2010年8月28日土曜日

8月28日 遍路行 二十一日目 阿波・土佐の二国打ち終了

 二十一日目 8月28日(月) 阿波・土佐の二国打ち結願


 足摺岬の38番金剛福寺を打てば普通はその日は足摺岬にて宿泊というのが一般的らしい。しかし僕には不思議なくらいこだわりは無い。推して推して進めてきた歩き遍路であるが、西南の端、足摺岬において感傷を深める時間も無くたった1時間の滞在で「きびすを返して」39番延光寺を目指した。ここを打てば阿波と土佐の二国打ちが完全な形で完了する。当初からここで一旦大阪に戻り、残る「伊予・讃岐の二国打ちは10月」と決めていたのである。区切りが付いたとなると一刻も早く大阪に戻りたいとの気持ちが沸いてきて39番延光寺までは駆け足に近い感じで急ぎ、タクシー、鉄道、新幹線を使ってその日の内に天王寺のマンションに僕は戻ったのである

① 民宿「久百百」を早朝5時には出発した。昨夜来の雨はまだ少し残っており雨具をまとっての出立となった。元気の良い女将さんはおにぎり、飴、バナナ一本を持たしてくれた。そして絶対に私の言った道を通るのよと念を押されての出発であった。昨夜の内に大学生とはお別れしたから1人での旅立ちとなる。


② 歩き遍路が使う言葉には様々なものがあるが「逆打ち」という言葉もその一つである。「逆に向かって歩く」ことを言う。1番から2番と順番に札所を打つのではなくて5番から、4番、3番と逆に進むことを言う。今日は短い間だが「逆打ち」となった。逆打ちは多くの歩き遍路と遭遇できることになる。今日は特に多かった。大体人間に興味がある僕は遭遇する歩き遍路に興味を抱く。それに歩き遍路は大体歩き能力が同じであるから似たような日に出発すれば会ったり、離れたり、又会ったりする。この関係がとても面白い。今回僕も大学生のXX君のように何回も会ったりするのだ。


③ 今日だけで4人の歩き遍路に会う。長崎県の若者、薄汚れた服で完全に野宿遍路、「まむしに会いましたばってん・・・」、埼玉の禰宜君と同じ、埼玉の大学4年生、半パンで半ズボン、足は豆だらけで5本指の靴下でスリッパ履き。もう1人は女、色っぽい。黒髪を流し、全身白に所々赤の小物、とにかく様々である。そうそう昨日追い抜かれた赤いリュックのおじさんにも会った。結局長い距離が歩けず、僕らより手前の民宿で泊まったらしい。38番には僕らが先に打ったのだ。歩きの早さだけでは駄目だと分かる。持久力がいる。こちらの方が重要かも知れない。


④ 問われる歩き遍路の行動マナーについて書いておきたい。足摺に至る窪津に素晴らしい遍路接待所があることはすでに記述した。今日も我々は往きも帰りもお世話になった。ここの堂守の方が言うには最近の歩き遍路の質の悪さである。特に若い女遍路は悪いと言う。お接待を当然として調子に乗り、図に乗ってずうずうしいのはまだ許せるとして、年寄りを騙したり、後で男友達を「連れです。」と急に出したり、酷いのになると中年男を上手くあしらい民宿代をすべて出させるとか、聞くに耐えないような話を一杯してくれる。逆に女歩き遍路を騙して自分の家に引き込むけしからぬ輩もいるらしい。見る方はやはり服装、身のこなし、話し方全てで分かるらしい。一部の心ない遍路の為に折角のお接待の文化が損なわれるのは悲しいことである。


⑤ 昨日、初めて金剛福寺の山門入り口で托鉢しているお遍路にあった。身なりはしっかりしており、側にリュックが置いてある。漆塗りの鉢を左手に持ち、般若心経を唱えている。興味があり、鉢の中を覗いたら200円入っていた。こういった観光客の多い石手寺とか善通寺とかは結構多いらしい。お寺の方も心得たもので身分帳をだし、お四国一巡で一回は門前に立つ事を許していると先の堂守はいう。「酷い乞食遍路もいますよ。僕らの子どもの頃は悪いことをすると、親からへんど(遍路ではない)の子になれ」と言って叱られたらしい。それほど歩き遍路というのは辛い社会的変遷を経て来ている。


⑥ 今ブームに近いお四国さんも今後どのような変遷をたどるのかよく見えないが、大切なことは1200年続いている88カ所霊場巡拝の文化を今後とも維持発展すべきと思う。形は色々あって良い。歩き遍路も、自転車も、バイクもバス団体ツアーも色々あって良い。巡拝の目的も人によって様々である。これでなければならないということはない。大切な事は「図に乗らない、調子に乗らない、自分の意志でしていること、遍路を他人のせいにしない、人に迷惑をかけない」ことである。と同時に遍路をしない人がしている人の事をあれこれ言わないことである。今の日本はあれこれ言う人が多すぎる。歩いてみて以上のような事をつくづく感じる。一回目のお遍路も残すところ今日一日となり色々と考えることが多い。


⑦ 途中まで逆打ちであったが半分くらいのところで道は山に向かって上り道となる。この山を越せば39番札所延光寺に至ると思えば足取りも軽くなろうものだがところがどっこい、殊の外蒸し暑くコンクリートからの照り返しもあって消耗した。途中の小さなスーパーや自販機でどれだけペットボトルやアイスクリームを補給したことか。スーパーの入り口に座り込んで「ぐいぐい」一本を息もつかせず飲み干すものだからお店の人が呆れて僕の方を見ていた。土佐清水市から三原村を抜けて宿毛市に入り30キロを歩いて遂に15時、土佐最後の札所39番札所の赤亀山(しゃっきさん)延光寺を打った。僕は何時もよりも念入りに納経を済ませた。着けば疲れていた体も回復してくる。もう歩かなくて良いのかと思う心が疲労を溶き流すのである。最後の日だから僕は念入りに納経を行った。その最中に大学生が到着した。つかづ離れず民宿「久百百」から同じコースを歩いてきたのだろう。








⑧ もう3時、まだ3時、近くには民宿も多くあるのだが僕は決心していた。ここで宿泊する必然性はない。今から大阪に戻ろうと決心したのである。まず歩いてタクシー会社を探し土佐黒潮鉄道の宿毛駅に向かった。そして駅前のビジネスホテルに申し込んでシャワーを拝借することとした。汗でどろどろの服と体をリフレッシュしなければ何も始まらないと思っていたからである。1時間できれいさっぱりして普通の姿のおじさんに戻ったが金剛杖と菅笠だけは仕方が無いので手に持って他はリュックに押し込み、鉄道に乗り込んだ。高知駅から特急電車で岡山行きがあるのにも驚いた。大変便利な時代に成ったものである。後は簡単で岡山駅から新幹線で新大阪に到着したのは夜の10時過ぎであった。このようにして私の遍路行阿波・土佐二国打ちの歩き旅は無事に終わったのである。後半戦伊予・讃岐の2国打ちは10月と考えているが今度はどのような日記が残せるのであろうか、楽しみである。後半戦はここ39番延光寺から歩きが始まる。

