2010年5月31日月曜日

5月31日(月)5月の最終日






















・ 遂に5月の最終日となった。早いものである。明日からは6月となるが前に書いたように「6月下旬くらいまではこの校長日記を書いていこう」と思う。「精魂」込めて現在作っている「堺の校外グランドの竣工式が6月19日」であり、この記録を公式に残しておきたいからである。
・ 「3年前の平成19年6月1日にブログを書き始め」、丸々3年が経った。「ほぼ毎日更新」でそれもA4版2枚の「長文」だから、ある程度「骨組みのある自分の考え」を発信出来たと思う。
・ 対象はまず「教職員」、そして保護者、そして理事者や評議員、そして一般府民の皆様に「情報提供」してきたものである。まあ、ほとんど教職員だ。いい加減な気持ちで書いたものではないから「書いたものには自信」がある。
・ 注意深く書いた積りであるが、「日記」という性格上、ある程度「踏み込んで」書かねば、思いも伝わらない面もある。強く書かなければ日記の内部にある「書き手の奥底の思い」は伝わるまいと思ったからである。元々教職員の反応は敏感というわけではない。「人事(ひとごと)と受け取る性向」があるからだ。
・ しかし何時かは「閉めなければならない」ことも事実でそれを本当は今日で節目としたかったが何事にも勢い余った「オーバーラン」はあるもので、6月をそれに充てたい。特に5月は色々あって昨日までで24日分しか書いていない。
・ 残りの日日を大切にして、この「学校の責任者」として最後の月の「ブログ発信」していきたいと思っている。大体「固定の読者」に読まれている。これだけの長い文章を毎日読むのは「容易な話し」ではない。このようなお方のためにも「しばらく休憩」がいる。
・ 昨日の「多聞尚学館での授業参観」で、ある保護者から以下のように言われた。私の「ブログの愛読者」だと言われていた。勿論現1年生の保護者である。おっしゃったことを忠実に再現してみよう。
・ “校長先生のブログからは「生徒、教職員への溢れるばかりの愛情」を感じます。私どもは「夫婦して校長日記を読むのが楽しみ」です。大体夕食時に話題となります。今や生活習慣の一部となっています。
・ ブログからは単に学校で起きていることを知ることが出来るという意味だけではありません。校長日記に書かれている「物事への視点」が大変勉強になります。私はまだ若く人生経験も豊富ではなりませんが、あのブログから「なるほどこういうものの見方」「物事の考え方」「時事解説」などが大変ためになります。以下略“
・ 特に私はこのお方のお話から「生徒教職員への愛情を感じる」と言われたことが嬉しくて仕方が無かった。その通りである。「私は本校の生徒や教職員へ溢れんばかりの愛情を持って接している」。これだけは間違いない。
・ 愛情ある接し方というのは「口に優しい」ことばかり言うのではない。むしろ「」であるかも知れない。しかし「最後の最後ではいかなる理屈があろうとも生徒教職員を私は守る」。それが無かったら「厳しくは出来ない」。
・ 理事長職務代理が一度私に言われたことがある。「理事長は浪速家族の親父さんみたい」ですねと。そうかも知れない。良い悪いは別として「浪速ファミリーの家父長的存在」として毎日を過ごしているのかも知れない。
・ 家族の親父とは「うるさくて、頑固で(私は頑固ではないが)圧倒的な存在感」で家族に君臨して初めて親父さんであろう。親父の言っていることが全て正しいとは言わないがそれでも親父は家族のために「嫌われるのを覚悟」して「家族を守っている」のである。
・ 実は明日が誕生日で64歳となる。昔で言えば64歳とはもう「おじいさん」である。亡くなった父は63歳一杯まで仕事をした。敬愛して止まなかった私の父が63歳まで働いてくれたのだから「私も絶対に父が第一線で働いていた63歳までは自分も頑張ると自らに約束」していた。
・ その年令になったのである。明日からは父を超えることが出来る。何も父には勝てなかったが現役勤務期間だけは父を超えられそうである。これだけは勝てた。天国で見守ってくれている父はそんな私を褒めてくれるか。

・ 昨日の中学1年生の多聞尚学館での「授業参観」は「本格的」なものでこういうのもたまにはあって良いと思った。学校とは全く違った雰囲気でとにかく「授業参観」に徹して「浪速の実践」を見てもらうのである。
・ それも「3こまぶっとうして」観て貰うのだから、「様々な教科」「様々な先生」の授業が分かって、「今の中学の教科指導の中味」もご理解頂けるのである。これは案外大きな効果がある。正直言って保護者の中には学校の先生でもないかぎり「教えている内容」まで詳しくご存知だとはいえないのではないか。
・ 私も昨日は4人の先生方の授業をある程度詳しく観察できた。英語、社会、国語、数学の4科目であった。それぞれ特徴があって良かったのだが、当然気になるところもあって今日昼休みに中学の教頭と3人の先生を呼んで感じるところを話した。
・ まず私が感じたところは「授業もリズム」であり、リズム感の無い授業はただだらだらと続くだけで効果も薄れるのではないか。次に「板書」である。汚い字でゆっくりと書き時々間違ったりしてはどうしようもない。
・ それから「声の大きさ」である。はっきりと教室の隅々の生徒全てに伝わるような声で話さないといけない。下を向いて「一部の生徒」だけに話しているようなものでは駄目だ。
・ 加えて解答をさせて間違った解答をした生徒の数など確認して「どうしてこのように高い比率で間違っているのか」考察しなければただ「一方通行」の授業になってしまう。
・ それと「為め口」というのか、「お笑い」というのか、関係ないことをあれこれ言うのも耳に障る。確かに時々は生徒の緊張を解くためにあっても良いだろうが、それが「パターン化」してしまったら「緊張感のない授業」「集中力の無い授業」となってしまう。
・ 50分の授業でも文章作成と一緒で「起承転結」が必要ではないのか。最初の5分で導入し言ってみれば「仕切り時間」である。そして「授業のピークが何回かあって」終末に向かう。「大切なことは最後の5分」である。ここで「まとめ」なければ意味は無い。
・ 料理番組でも紀行番組でも最後の5分間で「総括」をするものだ。実はこの5分間が頭に残っておればその授業は成功である。私が何時も授業をみて感じることは「どれくらい生徒が理解しているか」ということである。その確認がなされていなければそれは「教師の自己満足の授業」でしかない。
・ 私は今日3人の先生方に言ったのである。「君たちが教えている生徒は基本的に誰の生徒か?」。直ぐに答えは返ってきた。「学校長の生徒です。」その通りだ。「入学を許可したのは誰だ?」「校長です。」
・ 私は先生方に言明したのである。先生方に「私が入学を許可した大切な生徒」をお預けして教育をして頂いている。いわば先生方に「委託をしている」のであって、先生方が自分の好きなように教えて貰っては困ると。
・ 「自分のワールド」に浸っていては駄目だ。「唯我独尊こそ教師が最も気をつけなければならない」。例え教科は違っていてもお互いが授業を観察して「指導法を高める努力」をして欲しいと。逆に専門教科が異なる方が良い場合もあるのではないか。3人しか居ない担任である。お互いがもっともっと高めるようにして欲しいと。
・ 「自分の世界」に閉じこもって「自己満足の授業」に陥らないためには何をなすべきか常に考えておいて欲しいとお願いしたのである。今までは「教科単位で教え方に違いがあって当然」と思っていたが「本当にそうか」と私は思い始めたのである。「基本的なことは同じ」はずでそうでなければおかしい。

