が広まっていったとものの本にはある。
・ 長岡市のホームページには「国が興るのも町が栄えるのもことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て人物を養成す」のだという寅三郎の主張は「目先のことにとらわれず、明日を良くしよう」となっている。
・ これに対して確かに「反対する声」もあるだろう。行政当局の常套手段であるからだ。政治家が「国民に我慢を強いる」ために引用されているが、実際は長岡の藩士は領民に痛みは求めず、学校を作ってなんとこの学校を今までの藩士だけではなくて「町民農民に開放」した。
・ このことが「偉い」と思う。「教育の機会均等」である。反対を押し切りリードした小林寅三郎も立派であるが侍から侍に渡された米百俵を家族に食べさせずに「明日のために使った藩士が偉い」のである。これが武士である。「武士道の精神」である。
・ 長岡藩士は2月の旧正月までは決して新米を食べなかったという。領民の苦しさを知っていたからである。長岡藩は幕末に「禄高の均等化の改革」を行い上士の禄高を大幅に減らし多くの下士の禄高を上げた改革も有名である。
・ 要は「年老いた働かない高給取りの給料を減らして若い世代に配分」したのである。是非これは「本校のネクストテーマ」だと私は思っている。そして改革のために藩主も藩士も多くの資財を処分し先祖伝来の家宝を処分して国漢学校に多額の寄付をした。
・ そして遂に明治2年、国漢学校が設立された。明治3年「米百俵を売った資金」で新天地に移転。洋学と医学局がスタートする。そしてこの学校は明治7年に阪之上小学校、明治5年に長岡洋学校となり、一つには明治6年に長岡病院となる。
・ 幕末の小さな学校がこのように三つの分野に分かれ発展してきているのである。長岡洋学校は明治33年長岡中学校となり、昭和23年「県立長岡高等学校」となる。平成20年には創立137年だから尋常ではない歴史である。
・ 私は思う。今衆議院選挙前だが各党の政策責任者に「米百俵の精神」を理解し「国は教育をもって興す」という根本に具体策をとって欲しいのである。8月1日のブログ「教育は人生前半の社会保障」ということと合わせていまこそ「政治の力で最低限の仕組みを組み立てて欲しい」のである。仕組みさえ出来れば細かいことは「現場でやれる」
・ 「現場で頑張る校長や教職員を正当に評価できるような学校改革」をしなければならない。サボりの教職員は排除できる「仕組み」を考えねばならない。頑張る者もサボりの者も1円も給与が変わらないのはおかしいのである。今のままでは「学校間格差」がその内大きな問題となる。学校に「投網」を投げ、「最低限のライン」は敷かねばならない。
・ 私は私の出来る範囲で「米百俵の精神」で頑張っていくつもりである。「明日の浪速のため」に最後の力を振り絞って「新校舎建設」まではなんとしてでも頑張っていく積りなのである。「お盆休みでリフレッシュ」出来た。明日からまた頑張ろうと思う。