2010年8月27日金曜日

8月27日 遍路行 二十日目 足摺岬に立つ

二十日目 8月27日(日)   足摺岬に立つ


 一路足摺岬を目指し3日間歩いて、38番金剛福寺を遂に打った。四国の最南端である。感慨深いものがあった。これからは大阪に向かって戻るルートになる。今までは離れる一方だったが羅針盤が完全に逆転する。さて今日のルートは「打戻り」と言い、来た道を戻ることになった。39番延光寺は「真念庵ルート」が一般的と聞き、その選択を決めた。明日の距離を考え、出来るだけ近づく為に、今日の宿は、「久百百」民宿。今日も40キロ近い歩きとなる。阿波・土佐修行の歩き遍路も残すところ二日となったのである。


① 5時30分朝食、初めての早い出発である。支払い7000円、6時出発。昨夜偶然同宿となったXX君とは別の埼玉県の大学4年生と3人で歩くことになる。この青年、すこぶる感じ良く、同じ大学4年生でもXX君とは多いに様相が異なる。朝食後、宿のご主人が遍路道の近道を教えてくれるため、玄関に待っていてくれる。朝食のご飯は幾分昨夜の夕食分よりはましであった。昨夜のご飯は臭い匂いもあり、ベチャーとしてとても僕には食べられないようなものであった。しかしおかずが近目鯛,子鯛の刺身など素晴らしいものであったので、贅沢は言えない。おばさんもおじさんも大変良いお方であった。荷物を預け、巡拝に必要な物だけを持ち、極めて身軽である。体が軽いのだ。


② 宿から足摺岬まで16キロ、なんと9時には到着。昨日極力足摺に近いところまであるいて距離を稼いでいた作戦の勝ちである。速い出発は3文の得、三人大体揃っての歩行であった。先頭は僕、埼玉の大学生、それにXX君が縦列となる。途中の津呂には気配りの利いた無料接待所などがあり、休憩しながら進む。道端の道路標識と言うか道しるべが有り難い。道が分かり易く、脚は快調な運びとなる。しかしザックのない背中は軽い。肩に食い込む重さが無いということは素晴らしい。人生重き荷を背負いて山道を登るがごとしと、家康は言うが背負う荷物はない方が良い。





③ 38番蹉蛇山金剛福寺、まさに岬の先端にある。嵯峨天皇の勅願で弘法大師が開基され源家一門の尊崇を受けて栄えた。補堕落山ともいうらしい。納経所の方も親切でお接待に紙パック入りの冷えたお茶を頂いた。お土産を買うとお寺の奥様らしい人が「歩きですか、ご苦労さまです。」と言って、お寺の日本手ぬぐいを頂いた。ここの納経所の方はお軸に書く前に自分が書くところを紙できれいに拭って書いた。初めて目にした光景である。すごいことである。感心した。来た甲斐があると思った。





④ 納経の後、展望台に立ち足摺岬を見る。四国の西南の果てに立つ。「思えば遠くへ来たもんだ、よくぞ歩いて来たもんだ。」という感慨である。展望台から見る太平洋、そして金剛福寺の塔の屋根、そして中浜万次郎(ジョン万次郎)の像を見る。そうだ。足摺岬には万次郎の像だったのである。1827年ここ土佐清水に生まれ、国際人第一号となった万次郎の評価はもう少し高くても良い。




⑤ 展望台近くの茶店で「かき氷」を頂く。クリーム金時にした。暑い中、本当に旨い。体の中から冷えていく感じである。大学生の二人も上手そうに食べていたが、彼らは大体食べるのが遅い。観光客も多く、飛ぶように売れている。東京や大阪、都会ではもはや見なくなった「氷」の看板で売るかき氷屋さんは高知県にはとても多い。僕は小さい頃からこの密の味がみぞれでもイチゴでも大好きだ。2杯目を頼みたいくらいであった。10時過ぎ、足摺岬を立つ。3日かけて歩きようやく到達した場所であるが、たった1時間の滞在で不満はない。これで良いのである。帰りの津路の港は素晴しかった。丁度選挙が行われており選挙事務所でお接待を受けたのである。





⑥ 帰路は昨夜の民宿「星空」に立ち寄り、荷物を受け取ることを忘れてはならない。来た道を逆に歩くというのは幾分脚は軽くなる。見知った道は容易である。それぞれの脚力で歩くことに決めた。そうすると3人で歴然と差がでる。埼玉の大学生、木村、XX君と続くがそれぞれの差が完全に出てくる。先頭と僕の差はそれほどでもないが最後は完全に遅れる。休憩所で僕は先頭に追いつくが最後は幾ら待っても来ない。結局埼玉の大学生と一緒になり「星空」に到着。


⑦ この大学生、完全にエリート候補である。二人で歩きながら色々と知る。父は銀行勤めのサラリーマン、慶応大学経済学部4年、就職は東京海上に内定、自分でバイトして資金を貯めて今回歩き遍路に。歩くのが大好きで以前、東京から名古屋を歩いていたとき、旅で知り合った人から「そんなに好きなら四国を歩いてみたら」と言われて知った。「高校は浦高か」と聞くも「浦高は落ちちゃいまして、私学に。一橋を狙って一浪しましたが結局慶応に。」とにかく如才もないが感じも悪くない。大成して欲しい。サラリーマンとしての心得などいう資格もないが経験談や注意すべきことを木村流で歩きながらしゃべる。しっかりと聞く。「今回、四国へ来て、初めて様々な経歴,年代の方々とお話ができます。何時も同年代の者とばかりの話であったが今回の遍路経験は本当に為になっています。」と。通しで9月20日を目標に完遂したいとのこと。


⑧ 13時45分 民宿「星空」に到着。歓迎を受ける。おじさん「ビールを」を持って来てくれたが、さすがに昼間からと思って固持した。そしたらおじさん「かき氷、すっちゃるわ」と言ってみぞれを持って来てくれた。甘かった。おばさんの姿は見あたらなかったが、74歳のおじさんも寂しいのだ。話し相手が欲しいのだ。ここでこのおじさんの話、詳しく書くページ数が欲しい。書きたいことが一杯ある。なんと遍路相手の民宿の親父なのにキリスト教「エホバの証人」のこの地方の主宰者、近くにある「エホバの会館」の持ち主。1300坪の土地を寄贈したとのこと。すごい話を一杯聞いた。


⑨ 15時30分民宿「久百百」に到着。疲れはあまりない。しかし洗濯に困る。無料だが2遭式でやりにくい。洗剤を入れ過ぎたらすすぎの水は何時までも泡がある。一回一回水を入れ替えなければならない。本当に困った。夕食の時、何で2遭式ですかと聞くと「買い換えて2遭にしたの!」「この方が速く終わるの!」。乾燥機はない。部屋にはハンガーが山ほどある。部屋で乾かせということらしい。とにかく美人だが面白いおばさん、阪神大震災をテレビで見て「あのテレビを見て、私の女は46歳で終わったの」と閉経したことをどうどうと述べる。息子や主人を僕に紹介し、デジカメにとられた。明るくて、面白い。こういう女将もいるのだな。でも夕食のメニューはもう少し工夫と量が欲しいと思ったが何も言わなかった。二人の大学生には今宵が最後故、ビールをご馳走した。旨そうに飲んで呉れた。それぞれ頑張って欲しいとつくづく思う。