2010年5月30日日曜日

5月30日(日)中学1年生、多聞での授業参観














































・ 学校に立ち寄り用事を済ませて学校車で堺のグラウンドに向かった。昨日中に「浄明正直」の石版が碑石に埋め込まれていた。これで最終完成である。すばらしいものが出来上がり、嬉しい。
・ 建設会社の担当者と「足洗い場」と「手洗い場」の位置について現地を見ながらさまざまに検討し、最終的に決めた。いろいろと考えて見ると「知恵」が出てくるもので、今日決めた場所が「ベストポジション」だと思う。「現場で判断するのが一番」である。
・ これで来場者の「駐車場からのスタンド方面行きあるいは戻りのアクセス通路」が見事に確保された。今までのアイデアはとにかく難波高島屋のまん前に手洗い場を置くようなもので、加えて「道を塞ぐ」ものでどうしようもなかったが、ようやく解決を見たのである。
・ こういうところは正直言って民間企業人の「修羅場の経験」がものをいう。教員は生きてきた世界が狭いから「発想が豊かではない」。そこへ持ってきて建設会社の担当者も「流れ」に乗るから時に「見えなくなる」のである。今回もこのような事態が極めて多くあった。
・ グランドは「にがり」が撒かれ「最終的に完成」していた。土は固くなり、これで雑草も多くは生えなくなるであろう。本当は野球の内野は「黒土」にしてやりたかったが、これではサッカー部やラグビー部が迷惑を受ける。
・ ここは「多目的球場」であり、野球だけの専用球場ではないから仕方がない。将来ラグビーやサッカーの専用コートが持てるようにでもなればいくらでも変更はできる。又当初は「グランド全面に人工芝」を敷いて欲しいとの要望もあったがそれは現時点ではあまりにも「贅沢」というものである。まず住吉区の「本校のグランドの芝生化」が先であろう。誰でも判断できる話である。
・ 植木屋さんを呼んでおいたので早速「PTA寄贈の桜の植樹」について現地打ち合わせを行った。「グランドの防球ネット周囲をぐるりと取り囲むように桜の木を植える」。その数は36本という。小さな苗木で駄目でありある程度の大きさすなわち3メートル程度の樹を探してもらうこととした。
・ これらが数年で大きくなり花を咲かせるようになればここは「桜の名所」となるだろう。春の桜の季節にはここでPTAのさまざまな催しものでも出来るではないか。周辺が桜の樹が多いだけに植樹は桜でなければならなかったのである。
・ 今回はピッチャーのピッチング練習場、すなわち「ブルペン」が大変立派なものにあるであろう。ここだけは本格的なものである。高校野球はピッチャーの力によるところが大きい。「豪速球を投げるピッチャー」が1人欲しいとつくづく思う。

・ 堺グランドを9時30分に後にし、私は「千早赤阪村の多聞尚学館」に向かった。今日は「中学1年生の保護者の授業参観」をここ多聞で行う日なのであった。今年初めて企画したものである。今年から中学校は「関西大学連携浪速中学校」となった。
・ 次々と新しい試みを生徒のために行い「学力向上や生活規範の向上」を図っていかねばならない。今年から中学生は「ウィークデイ」で多聞での集中講義をやるようになった。ウィークデイというのは多聞が「週末スペシャル」でほぼ高校生の利用で100%埋まっているから中学生にまで回って来ないからである。
・ 私は中学の教頭に多聞尚学館の紹介をかねて一度多聞で「授業参観」を計画したらどうだと言っていたのだがそれがこのような早い段階で実施できる運びとなった。すばらしい。この「手際の良さ」は今年「高校からエース級の教師を中学1年生の関大コース長に当てはめた」のだがその効果が早速現れてきた感じだ。この先生は「仕事が早い」。
・ 私は堺から千早赤坂に向かう途中、この3年間で「私が中学校に対して何をしてきたか」考えて見たのである。確かに朝礼では高校生のことばかりしゃべってはいるが学校改革の対象としては中学にも結構多いのである。
・ 何と言っても大きなことは「中学校の教員の顔ぶれを大幅に入れ替えたこと」である。「一新に近い。」そして「学校行事」も大幅に変えた。それで雰囲気が「コロッ」と変わったのである。「物事を変えるイには人を入れ替える」ことが最も手っ取り早い方法である。
・ 印象的だったのは「テニスコート」である。それまでは2面しかなくてほとんどを高校生が使って、雨にでもなれば「水溜り」となっていたものを人工芝3面コートとし、「1面は中学生優先」としたことである。
・ この時に一挙に「中学生の人気を勝ち得た」のではないか。中学生とすれ違うたびにお礼を言われて恐縮したものだった。それくらいインパクトがあったのだろう。私はつくづく「良いことをした」と感じたものだった。
・ 多聞尚学館を使った宿泊合宿も行い、「放課後講習も制度化」した。とにかく「中学が大切」であると言う深い認識でのことであった。最近では中学の教室の照明が暗いと感じ、試験的に対応策を考え照度アップの実験をし全面的に照度アップを図ることとした。
・ 中学1年生A組で行ったのである。その結果黒板付近の照度が1.8倍から2倍に上がった。又多聞尚学館においては「農園」を開き中学2年生の勤労体験で「ジャガイモ」の植え付け栽培体験も従来のものからグレードアップさせた。
・ 至近の距離にある武道館が完成すれば中学生は快適な環境での「講堂」と代替使用可能である。様々な形で武道館は中学生が使用できる。又堺の校外グランドが来月完成すればここ住吉のグランドは今まで以上に「中学生使用の自由度」がアップする筈である。
・ 武道館が出来た後には今は不自由さを与えている「中学生のクラブ活動のための部室」もかねてから「校長先生、部室が欲しいです」と訴えられているところである。
・ とにかく4年前が底で中学3学年全体で生徒数が100人以下だったのがこの3年で360人近くに膨れあがったから何をするにも大変なのであるがこれは「嬉しい悲鳴」であり、この苦労など全く問題ない。今後とも中学には「目配り・気配り・心配り」していく必要がある。
・ 本日の授業参観は大変良かった。事前の準備と中学の教員総出での対応が良かった。何と保護者がほぼ100世帯で200人を超え、親子ともどもでは300人以上の大きな規模でのまとまった参観となった。
・ 先生方は「気合の入った良い授業」をしてくれていた。私は大いに満足したのである。合同の「昼食会」も当初は心配したが体育館で実施し、大いに盛り上がったのである。給食会社さんの奮闘が成功に導いたものである。私は生徒と保護者が並んで同じものを食べている光景を見て「良い企画」であったとつくづくと思ったのである。
・ 挨拶で私は正直に保護者の皆様に対して「浪速中学校の強力な応援団」になって欲しいとお願いした。入試広報や教職員が幾ら頑張っても現在本校に子弟を送って頂いている「保護者の応援の一言」の方が何倍も大きいのである。
・ 千早赤阪村の多聞尚学館や「金剛山」は5月の快晴に空気は澄み切ってよく見え、心地よい風が体を通り抜けていく。本当に気持ちの良い一日であった。今日は本校の教育の方針と実践について保護者のご理解を頂く絶好の機会になったのではないか。
・ 今は居ないが本校に勤務していて一切ここ多聞になど来たこともない輩が教員も生徒も多聞でくたくたになっていると鳩山総理以上の嘘ばっかり言っている無茶苦茶な人間がいるらしいが、一度多聞に見に来たらどうか。
・ 教員は張り切り、校長はその努力を「口だけの賞賛」だけではなく具体的に「特別手当」でその労をねぎらい、生徒は「勉強が分かるようになった」と喜んでいる。大体同じ1人の教員が多聞に来れる機会はそう多くはない。くたくたなどなるわけが無い。
・ 多聞で特別講習が張れるようになったら「一人前」であり、そう簡単に多聞には来られない。それ位この多聞は「格の高い」ものである。それに楽して生徒の学力が付き教師としての仕事の責任が果たせるか。
・ 「社会人の仕事とは元来厳しい辛いもの」である。如何に教員には「甘い人間」の多いことか。しんどいことはしたくないなら其れで良いのである。したくない人間が頑張っている教員のことをあれこれ言う資格はない。「黙って引っ込んでおれ」。
・ 「頑張ってくれた人間こそパイを分配される権利」がある。しんどいことを避ける人間はそれなりの処遇で我慢してもらわねばならない。パイは大きくならないのだからこれを「均等ではない、仕事に応じて公平に分配する」、これは当たり前のことである。