2010年8月26日木曜日

8月26日 遍路行 十九日目 四万十川

十九日目 8月26日(土)   遂に四万十川に


 たった一人の四国巡拝「阿波・土佐二国打ち」も大詰め、終盤に差し掛かった。しかし最後がなかなかの難行苦行である。90キロを3日間かけて歩き、足摺岬38番金剛福寺を目指す。今日は2日目、何処まで脚を伸ばせるか、またどのような人と邂逅できるのか。最大の期待は四万十川をこの目で見ることである。


① 長ったらしい名前「ネスト・ウエストガーデン土佐」というリゾートレストランホテルを6時13分出発。支払いはカードで昨夜の内に済ませる。13680円、飲み過ぎで食べ過ぎ。しかし悪くは無かった。「ギャバ茶」というのが旨かった。初めて味合うお茶であった。もう一度飲んでみたいと思う。何とか工夫して入手したいが果たして出来るか?


② 名所「入野松原」を抜けて快調に足が出る。昨夜のあれほどの痛みも嘘のようにない。シップやエアーサロンパス、特に風呂でサウナに入り、水風呂で良く脚をもんだり、養生したのが利いたのか。ベースは基礎体力にあるのだと思うが、大事には至らない。つくづく健康に生んで呉れた両親に感謝だ。


③ 8時、通りの自販機で冷たいミルクコヒーを買い、昨日買ってあったメロンパンを2個食す。車の行きかう国道の道端に座って走るトラックを眺めながら食べる朝食もなかなか良いものである。早い出発でホテルは用意出来ない。先日の失敗から事前に求めていたもの。人間は失敗から学習する。道の駅のおばさん、「明日食べるなら、油の使ってないほうが・・」と言ってメロンパンを勧めてくれたのである。


④ 8時30分、遂に見たかった「四万十川」の土手に当たる。本当に良い川である。ゆったりと、のどかに、とうとうと豊かに水を蓄え素晴らしい大河である。この川は品がある。水の色が特に良い。名残を惜しみながら、四万十大橋を渡り、四万十市、旧中村市から離れて足摺岬に向かう。足摺岬まであと距離40キロと出る。この標識には嬉しかった。



⑤ 9時30分なんと別れた大学生のXX君に会う。岩本寺から電車で四万十市に来て昨夜は民宿「白月」に泊まったとのこと。これで3回目の邂逅である。縁があるのかなーとつくづくと思った。今日は彼と一緒に歩くか、少し楽しい気分になってきた。人恋しいのか。結局パソコンは山口の実家に送り返したという。「重くて我慢が出来なくなった。軽くなりましたよ。」と嬉しそうに語る。確かにあのA4ノートは重かっただろう。


⑥ XX君、確かに今日は歩ける。体も出来てきたのだろう。少し逞しくなった感じだ。これも遍路行のもたらしたものか。色々としゃべる。17歳の高校生ガールフレンドと別れた。体の関係もあり、下宿にも良く泊まった。父親が癌になり、落ち込んだ時に上手く行かなくなり別れた。大学生の女性友達からは振られてばかりいる。どうも頼りなさそうに見えるらしい。自分は5つくらい年上の人から良く持てる。何人もの人と付き合ってきた。自分には考えられない話ばかりだ。39番で一旦中断、実家に戻りすぐ岡山に帰る。4日から大学が始まるし、就活もしなければならないとよくしゃべってくれた。


⑦ 途中でおじいさんに追い抜かれる。背が高く、上から下まで白で揃え、リュックは赤色、遠目にも格好良く見える。絵になるのだ。少し前にかがみ、内股気味に歩幅は小さく、ピッチをあげて峠も登る。「ナンバ歩き」というらしいがどういう字を書くのだろう。水も時間を決めて立ったまま、飲む。決して座らない。歩きのプロに見える。「構わず、先にお進み下さい。」と僕が言うと、「有り難うございます。それではお先に。」とどんどん先に進む。平行して歩いて見たかったが、こちらはXX君がいる。あっという間に背中も見えなくなってしまった。


⑧ 二人いると良いこともある。情報が得られる。XX君、ネットに強く結構民宿など調べている。早速同じ民宿「星空」を予約。運良く部屋を確保できた。今日は行けるところまで39番に近い所まで行き、明日はここに荷物を預けてお参りし、トンボ帰りでここの立ち寄り、荷物をとって、今度は最後の39番延光寺に近い可能な距離にある民宿を考えるのが一般的とのこと、そうすれば明日の民宿は「久百々(くもも)」が良いらしい。明日は久百々までが42キロ、明後日は久百々から延光寺までは40キロ、今日僕は42キロくらい歩いたから本当にこの1週間は地獄の修行である。


⑨ 38番から39番へは幾つものルートがある。地図には5つ示している。最も多いのが、僕が選択したものらしい。80%はそうするらしい。これを「打ち戻り」という。何か良い響きのする言葉です。秀吉の「中国大返し」を想像する感じで、気に入りました。最もこのルートが距離としては一番短いのですが。


⑩ 茶店で“かき氷”の看板があれば入り、自販機があればペットボトルを飲んでばかりで、歩くより休憩が多い僕たちは15時30分、民宿「星空」に予定を大幅に遅れて到着。名前とうらはらとはこういうところを言うのでしょう。住んでいた一般の民家をコスト安く改造したまさに民宿です。部屋もお風呂もトイレも驚きです。年老いた夫婦が二人でやっている。でもクーラーはあり、テレビもある。言うことはない。一生懸命、老夫婦がやってくれる。おじいさんが洗濯物を全部やってくれるというのだ。これには参った。どうも乾燥機を置いて居ないらしい。乾燥機というのはどうもこの辺の老人には贅沢に思えるらしい。確かにそうだな。これほど太陽の日が強い所を何故、電気で乾かすのか、言われて見ればそのとおりである。今17時20分、日差しはまだ強い。僕の部屋から中庭をみると確かに僕のもの全て吊していました。もうすぐ乾くのでしょう。


⑪ ここで毎日の洗濯について、僕は宿に到着したら全て脱ぎます。全てです。そして洗濯機で100円か200円の所がありますが、洗剤は無償の所と50円の小さい袋を売っているところがあります。大体30分で洗濯は済み、次は、これはどこも大体同じですが30分100円、僕は200円入れて完全に乾燥させます。本当は生地のためには良くないのですが、ぱりぱりに乾燥したものが明日の戦闘服になります。従って理屈で言えば他にパンツ1枚あれば他は要らないのです。浴衣がありますから。しかし下着や半パンなど多く持って来て困りました。しかし徳島とか高知市内を歩いたりするときには助かるのです。基本的に下着は極力少なくが本筋ですね。XX君、ジーパンを毎日洗わず、3日か4日ピッチとか、気持が悪くなります。僕には信じられません。とにかくジーパンは嫌いです。