2010年5月29日土曜日

5月29日(土)久しぶりの堺グランド





























・ 「中学修学旅行の付き添い」などでしばらく「堺の校外グランド」に行けなかったので時間を見つけていって来た。「工事はまさに山場」に差し掛かっており、丁度「クラブハウスの設置工事」が丁度始まったところであった。
・ まず「門扉」がついていたがこれが「中々立派」なもので大いに気に入ったのである。「センスと風格」が特に正門の門塀には重要である。「私は特に正門の門塀と表札にこだわる」ところがある。
・ だから住吉の本校の正門の門塀も「改革の門」として3年前に着任してすぐ再建した。「威風堂々」とはこういうことだというような立派な門が出来上がった。人は言う。「浪速はあの門のおかげで生徒が来るようになった」と。
・ 正門が格好良いから生徒が増えると言うことは無いと言うかも知れないが私はこの見方には注目している。「誇りを持って生徒や教職員が出入りする門」というものは大変重要な視点である。そういう意味で堺のグランドでも私は門にこだわっているのである。
・ 又「表札も重要」である。これは「単なるネーミング」ではない。ここに集う人々が何をするところか内外に明らかにするためのものであり。余程のセンスで「存在感溢れる表札」としなければならない。
・ しかし今回も同じ失敗を繰り返した。「見えにくい」のである。見えない表札など全く意味は無い。どうしてこのようなことになるのか。「作り直し」である。全く存在感のない表札では「クラブは強くも成れないだろう。」

・ 期待していた植樹はまず正門を入った右側に名誉理事長、理事長職務代理、そして私の3人が寄贈した「クスノキ」がすでに植えられていた。「素晴らしい仕立て上がり」で私は大変嬉しくなったのである。植木屋さんの腕とセンスがとても良い。
・ 神社神道の学校だから本当は「学院神社の分社」でも持って来たいのだが、ここはスポーツ練習場だし多聞尚学館とは少し異なるのでそれは止めて「鎮守の杜」には欠かせない「神木クスノキ」を植えることとした。
・ 樹の名前は「浄明正直」である。これは「本校の校訓、校是」であり、元々は神職の位階を示す。私の執務室には浄明正直の「篇額」が伊勢神宮の元の大宮司である徳川宗敬氏の揮毫になるものがかかっている。
・ 「照明設備」はすべて設置された。「12箇所で総計48個の投光」となるから「これは明るい」。しかし当然これは非常用で夜遅くまでやらせるわけにはいかない。この「照明設備のスイッチの管理は高校の教頭」にしてもらおうと思っている。
・ そうでもしなければ「何時までも赤々と照らして練習する」に違いない。とんでもない。勉強をして貰わねばならない。この点灯試験には私は付き合う積りである。ここまで本格的な照明はそう多くの例はなかろう。
・ グランドは「ラグビーのポール」を立てる「埋め込み穴」なども完成していた。そして現在はグランドに土を入れて最終的なレベルを出していたのである。一両日中に「にがり」を撒いて土を固めるのであろう。そうすれば遂に「グランドは完成」する。
・ 懸案のクラブハウスであるが想像以上に立派なもので、「建て方」が始まっていた。位置関係が素晴らしい。2階建ての建物であるが、これは1階2階の前方通路が「格好の観覧席」にもなる。プレハブなのでぜいたく品ではないがこれで十分である。
・ 後は「生徒の着替え用ロッカー」を上手く製作しないといけない。市販の鉄製のロッカーなどは結構使いにくいので今回は阪南大学のロッカーを見学し、これを模倣して現地で作るのである。「使い勝手の良い」ロッカーを作ってやりたい。
・ 昨日現地で議論となったのが「足洗い場」と「手洗い場」である。何と難波高島屋の真ん前のような一等地にそれもアクセス通路を塞いで設置するようになっていたので変更させた。分かっていない。
・ 「お湯」など出る必要は無い。どこに高校生のスポーツ施設において足洗いや手洗い場所に湯が出なければならないというのか。「水で十分」である。「シャワー」については将来のマターで良いと思う。
・ バックネット裏の「ロイヤルボックス」というか来賓ハウスについては満足できる。まず天井が高いし、「正面の窓をギリギリまで大きく」したから外野へのフライまで簡単に見えそうである。これは大変良い。ここには「空調」を入れる。
・ 後は倉庫の建て方とトイレであるがこれもそのうちに始まるであろう。身体障害者用に特別なものまで設置するから喜んで頂けるのではないか。男子専用が5ボックス女子専用が3ボックスである。

・ 一方「6月19日の竣工式と安全祈願祭」の段取りも急ピッチで進んでいる。13時30分現地で式典そして場所を堺ロイヤルホテルに移して「披露パーティ」である。すべて本校からのバスを手配すべく進めている。
・ 招待客リストを順次更新して「ご案内」しているという。私からは「お世話になったお方全て」にお出しするように言ったのである。共に喜んで頂きたいと思うからである。
・ この日はクラブ員による「パーフォーマンス」も計画されているとかで「何が飛び出るか楽しみ」である。このようにして日一日と「浪速ふくろうスタジアウム」はその「容貌」を見せつつある。これを観るのが楽しみで成らない。明日日曜日も私は現地に赴く。
・ PTA会長が見えられ「桜の樹を寄付」したいと言って下さった。望んでいたことであり大変嬉しかったのである。「ふくろうスタジアムを桜の木で有名なところにしたい」。早速明日植える場所を決めたい。思い切って多く植える積りである。
・ 「陣頭指揮」を執らねばならない。こういう設備はこれからの「細工の段階」で出来上がり変わって来るからである。「気を抜く訳には行かない」。金はかけられないが気持ちはかけて良いものを造ってやりたいのである。

2010年5月28日金曜日

5月28日(金)修学旅行余談
















・ 今年の「中学3年生修学旅行」も終わった。私にとっては「3月の高校修学旅行」に引き続いての経験であった。「すべて晴天」に恵まれて大成功であったといえる。「縄文杉」も十分味わった。言うことはない。付き添いの教員は大変良く頑張ってくれた。又エージェントも見事に対応してくれた。
・ 付き添いの教員の数は「管理職を入れて6名」であった。生徒数が約100人だから決して少なくはないと思う。教員は出来るだけ多くの付き添い教員を望むが、多ければ多いほど良いというものでもない。経費の問題もある。
・ 大体一クラス40名の生徒を標準として「一クラスあたり1.5人の付き添い教員が標準」というのが府立高校などと考え方であった思う。私はこのように習った。従って今回は3クラスとして4.5人が標準で、これに管理職が1名ついて5.5人となり、四捨五入で6人とした訳だ。
・ 今後ともこの考え方で良いと思うが例えば「秋に予定されている本校初めての海外修学旅行」は少し「配慮が必要かも知れない」と思っている。「生徒を守るために、よりかっちりとした付き添い体制」をとるかどうかが判断基準になる。この場合やはり「旅行会社の海外での蓄積された実力」が問われるのである。

・ 「旅行期間」については基本的に「長からず、短からず」ということが肝心である。「教育効果と費用との兼ね合い」である。今回の中学3年生は3泊4日であったが少し「強行軍」だったかも知れないが、それならもう一日延ばしたとして何処に連れて行くのかという問題になる。
・ 「行く以上は目的と行き先との関連性」が重要で時間が「余ったから何処かに立ち寄る」ということではいけない。今年の秋の高校2年生のニューヨーク方面修学旅行は帰途において韓国のインチョン(仁川)にフライトの関係で立ち寄るのだがそこで時間があるからと言って普通は行かない市内に生徒を連れて行くと話しを聞いたので私はそれを止めて貰った。
・ 「とんでもない話」で北米アメリカの修学旅行で韓国に行くのではないし今「北朝鮮との関係が微妙な時」に日本の制服を着た高校生が大挙して韓国の町を歩かせる「危険性を私は感じた」からである。これを「リスクマネージメント」という。
・ 時間が余ったからどこかを探すなどはいけない。関連性が重要であり、大体「ちょっと時間があったから」というような感じで急遽現地で計画を入れたりすると「トラブルの元」となる。それは歴史が証明している。

・ 今回の修学旅行においてもこのような事が発生した。「縄文杉」からの下山途中において橋の上から見ると本校の生徒が川側におりて遊んでいるんではないか。もし足を滑らせて川の中に落ちでもすれば大変なことになる。
・ これは元々計画されたものではなくて「ガイドさんのサービス精神」で突如入れてくれたものらしい。最初の班がそのようにするので後から降りてくる班の生徒も次々とトロッコ道から脇にそれて清流、それもかなりの激流の川の側に行っているのである。
・ これを見た私は、生徒はキャーキャー言って喜んでいるし、修学旅行だし、最初は「まあ良いか」と思ったが、やはり気になって途中でガイドの降りてくるのを待って「校長よりの緊急命令」を発した。「川の側に近寄ってはならない」と。
・ 高校の秋の修学旅行も予定が「ぽっかり開いた」からと言って急遽計画を変えるなどはしてはならないことを厳命しておかないといけないと思ったのである。もう一つの理由は生徒一人当たり同じ費用負担となっており、「余分にサービスされた生徒とそうでない生徒」が出来ることは好ましいことではない。
・ いずれにしても修学旅行は「事前に研究して計画を組み、その通りに実行する」ことが最も重要である。校長が認定した通りのコースを踏んでそれ以外のルートなどを現地で教員が勝手に変えるなどは絶対に許されない。最終判断は「管理職の仕事」である。そのために管理職がついているのだ。

・ 今回の私の学習は「ガイドの質の問題」であった。私は2班であったのだがこのガイドさんは問題であった。何しろ「ヘビースモーカー」で1時間に一回の休憩途中では毎回生徒の前でタバコを取り出し「ぷかぷか」されるのである。
・ こういう場面があった。ある年配の登山客がそのガイドさんに向かって「生徒さんの前で、又ガイドさんが国立公園の中でタバコを吸ってはまずいですなー!」と注意をされたのである。全くその通りである。
・ このように「タバコのみを私が嫌う」のはこのような「マナーの悪さ」である。酷いのになれば「吸殻のポイ捨て」を平気でやる。こうなるともう「傲岸不遜」と言っても良い。成長盛りの中学生の真ん前で「プカリプカリ」では教育にはならない。
・ この点に関しては私は旅行エージェントに厳しく伝えた。「来年以降のガイドには非喫煙者を充てる」ようにと。当たり前だと思う。貴重な日本の財産である屋久島山中で「タバコを吸うという行為への倫理観の欠如と克己心の無さ」に私は憤慨するのである。タバコのみはこのように「だらしない面」が目に付くことが多い。
・ 3年前に屋久島のグリーンホテルで管理職がロビーの片隅でタバコを吸っていて私は厳しく指導した。目の前には生徒は居なかったが付き添いの教師が公共のホテルのロビーでタバコを吸っているようではどうしようもない。「部屋で吸え」と。
・ 秋の修学旅行でも高校の教員は気をつけないといけない。喫煙の教員は夜全ての業務から開放された時に「自室で吸う」しか方法は無い。フランス、ドイツ、アメリカ、全ての国においては喫煙場所はもはやほとんどないから仕方が無い。
・ 又部屋にも気をつけないといけない。喫煙者は喫煙の許可された部屋を取って貰っておくようにあらかじめ旅行会社に頼んでおかねばならないだろう。もし破れば大変なことになる。「日本人の恥」となる。そういう国際的マナー世界になったということである。