⑫ 自動販売機について気付いたことを少し記してみよう。都会にいると使うことなど滅多にないが、こういう旅や地方では必需的である。どれほど助けられたことか。まずメーカーで言えば群を抜いてコカコーラが強い。圧倒的である。何処にもある。後はDyDo(ダイドー)が結構頑張っている。声が出るのだ。「いらっしゃいませ、おつりをわすれませんように、ありがとうございました」。ポカリスエット、キリン、Boss –コーヒー(サントリー)と続く。各社各様でネーミング、ボトルの形、値段、など違いがあるが、とにかく硬貨を持っていないとどうしようもない。僕は常に気を付けて硬貨を用意した。飲みたいときに飲まないと知らない町では次に何処に自販機があるか分からず、大変なことになるからである。我が人生でこんなに自販機を連続で利用した経験はない。現代の歩き遍路には死中の神である。


2010年8月25日水曜日

8月25日遍路行 十八日目 足摺岬を目指して

十八日目 8月25日(金)   足摺岬を目指して


 足摺岬を目指す最後の難関となる数日が始まった。歩く距離は90キロにもなる。とにかく長い。3日間をかけて歩く算段を立てたが、計画通りにいくか。その道中設計が難しい。まず宿泊場所の設定が重要である。単調な舗装道路の脚への影響もある。不安な中での1日目となった


① 6時より岩本寺本堂にて勤行、僕一人であった。お寺さんがどのようにお経を読むのか、順番を含めて良く分かった。お数珠の持ち方まで教えて貰った。6時30分朝食、おかずが多くて食べきれないくらいであった。珍しくゆで卵や納豆などが出ていた。みそ汁はナベで出ていた。2杯飲んだ。ご内儀が挨拶に又来てくれた。魅力的な人だった。詳しく道順を教えてくれる。名残惜しい感じになる。お檀家さんにはこのような感じで素晴しいお寺の奥さんと受け止められているのであろう。


② 6時50分出発、56号線をひたすら四万十市に向かう。窪川の町は朝靄に煙り、田園風景は幻想的である。田舎の朝は何時も気持が良い。しかしそれも大体8時30分までであり、陽は強くなると田舎は日陰が無くなる。黒潮鉄道沿いの各駅には「かつお一本釣」のPRが良く目に付く。どこもかしこもかつおである。土佐佐賀駅では一本釣、日本一とあった。片坂を過ぎれば「黒潮町」に入る。道は「拳の川」峠に向かって緩い登り道である。長曽可部元親ゆかりの古城の場所である。延々と続く登り道は相当しんどい。しかし脚に力が出る。とにかく今日は距離を稼ぎたい。行ける所まで行きたい。ピッチが上がる。岩本寺で戴いた朝飯の威力は大きい。



③ 10時30分自転車の3人娘が「ご苦労様です」と言って縦列で僕をさっと追い抜いて行った。格好良いのだ。「おいずる」という半袖の白衣で背中にはお大師様のご宝号、揃いのヘルメットで半パンで白いふくらはぎをむき出しに自転車をこいでいる姿は絵になる。四万十市、後29キロの標識が出る。四国の小京都、最後の清流、四万十川は近づきつつある。とにかく四万十川を早くこの目で見たい。


④ 高知市を出て以来海沿いにあるが56号線はとにかくトンネルが多い。それだけ山が多く、峠が多い証明である。トンネルを歩くのは怖い。90年代以降のトンネルはそれでも歩道が整備されているが、多くのトンネルは車の為であり、白い線を引いただけの歩道を歩くのは勇気がいる。車幅の広いトラックなどとすれ違う時は体を固定しなければ巻き込まれそうである。今日も熊井隧道、土佐佐賀トンエル、井の岬トンネルなど多かった。特に熊井隧道は面白かった。明治3年の竣工で今や人間用だけのの隧道であるが、「トンネルとは入り口は大きいが出口は小さいもんじゃ」と入り口から見た当時の人々が驚いたと由緒書きにある。これには笑ってしまった。伊田トンネルを抜けると黒潮町の中心地である。どうもこの辺から脚の調子が良くない。左膝がおかしいのだ。初めての経験である。無理がたたったか。痛いのだ。上がらないから足首は引きずるようになる。そうするとつまずくのである。後三日持って欲しいとお大師様にお願いした。間違いなく蓄積疲労だと思う。詳細計算していないが恐らく600キロ近くを連続で歩いているのだ。何か無ければ超人である。




⑤ 伊田は民宿が多い。恐らく足摺岬38番金剛福寺に至る格好の中継地なのかなと思う。携帯で宿を探すもそれが無いのだ。まず、電話に出ない、出ても何か、要領を得ない。素泊まりだけとか余り電話の応対も感じが良くない。少し焦る。長いやりとりがあって漸くネストウェストガーデンというリゾートホテルを予約出来た。8800円という。勿論食事は別である。ここを取り敢えず押さえて、道なりにある民宿をトライするが、あまり気乗りはしないものばかりだ。まず部屋のクーラーが100円で30分間利くとか、このような民宿はこちらから願い下げにしている。あまりにも惨めではないか。少々部屋代は高くてもエヤコンはお好きにお使い下さいというのが嬉しい。そういう民宿がまだこの地方には多い。そう言うところは食事も含めて今一つである。


⑥ 結局民宿は取れず、町の外れ、足摺に近いほうのホテル風の宿泊場所に15時15分到着した。海の真ん前にあるリゾート風の建物で円柱形の2階建てである。全ての部屋から太平洋が見える。大風呂は本当に海鳴りが聞こえる感じで大変良かったのである。レストランはイタリヤ風で確かに「レストランホテル」と言うだけの事はある。土佐観光の経営らしい。マスターが付きっきりでサービスしてくれる。思い切り食べた。何を食べたか書くまい。久しぶりに今日はイタリアンで決めた。しかし脚が痛い。ひきずっている。風呂に2回も入ってマッサージをしたりエアーサロンパスを使ったりして明日に備えたのである。


⑦ パソコンを打ちながら前の鏡に映る自分の顔を見る。髪は伸び、色は赤黒く、太っているのかむくんでいるのか、分からない自分の顔がそこにある。元々髪は天然パーマでこれほど伸びるともはやカールしたようで、白髪混じりの頭と金縁めがね、黒い顔のコンビネーションはどのように受け止められるであろうか。明日は歩けるであろうか。どこまで行けるであろうか。心配はあるが、後二つ38番金剛福寺と39番延光寺まではどうしても歩きたい。これで阿波、土佐の札所はすべて完了する。僕は完全に歩きで巡拝踏破したいのである。

2010年8月24日火曜日

8月24日遍路行 十七日目 七子峠

十七日目 8月24日(木)   七子峠

 今日はどうしても37番岩本寺を打たねばならない。ここに向かってただ歩く。30キロ、昨日と合わせて60キロ、車であれば90分の道のり、歩けば二日間、実質15時間の歩き遍路道、歩く価値をどう見るかだが今の僕には歩きは修行である。しかし本日の歩きはしんどかった。辛かった。本当に辛かった。とんでもない地獄であった。