・ 私は個人的に修学旅行を評価するのはこの間少なくとも「断酒」が出来るからである。付き添い教員は自宅に帰って席につくまで「一滴も酒を飲んではならない」。これは当たり前である。
・ 中には「生徒が寝静まったら缶ビール一本くらい良いでしょう」とか馬鹿なことを言う人間もいるがとんでもない話である。府立では「懲罰行為」である。公立も私立もこの修学旅行とかスポーツ合宿とかは「特殊勤務」であり、24時間拘束された仕事中なのである。
・ 仕事中に酒を飲むか。もし真夜中に火災でも発生し、犠牲者が出たとしよう。生徒の誘導避難に当たるべき「教員の呼気からアルコールが検出」されたとなったら「お仕舞い」である。「規則は教員を守るため」のものでもある。

・ 生徒の着ていく服については諸論がある。今回は中学生ということで「制服指定」にしたが、これはこれで良かった。問題は高校生である。今年3月の3年生の修学旅行は私の指示で急遽「私服」としたのだが当初は様々な意見があったのは事実である。これは国内旅行だったからこれでも良かったのだが問題は秋の海外である。
・ 「果たしてどうしたものか」。現2年生の責任者である学年主任の先生は「制服であるべし」との考えらしいが「ウーン」という感じもする。「生徒の安全確保のため」には「私服と制服とどちらが良い」のか夏までに結論を出せば良いかなとも思っている。

2010年5月27日木曜日

5月27日(木)ウイルソン株から縄文杉



























































































・ 「ウイルソン株から縄文杉」までは急峻な山道であることは昨日のブログに書いた。トロッコ道を終えて2,5キロの距離を高度は1300メートルまで上るのだから厳しいことは間違いない。
・ 地元山岳会が足場に「木製の踏み板」を設置はしてくれているが、それでも歩きにくいのである。とにかく「石ころが多い」から歩き難いのである。手すりなどはないから「脚と膝のバランス」で上っていかねばならない。
・ しかし生徒たちは「駆ける」ように登っていく。足腰がばねのようで「若い」ということはこういうことなのである。ホテルに帰っても全く疲れた様子は見せない。頼もしい限りである。
・ 山道は「上り道優先」で上から降りてくる人は狭い道を空けて道を譲ることになっている。私は何時も降りてくる人に聞くのである。「後何分で縄文杉ですか?」と。それを聞くことで「目標が更新」され又「力が湧いてくる」のである。最後の頃は3分おきに聞いていた。
・ 第一目標だった、今や朽ち果てたとは言わないが単なる切り株になってしまった「ウイルソン株」は3年前に「無念の撤退」を宣言した因縁の地点であった。周囲が13.8メートルもあり「今から400年前に伐採された最も古い切り株」といわれている。ガイドさんの話によればその昔秀吉が薩摩藩に命じて京都の方広寺の建設に当たって銘木の供出を命じられたからとの説明があった。
・ 大正3年にこれを見つけた「ウイルソンというアメリカ人植物学者」が、全世界にその存在を知らしめたのでその人の名前を付けたのだそうである。さぞかしウイルソン氏はこのような杉の巨木跡を見て驚いたことだろう。
・ ウイルソン株からは巨木が連続して現れる。まず「翁杉」「大王杉」そして「夫婦杉」となる。樹齢は2000年、3000年を超えておりいずれにしても根元付近は圧倒的な太さである。
・ 「縄文杉は突然現れる」という感じである。急に多くの人々が下りて来られるし、その顔に満足感が満ち溢れているから「ぼつぼつ」だなと思うのである。そして勾配が急だけに見上げると急に縄文杉の人工の展望台とその後ろに「圧倒的な存在感で縄文杉は出現」する。
・ 言いようもない「威容感」と同時に「神々しさ」をも私は感じた。時刻は正午前だから何故か縄文杉の周辺は「もやが立ち込めていて」、雰囲気が神々しいのである。まず私はこのことを感じたのである。最後はまさに小走りという感じで真正面に立った。「これが縄文杉か、ウーン、縄文杉か」という感慨にとらわれたのである。
・ その存在は会いに来る旅人に決して「媚びることはなくしかし決して裏切ることの無い雰囲気」を醸し出していたのである。展望台で「仰ぎ見る」という感じである。樹木保護のためだろう、傍には近寄れない。「ちょっとでも触ってみたかった」がそれは不可能なことであった。
・ 私は素直に感激し感動した。しゃべってばかりいた生徒諸君もじっと「見入っていた」。恐らく彼、彼女たちも「何かを感じた」のではないだろうか。生徒たちはこの日観た縄文杉を脳裏に焼きつけこれから先に人生で一度や二度は思い出すことがあるだろう。「それで良い」と私は思う。
・ 樹齢は様々に言われているが4000年も昔この樹が生まれまさに「太古の歴史」を彩る日本南端の「雨の島屋久島」の標高1300メートルに聳え立つ縄文杉の目の前に立ったというだけでも価値はある。
・ 中には人生でもう一度くる機会はない人の方が多いかも知れない。それだけに学校の修学旅行の意味はあるのである。「良い修学旅行の企画」だと今更ながら思いを深くしたのである。これだけは継続しなければならない。最初誰が考えたのか分からないが素晴しい。
・ 6時30分に登りはじめて縄文杉にたどり着いたのが11時であったから4時間半の行程であった。しかし後から続く登山客のために長居は出来ないのである。記念写真を撮ってそれぞれの班単位で下山する。
「観ただけで十分」で「後ろ髪を引かれる」「立ち去りがたい」ということはない。きつい山道を苦労して登り目的の縄文杉を見ただけで十分なのである。生徒たちは驚くことにあの坂道を走るように下がっていく。
・ しかし我々の世代には上るよりも下がるほうに気をつけなければならないし、特に下りは「膝に来る」。それでも体重のベクトルは下向きなので体全体としてはとても楽なのである。
・ 私はとても幸せな気持ちで黙々と1人で山道を下っていった。縄文杉近くの適当な場所で昼食を済ませ一同荒川登山口に戻る。途中は「木漏れ日の凱旋道路」といっても良い。「屋久鹿」や「屋久猿」にも多く遭遇した。屋久島には人間2万人、鹿2万匹、猿2万匹というくらい多いらしい。
・ ホテルに帰って入浴、昨日は「大風呂に生徒と共に入った」。そして良く眠った。そして今朝は元気一杯であった。さすがに瞬発力は落ちたが「回復力」はまだまだ健在である。これなら後10年は行ける。
・ 6時30分朝食、生徒とバスで「もののけ姫」の舞台となったという「千尋の滝」を観光し、その後は物産館で「木工細工」である。屋久杉の小さな切れ端を使って生徒たちは携帯のストラップを削りだしていくのである。
・ 私は生徒たちに短い挨拶をして一足早く屋久島空港に向かった。生徒たちは昼食に「レンガ亭」というところで「焼肉」を食べ、その後安房港から高速船で鹿児島港に向かって「維新記念館」を見学して鹿児島空港から伊丹に飛ぶこととなっている。
・ 便利な世の中になっており、生徒たちの大きな荷物はホテルチェックアウト時に「宅配便」でそれぞれのご家庭に送る手はずとなっていた。バスに乗るときは全員手ぶらなのである。
・ ホテルではお土産が良く売れたと言っていた。後は鹿児島で最後にお土産を買って修学旅行は終わりとなる。皆満足した顔つきをしていた。「知覧特効記念館、種子島、屋久島縄文杉コースの3泊4日の修学旅行」はこのようにして完成を告げようとしているのである。
・ 私のほうはと言えば屋久島空港においてちょっとしたトラブルで、伊丹直行便が機材問題でキャンセルとなり急遽鹿児島空港に飛び、2時間ほど待って伊丹行きに乗り継いだのである。JALは気を使って現金で1000円呉れて「昼食代」だという。理由は迷惑をかけ、丁度「お昼時分」にかかったからだという。
・ 折角だから屋久島空港で定価1000円の「屋久島うどん」を食べた。島には屋久島うどんの看板がいたるところにあったから「どのようなうどん?」なのか興味があったのだが、要は「飛び魚のから揚げ」がついているだけのことであった。しかしJALもこのようなことをしていては「経営再建」もおぼつかないのではないか。