① 須崎のビジネスホテル「まるとみ」を6時出発。食事はない分、それだけ早く出発できる。支払いは4500円、前の日のチェックイン時に前払い。ビジネスホテルと言って工事で来ている人達が気楽に泊まれる程度のもの。ところが結構人気は高いらしい。風呂は何時でも、エアコンも使い放題、部屋もきれいで、第一干渉がない。気楽なのだ。勿論ベッドであり、布団ではない。田舎のビジネスホテルは狙い目である。


② 問題は食事がないだけ。当然朝はない。これが今日の失敗であった。昨日の夕食時に朝の食事分までは買ってはいなかったのである。通常僕の朝食はヤクルト一本、牛乳1杯にリンゴ1/2個と大体決まっており、これでほぼ30年間やってきた。そしてお昼と夜は一杯食べる。しかし歩き遍路に出て以来、民宿では朝食がかっちり出るし、結構旨いものだからついつい一杯食べてしまう。とにかくお四国さんに出て以来、食生活パターンが完全に変わってしまった。朝からしっかりと2杯はご飯を食べる。おまけに夜はビールをしっかり飲むと来るから、宿の女将さんからは「少しお顔がふっくらと・・・」などと言われる始末である。歩きの途中ではポカリスエットは飲みたいだけ飲み、お昼も腹一杯食べれば、自分でも体重を気にするのは当然であった。それで「今日は朝抜きでやってみよう。」となったのである。


③ 須崎を過ぎれば中土佐である。土佐の一本釣りはここ、中土佐を言う。「ほら、行け、はよ、行け、土佐沖へ、大判鰹が待っちゅうに!」と唄われる。道はJR土讃線と付かず離れず平行して続く。土佐久礼から最大の山場、「七子峠」を越えるには3つの方法がある。北側が「そえみみず遍路道」、中が国道56号、南が「大坂遍路道」という。僕は大坂遍路道を結果的に選択した。正直言えば自然にその道になっただけである。


④ しかし歩きながらおかしい、おかしいと感じてきた。僕の歩く道から、遠く国道が見えるのだが、その国道は遠目にも分かるくらい登り勾配がきつくて車がうなりをあげて上っていくのに、僕の道はいっこうに平坦であり、車も通らないのどかな田舎道である。地図では七子峠の頂点で3つの道が合流するようになっている。理由はそのうち分かった。あるところから45度以上の勾配をそのままよじ登る感じで頂上に繋がっているのだ。これには参った。ほとんど死んだ。2キロ弱のロッククライミングみたいな道は蒸し暑さと荷物の重さと、空腹でもう立っておられないくらい体力を消耗した。完全な鎖場であった。10メートル毎に立ったまま休み、また登る。息が切れ、立てなくなって座る。その繰り返しで本当に辛かった。最後は這うようにして登っていった。道は狭く、油断すれば断崖に落ちる。参った。本当に消耗した。


⑤ 急に開けたと思ったらそこは国道沿いの道であった。峠の頂上に休息所があった。僕はまず自販機をまず探し、冷たいものをとにかく体に流し込みたかった。2本を一気に飲んだ。そして自販機横にあるコンクリートで出来たベンチに横になって倒れるように横になった。そうせざるを得なかったのである。周囲をはばからず、車で来ている人たちが自販機に立ち寄るが構わず大の字になって寝た。間違いなく蓄積疲労と朝食のない分の熱量不足であろう。今回の旅で初めて経験した「完全消耗」であった。


⑥ 小一時間横になり、少し回復、ふらふらと立ち上がり、とにかく腹に何かを入れようと思った。今度は長い下り道、体への負担はそれほどでもないがリュックを背負った体は左右に振れる。30分歩いたところで道沿いに屋台風の「讃岐うどん」屋を見る。すぐ入る。狐冷やしうどん大盛りを頼む。11時15分頃、客は僕一人、ご主人は良い人で「歩きですか?どの道で来られました?」と。下というと「頑張られましたね。」「国道にすれば良かった。」「いあやー、あれはもっときついですよ。同じ勾配の道が7キロも続く、」「登り道にはそれなりの歩き方があります。焦っては駄目です。」山歩きが好きで色々と教えて呉れる。天かす入れ放題、最後には小皿に盛ってワカメを呉れた。お接待なのであろう。旨かった。冷たいうどんだしが旨かった。生き返った。考えてみれば昨夜はビール主体であまり食べてもいなかった。食の強さと大切さを痛感した。落ち着き今日の宿、岩本寺の宿坊を電話で予約。どこでも良かった。宿坊ならお寺の側だろう。


⑦ 標識に「四万十町」が出てくる。旧名「窪川町」であるが本年4月合併し新しい名前を付けたという。これとは別途に四万十市というのもありややこしい。観光物産センター、道の駅などに立ち寄る元気が出てきた。現金なものだ。道沿いに「仁井田の米」と宣伝がすごい。全国品評会で良い成績だったらしく、おにぎりを食べたり、お米のアイスクリームをなめたりゆっくりゆっくりと岩本寺を目指す。



⑧ 15時岩本寺到着。大変に趣きのあるお寺さんであった。お寺の裏側には土讃線の鉄道が走っており列車が通るたびにそれと分かる。山門も味わい深く、特に仁王さんのお顔が良いのである。境内の中に宿坊があり、宿坊の玄関の真向かい15メートルに本堂がある。小さいお寺であるがまとまっているのである。良いお部屋に通してくれた。荷物を片づけ、正装してお参りに行った。真ん前に有るから1分もかかりません。夕食が又素晴らしかったのである。お寺のご内儀,お庫裏さんが挨拶に来てくれる。背も高く、美人である。胸もお尻も腰も大きく、ゆったりと、それでいて品がある。年の頃は60歳前後。白いご飯とは別にこちらでいうばら寿司、ちらし寿司とご汁と言う、しらす主体のお汁が特別に付いている。これが旨いのだ。お寺の奥さんと言うのは三島由起夫の小説ではないが魅力的だ。何か妖艶なのである。







⑨ しかし今日はくたくた、荷物も何も放り投げて布団に横になる。体を横にするにもしんどい。大部消耗している。後2つの札所、行けるであろうか。体と胃袋と心はまったく別物だということを痛感した。朝飯は重要である。本当にしんどい忘れられない七子峠となった。

2010年8月23日月曜日

8月23日 遍路行 十六日目 女遍路と歩く

十六日目 8月23日(水)   女遍路と歩く


 今日の目標は37番岩本寺までの中間点まで近づくことだ。とにかく歩くだけの日となった。行き過ぎても宿はなく、明日の事も考えながら今日泊まる所まで歩くだけである。今日以降そのような日が足摺岬まで続く。朝、旅館のフロントで或る女遍路に同行を求められる。女性遍路とは言わない。女歩き遍路だ。僕とホテルの支配人とのやりとりを聞いていたらしい。初めての「女歩き遍路」との同行三人である。


① 6時起床、朝風呂を愉しむ一般の民宿では朝風呂を使えないが大きなホテルや旅館では可能であり、これが嬉しい限りだ。明け方部屋に差し込む日の出の光は何か神々しかった。6時30分朝食、魚の干物が旨い。支払い、予想通りいささか高く、9765円。フロントで今日のコースを再確認した。あくまで三陽荘はやって来た道に戻り、国道沿いを歩けと言う。危険が過ぎるというのだ。しかし来た道に戻るのは気がどうしても進まない。やりとりをしていたが、これらを聞いていたある女性が「今日、一緒に歩かせて頂けませんか」と、やはり来た道に戻りたくないないらしい。危険を分散させたいために僕に同行させて欲しいと申し出て来たのである。