2010年5月26日水曜日

5月26日(水)屋久島ウイルソン株まで





































・ 理事会・評議員会が当初予定の27日から先週の21日に変更となったのでぽっかり予定が開いて結局一日遅れで「中学3年生の修学旅行に一日遅れで追いかけていく」ことが出来た。幸運である。
・ 管理職は中学の教頭先生が付き添っているから、そういう意味では必要なかったかもしれないがやはり「中学生が好きなのである。可愛いのである。好ましいのである」。元来学校の修学旅行には校長は帯同すべきか否かについては「原則帯同すべき」が答えだろうが、規模が大きくなってきたりする高校などでは行き先も数箇所に分かれたりするから、管理職で手分けして行かねばならない。
・ 私は今からこの11月の高校2年生の初めての海外修学旅行について管理職の付き添いをどうするか「頭を絞って考えている」ところである。管理職の仕事は平穏無事であれば全くないが,一度「事故、事件」が旅先であった時に必要なのである。勿論無いように気配目配りすることが管理職に仕事である。
・ 学校会に転じて始めて修学旅行に付き合ったのは2年前だった。校長になって6年目で初めて初めて修学旅行というものに付き添ったのが中学3年生の九州、屋久島方面あったのである。
・ 当時のブログ「無念の撤退」は保護者にも多大の関心を持ってもらった。屋久島縄文杉登山は移動性低気圧のために大雨となり途中から引き返したのである。何時かは「リベンジ」と思っていたわけではないが是非中学生と一緒に登りたかったのである。そういうわけで3年ぶりに屋久島に来たのである。
・ 天気はこれ以上は無いと言う具合の晴天で空気は乾燥し、風も無い絶好の登山日和に恵まれた。この時期珍しいとガイドさんは言われていた。地形は丸く勿論「世界遺産の島」であり、目玉は「屋久杉」であるのだが、「屋久しゃくなげ」も有名である。
・ それに「ポンカンとタンカン」という果物の看板も目に付く。林芙美子はここの安房に逗留し小説「浮雲」を執筆した。とにかく「雨の島」だ。「屋久島は人が2万で猿2万、鹿で2万で計6万」と言う言葉があるらしく猿と鹿の町でもある。今日も我々は何回も猿と鹿に遭遇した。
・ ホテルは屋久島グリーンホテルと言い、本校の「定宿」である。4時起床。外の様子を伺うが「雨はない」。これは行けると嬉しくなってきた。4時50分全員揃う。カウンターに置いてある「朝食と昼食用の2食、ポカリと生茶のペットボトル2本」だ。それにカロリーメイトが一箱づつ全員に配られる。
・ 生徒数が増えたのでバス3台となった。約50分ほどで「荒川登山口」に到着。2年前は汚い廃墟みたいな屋根だけだったがハウスやトイレなども新築されており大変良くなっていた。しかし生徒たちは駐車場の片隅で朝食だ。おにぎり2個と少しのおかずである。
・ 今回は縄文杉コースと「白谷雲水峡コース」の両方を用意し生徒の体力で選択できるようにしたのである。縄文杉コースは10班に別れ大体1班当たり7名程度である。女生徒は9名が挑戦してくれた。そしてそれぞれの班に山岳会のガイドさんが付く。
・ まず初心者用に準備されたトロッコ道を歩くルートだ。此処は比較的歩き易い。老壮男女で一杯だ。200人以上とガイドさんは言っていた。それくらい「人気のスポット」なのである。
・ 足場はトロッコ道の軌条内を歩くのだが「枕木」を踏んで歩けば問題ない。途中からはその軌条内に板を走らせており、極めて歩き易くなっている。幅が30センチ程度であるが丁度下駄の裏みたいに凸凹になっており、すべることもない。この道が2時間ほど登り道であるが続く。
・ しかし手すりがなく一つの板場を歩くのも結構難しい。特に川を渡るつり橋というか鉄橋というか陸橋の数が多く、そこは手すりもなく、眼下は激流だ。正直少し怖いのである。落ちたら「一環の終わり」である。
・ 晴れ亘った青空が垣間見え、左側には大きな川が流れ、豊富な水が岩に当たり砕ける水しぶきと轟音が山にこだましている様はまさに「心身ともに洗い清めてくれる感じ」がする。空気の匂いが生々しくまさに「薬の空気か空気の薬」である。
・ 最初のポイントは小杉谷小中学校の跡地。看板によれば大正12年に集落が完成した学校の跡地だ。林業関係者の子弟のためにこのような山奥に学校があるなんてと思うが、雰囲気がとても良いのだ。正門がまだ残っている。ここまで50分か。
・ 次のポイントは三代杉だ。江戸時代初期から3代に亘って一つの切り株に自生してきた大杉である。ところで屋久島では1000年未満は「小杉」といい、1000年を越えて初めて「屋久杉」というらしい。
・ 遂にトロッコ道が終わる。これからは厳しい山道である。足場は悪く石ころだらけ、雨こそ無かったが本当に歩きにくい。しかし生徒は弾むように進んでいくが私はここから遅れ始めるので「マイペース」を宣言し「ゆっくりゆっくり」登って行ったのである。
・ とにかく私は2年前に撤退を宣言した「ウイルソン株」の地点が気になっていたから、ただ黙々と進んだ。しかし「苦行」であった。あれから2年、又体力が落ちているのか。「ウイルソン株までが遠い」のである。道はまさに難所であった。
・ 登山口を出発して3時間遂にウイルソン株に到着だ。私は「感慨無量」であった。あの時は本当に酷かった。それに比べて今日は「天国のような環境」で私はここでの休憩で「息を吹き返した」のである。これで「縄文杉にチャレンジ」出来ることとなり幸せの気持ちで一杯になったのである。
・ ところがこれからの登山は「苦難の道路」で何しろ標高1300メートルのところにある「縄文杉」は簡単には「お目見え」してくれなかったのである。「鎖場」である。足元は悪い。途中には観光協会が敷設している板道などもあるのだがとにかく「狭く、急勾配」で手をかける場所もない。
・ 正直何回滑りそうになったことか。「足元が上がらないからつまずいて傾く」のである。足を引きずっているのだ。それでも自分を鼓舞しながら縄文杉を目指した。「一歩一歩」である。これ以外に表現の方法が無い。この道が2時間は続くのである。前後には生徒の姿は見えず一人「分け入っても分け入っても山の中」であった。
・ そして遂に「縄文杉」を目にしたのである。「詳細は又別途のブログで」。ホテルに全員が帰着したのが17時、実に朝5時に出発して「12時間の長丁場」で浪速中学の生徒は完全に「縄文杉を自分の胸に焼き付けた」のである。生徒は満足そうであったし元気で平気な顔をしている。私も大満足であったが、本当に「疲れた」のである。しかし今日は「我が人生でも忘れられない一日」となったことだけは間違いない。