② 前に進むコースを選択し、7時15分出発。男、女のペアー歩きである。初めての経験であった。年格好から言えば間違いなく夫婦か親しいカップルに見えることは間違いない。女、年の頃、50から55歳、夫はいる。長野県長野市、かねてより計画通り今年退職。今の時期に四国を廻りたいと。子どもはいない。歩く姿形は完全であり、装備に不足はない。要は隙はまったくないのである。


③ この女性、健脚であった。決して僕にひけはとらない。細かいピッチで良く歩く。歩くことが好きだとのこと。来年ご主人が定年らしい。今のうちに四国を歩きたい。主人は歩くのは苦手だという。女性としての身体的特徴は余りなく、色は浅黒く所謂美形ではないが、言葉はきれいで知的な感じは受けた。遍路計画書はエクセルで自分で作成したらしいが、何時も取り出しては見ていた。一生懸命働いて来たからか、宿も良いところに泊まり、飲み物もどんどん買う。僕と並んで良く歩く。ただそれだけであった。名前も聞かず、住所も聞かず、今宵の宿も別々、さっぱりとした1日であったが、初めて女遍路と一緒に一日を歩いたのである。特段、これ以上記録に残る会話もなかった。


④ 明徳義塾中高等学校の側を通り過ぎ、太平洋の景観を左に観ながら、うねり、蛇行する元スカイラインの道を歩く。ホテルが言うほど酷い道では無い。確かにコンビニも自販機もないが決して悪い道ではない。途中「武市半平太像」の前を過ぎる。ここで分かった。室戸岬には中岡慎太郎、桂浜には坂本龍馬、浦の内には武市瑞山と高知県も考えているのだ。これなら足摺岬にも何かあるぞと予感したのである。




⑤ 20キロ歩き、須崎市に入る。小さな町であるがかつおで有名な「大間」の町を抱える。僕はビジネスホテル「マルトミ」、彼女は民宿「岬荘」。ここでお別れした。明日、彼女は早い出発とのこと。僕はゆっくりと歩く。気を使わないで済む人だった。僕のデジカメで一枚写真を撮ってくれた。彼女は、写真は風景だけとしているとのことで僕の方からも差し出がましいことは控えたのである。



 ⑥ 明日はどうしたって「岩本寺」までで終わり、3時頃までに入れば良いのだから焦る必要なし。僕が投宿したホテルはホテルと言っても工事現場に長期出張している人たちが使うホテルで食事もついてはない。しかし幸いな事に近くにスーパーがあり、そこで冷えたビールやお惣菜をゲットできた。狭いがよく冷えた部屋でコインを入れたテレビを見ながら出来合いの食事を済ませたのである。これはこれで好きなものが食べれて偶には良いと感じた

2010年8月22日日曜日

8月22日 遍路行 十五日目 太平洋で泳ぐ

十五日目 8月22日(火)   太平洋で泳ぐ


 太平洋に面した海で今日は絶対泳ぐぞと決めていた。一路「宇佐」を目指し、「竜の浜海岸」で絶対泳ぐと決めた。海は大好き、泳ぎも大好き。明後日から足摺岬を目指して難行苦行が始まる。今日、明日が憩いだ。土佐の巡拝も大詰めになってきた

① 6時起床、シャワーを浴びる。食事は今回の旅で初めてバイキング形式、民宿の朝食はメニュー大体同じにつき、もう幾分厭になって居たところ故、新鮮だった。「スポーツパレス春野」悪くはない。支払い7590円。支配人が種間寺まで車で送ってくれる。サービスすこぶる良し。学生のスポーツ合宿場所から熟年のお遍路さんもターゲットに新たな市場開拓とのこと。なるほどと合点の次第である。しかし気づきが少し遅いのではないか。


② 7時、「種間寺」前出発、誰もいない、掃除をしていたお寺の方が「これから歩き?」と親切に35番清滝寺への道を教えてくれる。距離10キロ、朝から蒸し暑い、どうも調子が悪い、脚が重たい。デジカメのレンズが曇るくらい湿度が高い。


仁淀川を渡れば土佐市に。遍路道は通常の車道と異なるため人とも会わず、だらだらという感じで進む。9時30分、清滝寺に到着。時間を見れば1時間4キロのペースで通常と変わっていない。気持と体は違うのか?脚の歩みは気分と別なのか?


③ 35番「清滝寺」でおじいさんと会う。親しそうに話しかけてくる。地元の人、山が大好きで大阪にも住んでいたとのこと。74歳、今でも1日に一回は清滝寺に来る。宮尾登美子はこの近くで生まれ、小さい頃は貧乏で大根を売って歩いていたのを今でも思い出すと。本も好きで瀬戸内晴美、宇野千代、有吉佐和子と次から次と女性作家の名前が出てくる。


④ 土佐市を横断する形で土佐湾の飛び出た半島、宇佐大橋を目指す。道は単調、暑くて苦しい。自販機にすぐ手が出る。塚地峠の頂点で「あずまや」形式の休息所があり、たまらずごろりと横になる。風が心地よい。30分ほど横になったか。11時45分起きあがり出発。それというのも運転手さんなどが持参の弁当を食べる場所として利用しているらしく、混んできたので立ち去ることにしたのだ。食事は欲しくない。ただ水を飲む。お茶、スポーツ飲料、コーヒー牛乳、水、コーラと一応変えてはいるのだが・・。


⑤ 塚地坂トンネル1キロ、トンネルの出口から太平洋の海が目に飛び込んでくる。今ま


でもそうであったがトンネルの中を歩くというのは結構勇気が要ります。怖い感じがします。それでも昔は隧道などはなくて山越えだったわけだから歩きの辛さから言えばトンエルは楽なのです。白装束だからドライバーには見えやすいかも知れませんが僕は必ず右側を歩いて金剛杖に白いタオルを巻いてそれを振りながらトンネルの中を歩いた。


 ⑥ 山越えをして宇佐漁港についたことになる。湾沿いの道を北上、赤い大きな宇佐大橋がゆったりと半島を結んでいる。昔は対岸に渡しがあったらしい。半島の先端をぐるりと廻り、時間は2時を少し廻ったくらいだがもはや気持は限界、通常の人はまだ次に向かって歩くのが一般的であるが、今日の僕はもう限界。一歩も歩けない。宿の真ん前は「竜の浜海水浴場」、地図の通りだ。この海に入ると決めた。まず宿に飛び込みで入り、押さえる。「三陽荘」という。知らなかったが「黄金大師」で有名らしい。そこにザックを預け、身軽に36番札所青龍寺を打つ。ご本尊は波切り不動、珍しい。お不動さんです。