2010年5月25日火曜日

5月25日(火)中学3年生を追いかけて





























・ 11時45分に学校を飛び出て13時15分発の「屋久島行きのJAL」に飛び乗る。最近では珍しいプロペラ機であった。乗客は結構多くて伊丹から屋久島へは固定客が多いのかも知れない。15時には着陸した。今日は昨日出発した「中学3年生の修学旅行を追いかけてここ屋久島へ飛んだ」のである。
・ 降り立った屋久島は「抜けるような青空」で地元の運転手さんは「明日も良い天気ですよ。絶好の縄文杉登山日和となるでしょう」と言われていた。ここ屋久島の天気は最後まで分からないが地元のお方が言われるのだから間違いはなかろう。良かったと一安心したのである。
・ 久しぶりにこのブログでも中学生のことを書ける。この辺で書いておかないと保護者からお叱りを受けそうである。保護者はしっかりと校長日記を読んでおられ、「校長先生の日記は高校生のことばかり」と言われかねない。
・ 実はこの前のPTA総会後の懇親会で一発パンチを食らったのである。校内で毎月行われる「一斉朝礼」について「高校生と中学生は分けた方が・・・」とかのニュアンスでご意見を頂いたのである。
・ この話しを聞いたときに私は「アッ」と思った。「やられたなー」とも感じたのである。「校長先生のお話しは高校生のことばかりだし、中学生向けには・・・」という具合である。振り返って考えてみれば確かにほぼ99%、高校に関する話である。
・ 現在は授業料の無償化の話や新学期が始まって「高校生の日常生活指導面の指導」などが主体で「ついつい高校生対象の話し」になるのである。この間中学生はどうしているかというと、高校生に混じって「突っ立ったまま」校長の話を聞いているのである。
・ 勿論聞いて無駄になるような話ではないが月に一度の短い貴重な時間だから、「中学生には中学生向けの別途伝えたい話しもある」ので、このPTA役員の話を聞いて私は直ぐ「反応」した。
・ 6月から「高校と中学の朝礼はタイミングをずらす」こととした。中学は副校長にやって貰うことも考えたがやはりこれは「校長の仕事」であり代行者で出来るものではない。今朝の朝会で6月から実施するよう指示を出した。
・ ただし毎月始めの「一斉参拝」は高校生の自治会代表と中学生の生徒会会長を引き連れて学院神社に参拝するし、これは高校中学合同を変えるわけには行かないのである。しかし私は良い意見を貰ったと喜んでいる。
・ そして良い意見なら直ぐ「検討しすぐ受け入れる柔軟さ」も私の真骨頂だとも思っている。しかし中学と高校の校長を兼務していると、このように無意識に課題の多い高校の話しになってしまい、「中学生そしてその保護者のお気持ち」が見えなくなってしまう危険性がある。これはやはり良くないことである。
・ 「生徒数が300人を超えた中学校は一人前の中学校」であり、公立中学校のように校長が専属で1名居てもおかしくない規模である。それだけに中学校、高等学校兼務の校長というのは理論上50%づつの時間配分としてもおかしくはないのである。
・ ところが「ほとんど全ての私立中学校、高等学校は1名の校長で校務を運営」している。分かれているのは教頭だけである。その理由は財政的な問題と言うより。「教育の視点」を合致させておきたいということではないだろうか。
・ 「中髙一貫校」なら当然として「併設タイプの中学校」でもやはり一貫した教育の展開が重要で中学と高校の校長の考えがバラバラで仲が悪いとなれば「生徒保護者にはたまったものではない」というところだろう。
・ 何しろ中学生は6年間本校に通学してくる大切な生徒集団である。私は「あどけない、素直な中学生が可愛くてならない」から今までも中学校の為には様々なことを導入してきたが今後ともその考えには変わりはない。だから今日も飛んできたのである。
・ 中学校の保護者からすれば「公立中学を止めて私学に中学から通わせている」というお気持ちはお強いだろうし、それは当然である。だったら「それなりに中学校に気を使ってね」というお気持ちは痛いほど良く分かる。
・ 従って保護者の方も浪速高校に外部から入ってくる人々と浪速中学校から内部進学してくる生徒の親では「少し様相が異なる」というのが印象である。「それは分かるような気がする。」言って見れば6年間、可愛い我が子を預ける学校だけに「学校の動きに極めて敏感」なのである。
・ 従ってPTA役員も会長や副会長さんなどは内部進学生の保護者が相対的に多くなっておられる。「学校の事情に精通」していると言う事情もあると思う。とにかく私学の経営者や教職員は「中学校への思いのおき方」に工夫が必要である。「何時も眺め、認識しています」というメッセージを中学校の保護者には常時発信していかねばならない。