⑦ 宿に戻り、パンツ一枚で歩いて海に出かける、時間は歩いて1分、国道を横切ればそこは太平洋である。海は気持良かった。海に入るのは何年振りだろう。海の中では下着は付けていない。誰もいなし、気にする必要はない。真っ裸は本当に気持が良い。水温は高く、しょっぱい海の水、寄せる波に身を任せ、漂っていると疲れが溶けて流れていくようだ。僕は開放感に浸った。30分も海に居た。


⑧ 宿に帰り、洗濯、風呂、極めて豪華な施設のグレードの高い宿と知る。森繁久弥、長島茂雄、朝青竜、最近では管直人氏など有名人が泊まった宿である。確かに浴場などは並のゴルフ場のものとは比べられないくらい豪華である。良い宿に泊まれた。部屋から外部へは全て窓で前面海である。部屋は大きく、豪華である。食事も良い。今日は早めに宿に入り旅日記もはかどった。少し余裕が出てきたが、明日の戦略を決めなければ。須崎まで遍路道には何もないという。この道は危険だと宿の人は言う。元の国道に戻れという。よくよく考えなければならない。元に戻るなど僕の人生にはなかった。時には元に戻るのも必要か。ままよ、行ってしまうか。明日朝決めることにして早めに床についたのである。

2010年8月21日土曜日

8月21日(土)遍路行 十四日目 納経の形

十四日目 8月21日(月)   納経のスタイル


今日は高知市内周辺の札所を数多く打たねばならない。昨日の市内タウンホテルでの宿泊でいささか元気になる。土佐は幕末維新、明治自由民権の流れの中で偉人を多く輩出し、名所が多い。しかし革新の原動力であったが100年経って今はどうか。難しいことは言うまい。ただ、もう恐らく来ることはないだろう土佐を歩き廻ってこの肌で土佐を知りたい。体感体得である

① ホテルなので朝食はない。5時30分起床。朝風呂。久しぶりにカードで支払う。
7350円。6時40分出発。はりまや橋を経由して31番竹林寺を目指す。朝の高知市内、結構車の往来多い。月曜日だからかな?8時竹林寺到着。五台山と山号を持つ。よさこい節のかんざし買った坊さん、純信が居た寺と聞く。標高140メートルくらいの山の頂点にある。結構きつい坂。有名な植物学者牧野富太郎博士顕彰植物公園の前だ。



② 武市半平太の生家の標識を見ながら南下、この辺は武市姓が多い。歩いて居ると玄関の表札で良くわかるのだ。濱口雄幸生家記念碑というのもあった。城山三郎が小説「男子の本懐」を書き、雄幸の句として「風車、風の吹くまでの昼寝かな」と書いていたのを思い出す。僕の大好きな句である。天の呉れたこの自由の時、僕も風が吹くまでの小休止と考えればよいか。僕の風は何時吹くか。


③ 11時32番八葉山禅師峰寺に到着。太平洋に面したお寺である。海上安全に霊験あらたかと聞く。ここから桂浜が見える。写真を一枚。「補陀落渡海の海」と聞く。観音菩薩信仰である。




④ 33番雪蹊寺に向かう。ここで又ご接待に預かる。おばあさん、自転車に乗って、僕を追い越し、先の方で自転車を止め、「少ないけどこれ、接待と」、100円硬貨をくれた。聞けば84歳「体に痛いところがないんよ。」と元気一杯。道を教えて呉れたりして、又自転車に乗ってさわやかに去って行った。すごいなー。84歳だよ。考えてみると、今まで全て接待をして頂いた方は全て女の人、それもかなりのご年輩だ。最後はやはり女性が仏様になるのか。80歳を越えるとなれそうだ。吉兆屋の女将もそうだった。初めてお金を頂いた。この100円は大切にしよう。



④ 新しく出来た浦戸大橋を通らず、昔ながらの遍路道、「船の渡し」を使う。坂本竜馬の桂浜とお別れして種崎、長浜を繋ぐ今は県営の無料のフェリーの渡しである。たった3分で対岸に着く。1分違いで12時10分発を逃し、13時10分まで待たねばならない。この1時間を利用し、昼食とする。お大師様がゆっくりせよと仰せなのかも知れない。近くのスーパーで買った冷やしそうめんを待合い室で食す。無人であるがテレビが置いてある。又この時間でパソコンを開く。乗客は僕1人、渡し船は味があるな。昔の遍路もこのようにして雪渓寺を目指したのか。対岸から札所はすぐ側である。14時雪蹊寺。長曽可部家の菩提寺である。




⑤ 34番種間寺は高知競馬春うららで有名になった春野町にある。のどかな田園風景にあるフラットな道路と同じ高さで存在する。予約しておいた春野運動公園付属のスポーツパレス春野に投宿。学生スポーツ合宿専門の宿泊所であるが、これが結構良いのだ、広くて風呂も大きくて、サウナもあり、12時まで風呂に入れて、(民宿は大体9時まで)脱衣所はエアコンが利いており、(民宿では風呂上がりは汗だくだく)料理も良く、たまたま他が満杯であったからここにしたのであるが、当たりであった。



⑥ 本日だけで4つの札所を打った。三十四番、三十五番、それに「三十五番医王山清滝寺」、「三十六番独鈷山青龍寺」である。いずれも素晴らしいお寺さんであった。ところで僕の納経のスタイルはこのようなものである。勘違いもあるかも知れないが、マニュアル通りと思ってやっている。まず本堂、それから大師堂、許されておれば先に「鐘楼」をつく。勿論先に手水を使い清める。ろうそくの灯明と線香3本をあげ、納札を箱に入れる。お札には願意を書く所があり、色々と考えて書く。お賽銭を入れた後、お経を読む。お経を読む順番はこれもマニュアル通りであるが、開経偈、普禮真言、懺悔文と続く。その後発菩提心真言、三昧耶戒真言、般若心経と続く。これがメインである。そしてお寺のご本尊によるが13仏真言を唱え、続いて光明真言となる。最後に「南無大師遍照金剛」と御宝号を三回唱え終わる。すべて声に出してやる。恥ずかしくはない。結構時間がかかる。大師堂は御宝号と舎利禮文、回向文を静かに唱える。

 大師堂で黙って、しばらく立ったまま、頭を垂れて静かにしているとほっとするのだ。本当は本堂と同じ手順でやった方が良いのだがまあ手抜きだな。そして納経所に行き、納経帳とお軸に朱印を頂く。併せて800円かかる。その後デジカメで写真を撮ったりする。お寺に到着後から出発まで少なくとも30分はかかる。汗が吹き出る流れ作業だ。ようやく慣れて来て最近は一息入れる時間が5分くらいある。近頃は段取りが身についてきて落ち着いて来たが当初は本当に大変だった。忘れ物をして慌てて取りに帰ったり、経文帳などは汗と雨で、もはや表紙はぼろぼろである。輪袈裟はしばらくしてお参りの時にだけするようにした。汗で汚れるのだ。さんや袋と財布は体から離さない。この中にはろうそく、線香、念珠、ライター、経本、地図、携帯電話、ペンなど入れている。しかし正直言ってさんや袋は使いにくい。


⑦ 34番種間寺での納経時、団体も去り周辺には誰もいなくなる。納経所の恐らく僧侶(?)かなりのご年輩、何か親しみを感じ、会話が弾む。「お客さん、へー歩き?」「そうです」「大変だな」「イヤー、大変です。疲れ切っています。」「えー、そんなに見えないよ。元気そのものですよ」「そんなことはありません。くたくたです。」「いやー、そんなには見えないよ。元気そのものです。」そしてどちらからともなく「わっはっっは、わっはっは」と笑い声が当たりに響く。「わっはっは」僕も本当に良く笑った。誰から観ても僕は元気に見えるのだな。パワーが顔から、首から、体からやはり出ているのか。もうそれで良いわ。それにしても面白いと思わないか。何も関係ない知らない方がやはり僕を観て「元気」と感じる。そんなに僕は元気にパワー溢れるように見えるのか、そう言えばPTAの方にも良くそのように言われた。一生懸命なんだ。その瞬間に手を抜くなんて僕にはない。とにかく全力投入なんだ。その気概があればこその体にみなぎるパワーが溢れて来るのだ。人は意識して気力を隠そうとする。目立たないようにする。結果も目立たない。僕は違った。「やると思えば何処までやるさ」王将の一節です。目標を高く掲げ、絶対に実現する。これが僕の生き方でした。これを認めた瞬間が「わっはっは」でした。


⑧ 種間寺において一句。

     「洪笑し やがて悲しき 遍路かな」
     「洪笑し 涙をぬぐう  遍路かな」
     「洪笑し やがて下向く 遍路かな」
     「大笑い 目じりをぬぐう遍路かな」


2010年8月20日金曜日

8月20日遍路行十三日目 高知市内に入る

十三日目 8月20日(日)   遂に高知市内に入る

昨日の40キロの歩きと59歳の叔父さん二人の話でいささか疲れ気味。肉体なら分かるが心が疲労するとしんどい。大体日曜日にはこのようになる。何故だろうか?「サンデーブルー」か。僕には若干鬱の気がある。僕は今軽い鬱状態です。
先週の日曜日は徳島市内のホテル、今日の日曜日は高知市内のホテル、民宿は止め、タウンホテルでくつろぎたい。今はこれだけが楽しみであった。NHK「巧妙が辻」一豊、千代の土佐24万国の城下町に入る。本場の“かつおのたたき”を食べるぞ

① 丸米旅館、6時30分朝食、支払い7430円、あまり愛想の良い女将さんではなかったがまあ、可もなし不可もなしか。べたべたしないのも心配りの一つです。大日寺前まで歩いて戻り、29番国分寺を目指す。香美市、南国市に入る。距離8キロ、9時30分29番を打つ。早く高知市内に入りたいと考えれば気がせく。しかし脚が重く、距離が長く感じる。国分川を渡り、緩やかな国道登り道である。高知県立歴史民族資料館、高知大学医学部などを左に見ながら登る。12時逢坂峠を越えたところで高知市の標識となる。峠から市内が一望できる。それにしても逢坂とは。高知も天然の要害(?)である。二十九番「魔尼山国分寺」を打つ。良いお寺であった。そこからの道は下りで、漸く四国霊場三十番札所「百百山善楽寺」に到着。土佐神社と並んで建っていた。由緒書きには一豊から70石の扶持を戴いたとある。これも千代が決めたのかなと思った。




② ところが「善楽寺」から楽しみとしていたホテルまでが長い、長い。本当に厭になった。人間、目標を低くするとそれに馴染んでしまい、闘う意欲を失うのか。もう歩く戦いから逃げているのだ。40キロ歩くと決めれば絶対に歩く。余力を残して到着するのに目標を低く設定すれば一向にホテルに着かない。まさかホテルが逃げるわけでもあるまいに遠くに逃げる感じなのである。JR高知駅前から国道32号線を「はりまや橋」まで下り、右折し県庁前を通り過ぎればようやく「オリエントホテル高知」となる。場所は県庁に近いところにあるが、まあまあのグレード゙。仕方がない。ここしかなかったのである。



③ やることは多い。まず調子の悪いリュックの修理だ。エアーサロンパスも買わなければ、新しいパンツも一枚欲しい。何を食べるか、高知城に一応入ってみるか。まず湯船に水をため、冷水の中でリフレッシュを図る。気持が良い。半パンにTシャツで空のリュックを抱えてホテルを出る。目抜き通りにあるスポーツショップを探し、2件目でリュックの部品をゲット。助かった。胸帯を紛失していたのでザックが肩に食い込んで痛かったが明日から少し助かるか。帯屋町とか言う繁華街はそれなりのレベル、お城は今まさに「土佐24万国博」をやっていた。「碁石茶」というものに興味があったが荷物になるので買うのを止めた。お茶が好きなんです。



④ 全ての用事が終わった段階で少し早いが、食事を考える。8時前にはホテルに帰り、NHK-TVを観なければならない。まさか「巧妙が辻」を高知城の側のホテルで観ようとは思いもしなかった。お城の側に「ひろめ市場」というものがあり、多くの人々が食べたり買い物をしたりしている。言ってみれば「フードコート」である。「鰹のたたき」にすぐ決めた。藁焼きといい、ニンニク、ショウガ、刻みねぎ、なんとこちらの人は塩水をかけて食するというのだ。それに従った。いやー旨かった。初めて食べる本場鰹のたたきであった。ジョッキの生ビールと極めてよく合うのだ。メインはサバの押し寿司、これも身が厚くて歯が立たないくらい、とにかく旨い。高知の人々は室戸の民宿でもそうであったが本当に旨い魚の食べ方を知っている。





⑤ ホテルで洗濯の段取りをするが全館中学生ばかりでどうしようもない。大きな大会があって全国から多くの中学生が来ているのである。洗濯物が洗濯機の前に山のように積んである。ホテルでの洗濯は諦めてフロントに聞いて、市中のコインランドリーに行くもここも中学生で満杯。「しまった。」と思えども時既に遅し。結局夜遅くホテルで洗濯することになった。


⑥ ここで歩き遍路の1日当たりの経費を整理してみよう。


   ・宿    7000円前後
   ・納経代  納経帳とお軸で800円  これは霊場会の決まりで統一料金
   ・ペットボトル代     750円  @150円で5回くらい
     ・洗濯機使用代 100円   乾燥機使用代  200円   計300円
   ・昼食代    600円   飛ばしたりすることもある
大体1日10000円位かかると考えておれば間違いない。従って歩き遍路とは結構コストのかかる旅なのです。


⑦ 疲れ切った高知入りであったが、少し快方に向かう。僕の真夏の旅も終盤に差し掛かってきた。後悔はない。良く歩いた。この酷暑、炎暑、地獄のような照り返しの中をしっかりと良く歩いた。これを知っている者は少ない。それで良い。ただ歩いた。ごまかしなしに本当にかっちりと、しっかりと歩いた。誇りにする事でもないが、やはり「やるときは徹底する」のが僕の「生き様」です。何時も手を抜かず、徹底的に完全主義で進めます。これが時に周囲との軋轢を生みます。しかし男60歳にもなって今更いい加減な仕事も出来ません。自分では決して「強い男」とは思っていませんが、果たしてどうなんだろうと考えてしまいます。強すぎる男は敵も多いのです。