・ 私のこの3年間で変わったことというのは極めて多いというかほとんど全てが変わったのであるが、最も「様変わりしたのは中学校」である。これは間違いない。「関西大学連携浪速中学校」と名前まで変えてしまった。
・ 半数以上の教員が入れ替わり、今では若いはち切れんばかりの若くて優秀な教員ぞろいになってきている。各教室にプラズマテレビを設置した。朝は8時20分から「朝学習」を又「学校行事も全面的に見直した」。「体育祭を復活させ、冬の金剛山登山」も始めた。
・ この修学旅行もコースに「種子島」を昨年から入れた。「鹿児島知覧の特攻記念館、種子島のロケット基地、そして此処世界遺産屋久島の大自然」である。私はこのコースを大変評価している。
・ 2年前は低気圧のために大雨となり「無念の撤退」で遂に縄文杉を目前にして引き返さざるを得なかった「因縁の屋久島」である。3年ぶりに中学生と縄文杉にトライすることが極めて嬉しいのである。
・ 18時30分過ぎ種子島から高速船で屋久島安房港に着く生徒たちを迎え、ホテルに投宿した。明日は午前4時30分起床である。「8時間の登山、果たして中学生に付いて行けるであろうか」。明日は頑張らねばならない。

2010年5月23日日曜日

5月23日(日)文武両立の学校を目指して





























・  昨夜のブログ「運動部への支援」に引き続いて運動部のことを書きたい。私は過日運動部の顧問先生に自ら「実力を自己判定」して欲しいと頼んだら面白いデータが届いたのである。最も良いのは特Aというもので府のトップレベルであり、言って見れば「全国区」という具合である。
・ Cと言うのは「楽しんでいるレベル」ということで最下位のレベル、この範囲を「特A,A、AB、B,BC,Cの6段階」で自己評価しているのである。Aは府内ベスト8位以内、Bは16位レベルという具合である。中々上手い表現である。
・ これは恐らく「教職員の評価育成システムの5段階表示」が「自己訓練」になっているのかも知れない。まあ部活動の方はC評価「楽しむ程度」があっても良いが仕事のほうで、BやCは困る。
・ ともかく本校は「空手道、男子弓道、女子弓道、ボクシングが全国区レベルの特A」である。これは私も認める。それは「インターハイで大阪府代表」になってくれているからである。
・ これらに続いて「A評価となると剣道部、男子卓球部、軟式野球部」が来る。案外軟式野球が頑張ってくれているのに最近気付いたのである。今までそのような認識がなくて申し訳ないことをした。そういえば入試広報室のT副室長がこのクラブの顧問であるが、時々さりげなく私に言っていたのを思い出した。
・ さて「花形(?)の硬式野球部」であるが自己評価はAB評価となっていた。これは残念である。一昨年は恐らくA評価だったろうが昨年は振るわなかったから仕方がない。その他AB評価には「ラグビー部」が来る。これは昔の完全Bから少し実力が上がってきているから希望のあるAB評価だろう。
・ 女子卓球がAB評価であり、男子と合わせて卓球は頑張っている。地味だがこれは評価しなければならない。顧問の先生が頑張ってくれている。社会科のベテラン教師だが卓球指導にも高い能力をお持ちなのである。
・ 残念ながら「サッカー部はB評価」である。宮崎遠征とか色々とやってはいるが「いま一つ」である。部員数も多いし、もう少し頑張って欲しいところだ。思い切って練習の仕方など「考え方を変えたらどうだ」と言いたい気もする。
・ その他「B評価にはアメリカン、水泳、女子ソフトテニス、男子硬式テニス、男子バスケット」が来る。テニスにはすでに2年前に「3面ある人口芝張りの立派なコート」を作っている。もう少し強くなることを期待したい。
・ 少し私の方針を変更しなければならないかも知れない。運動部特別強化クラブの認定である。まず堺の「浪速ふくろうスタジアム」についてはここでの特別練習指定クラブに軟式野球部を入れることとしたい。
・ 特別認定ということは「優先的に球場が使用」できるということだ。従って「堺の総合球場は硬式野球部、軟式野球部、ラブビー部、サッカー部、アメリカンフットボール部」となる。アメリカンは今年部員も増えて期待できそうである。
・ 新武道館の方はもう自動的に決まっている。「専用道場」があるのだから頑張って貰わねば困る。「空手道部、弓道部、剣道部に柔道部」となる。それにしても空手道部は「すごいクラブ」である。二人指導者がいるがこのコンビネーションが良いのだろう。特に「若いI先生を慕って多くの子どもが本校の空手道部に入学」したがるのである。(?)浪速高校ではない。浪高空手部だ。
・ 剣道部はこのたび顧問の「体育科のY先生が8段の免許」となった。日本でも数少ない現役レベルでは最高段位である。このような卓越した指導者と素晴しい剣道場があってトップになれない方がおかしい。近い将来を期待したい。
・ ボクシングも「赤井英和さんからの伝統」で層は薄いがちゃんと伝統を守ってくれている。「浪速ジム」も立派であり、一時期移設も考えたが「今の場所が良い」と考えるようになってきたのである。
・ 私自身としては当面の主体は硬式野球部とサッカー部とラグビー部だ。この3種目は何しろ「目立つ」。逆に言えばここが活躍してくれると新聞紙上に「浪速の名前が躍る」という訳である。今まではこれらの部に対して練習場の問題もあり、きついことも言えなかったのである。
・ しかし環境は変わる。「夜間照明付の専用の球技場が完成」するのである。ここで先生方が頑張ってくれれば生徒の意識も変わってくるだろう。私は「楽しみで、楽しみで仕方がない」のである。だから幾分「身分不相応の立派な球場」を造ることにしたのである。
・ そして「浪速武道館」を建設することとしたのである。私に言わせれば「少し贅沢」「至れり尽くせり」だと思う。しかし「今がその時」と思って踏み切ったのである。必ず顧問の先生や生徒は校長の期待に応えてくれると確信している。
・ その為にはある程度の「柔軟な生徒募集」も考えなければ成らないだろう。「がちがちなことばかり言っている」から生徒が来なくなったと言われかねないだろう。「スポーツ特待生度がないことが誇り」という時代は過ぎ去ったのではないか。
・ 「少子化時代」の中で「文武両立の学校」とは「広範囲な才能を有した生徒が持てる力を発揮できる学校」ということである。「勉強の出来る子」「スポーツの得意な子」「芸術分野に才を発揮する子」様々な生徒が集っている学校こそが「躍動し歓声のこだまする学校」だと思う。そこに今後の「私立高校の存在意義」があるのではないかと思えてならないのである。
・ 本校は「私立進学校と部活の盛んな学校」、すなわち文武両立の学校を目指していく。そしてある程度の規模の学校を維持したい。「生徒数が確保できてこそ可能」となる。生徒の少ない学校は考えただけでも空恐ろしいのである。
・ 橋下知事の仕掛ける「公私立含めた切磋琢磨」の中で「生き残って行きたい」のである。今本校で働いてくれている若い先生方が路頭に迷うことないように基礎固めをするのが私の仕事であり、責任である。
・ 堺の「浪速ふくろうスタジアム」では「神木くすのき」が植えられ「本格的夜間照明設備」が設置されつつある。「ピッチャーズマウンド」も入ってきた。「スコアボードも設置」された。形が見え初めて来ただけにここに来ると私は幸せな気持ちになるのである。